皇統章 十二神日本磐余彦天皇 ── 鸕鷀草葺不合尊の第四子底本 三二五〜三二六頁
原文
神日本磐余彦天皇。諱彦火火出見。彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊第四子也。及年四十五歳。謂諸兄及子等曰。
訓読
神日本磐余彦天皇、諱は彦火火出見。彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊の第四子なり。年四十五歳に及びて諸兄及び子等に謂ひて曰く、
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
以上は神代のことでありましたが、此の國土に初めて天皇として御君臨になつたのは神武天皇、即ち神日本磐余彦尊であります。
此の神武天皇は鸕鷀草葺不合尊といふ方の第四子でありまして、四十五歳のお年までは御歴代の後を受けて、九州の一角である所の日向の國にいらしつたのでありましたが、四十五歳のお年になつた時に、お兄上やまたお子様達などをお召びになつて、東の方に進むといふ所の趣意を御告げになりました。
解説
ここから人の世に入る。皇統章はここまで神代を語ってきた。この段から初代の天皇の話になる。
素行がまず書くのは系譜である。父は鸕鷀草葺不合尊、その第四子。そして「年四十五歳に及びて」――年齢が明記される。神話から歴史へ、書き方が変わる境目がここにある。
読むときの注意。神武天皇の即位年を紀元前六六〇年に置くのは『日本書紀』の紀年法によるもので、史実の年代ではない。明治五年にこれを暦に採り入れたのが皇紀である。
ただし本読本の関心は年代の当否ではなく、素行がこの物語から何を読み取ったかにある。
皇統章 十二(承)昔我が天神この國を擧げて天祖に授けたまへり底本 三二五〜三二六頁
原文
昔我天神高皇産靈尊大日孁尊。擧此豐葦原瑞穗國。而授我天祖彦火瓊瓊杵尊。於是彦火瓊瓊杵尊。闢天關。披雲路。駈仙蹕以戻止。
訓読
昔我が天神高皇産靈尊・大日孁尊、此の豐葦原の瑞穗國を擧げて我が天祖彦火瓊瓊杵尊に授く。是に於いて彦火瓊瓊杵尊、天關を闢き、雲路を披き、仙蹕を駈せて以て戻止りぬ。
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
其のお言葉に申しますには、昔天つ神高皇産靈尊と大日靈尊とが、此の豊葦原の瑞穗國を、皇孫である所の瓊瓊杵尊にお授けになつた。
其の時瓊瓊杵尊は、天上よりして雲を分けて、さうしてお供の神々に道案内をさせて此の地にお着きになつた。即ち彼の二柱の神の仰せに基いて、此の日本の國を經營し、永久に此の國を安らかに治めるといふ御心持で此の土地に御到着になつた。
解説
神武天皇の言葉が、そのまま前冊までの要約になっている。皇統章 その四〜その六(その四・その五・その六)で読んできた天孫降臨の一段を、当事者の口から言い直させる形になっている。
素行の編集の手つきがよく見える。『日本書紀』神武紀の詔をそのまま引くことで、降臨と東征がひと続きであることを、素行自身が説明せずに示している。
「仙蹕」は貴人の行列の先払い。小林はこれを「お供の神々に道案内をさせて」と読み下している。
皇統章 十二(承)時運鴻荒に屬ひ、時草昧に鍾れり底本 三二六頁
原文
是時運屬鴻荒。時鍾草昧。
訓読
是の時運鴻荒に屬ひ、時草昧に鍾れり。
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
此の時はまだ「鴻荒」といふのは、遠い昔の充分に開けない時代で、また「草昧」の時で、文化といふやうなものも餘り形を成さない時であつた。
解説
神代を「未開の時代」として書く。ここは注意して読みたい。素行は天孫降臨のころを鴻荒(荒れたまま)・草昧(草深く暗い)と書く。神が降りたのだから理想の世だった、とは書かない。
「草昧」は『易』屯卦の「天造草昧、宜しく侯を建つべし」――天がつくりはじめたばかりの混沌のときには、諸侯を立てて治めさせるがよい――から来ている。素行はここでも『易』の語で日本の古伝を読んでいる。
そして、混沌だからこそ次の一句(kd101)が出てくる。
皇統章 十二(承)蒙くして以て正を養ひ、此の西偏を治す底本 三二六〜三二七頁
原文
故蒙以養正。治此西偏。
訓読
故に蒙くして以て正しきを養ひ、此の西偏を治せり。
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
それであるから初めから此の國の全體を治めるといふ計畫をするよりも、先づ安全な一地方に落着いて、徐かに多勢の者を訓練して、多勢の氣風が本當に健實になつてから、此の國の中央に都を定めて、此の國の全體を治めるやうにするのが當然の順序であるといふお考へで「蒙くして以て正を養ひ」──「蒙くして」といふのは外に現はさないといふ意味で、餘り初めから大規模に、外に向つて發展するといふことを企てないで、先づ一地方に落着いて、さうしてお互ひに正しき道を守つて、共に住み共に助けるといふ習はしを養はれるために、此の西に偏つた所の日向の地方に居られたのである。
解説
この一句が、この冊のいちばんの読みどころである。
蒙以養正――『易』蒙卦の語である。素行は日向にとどまっていた長い年月を、無為の時間ではなく「正を養う」時間として読んだ。
小林の噛みくだきは的確である。「餘り初めから大規模に、外に向つて發展するといふことを企てないで、先づ一地方に落着いて」――外へ出る前に、内を整える。
【積極評価】この講義が行われたのは皇紀二千六百年(昭和十五年)前後、外へ向かう言葉が最も大きく響いていた時期である。その時期に、小林は「外に向つて發展するといふことを企てないで」という読み方をここに置いた。その三 kd48〜kd50 の議會論とは、また別の顔である。
皇統章 十三皇祖皇考、乃ち神乃ち聖 ── 慶を積み暉を重ね底本 三二七頁 欄外「積慶重暉」
原文
皇祖皇考。乃神乃聖。積慶重暉。多歷年所。
訓読
皇祖皇考、乃ち神乃ち聖、慶を積み暉を重ね、多く年所を歷たり。
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
それから其の後に至つて代々の君主がみな神聖なる所の德を具へ、また勝れた智を具へた方々であつて、此の方々が臣下の者と共に此の九州地方にお住みになつて、「慶を積み暉を重ね」、即ちお互ひに立派な行ひをなさつて、お互ひに滿足して、長い年月の間此の地方を治めていらしつたのである。
解説
「積慶重暉」。よろこびを積み、光を重ねる。一代では足りないという含みの語である。
小林の読みで注目したいのは「此の方々が臣下の者と共に」という一句である。原文は「皇祖皇考、乃ち神乃ち聖」と歴代の君主だけを挙げているのに、小林は臣下を並べて読む。
これは皇統章を通じて素行が繰り返してきた主題②――輔ける者と共に(その六 kd87「配侍せしむる五神は共に此の國に大功あるなり」)の延長にある読み方で、原文の枠を広げてはいるが、素行の意には沿っている。
皇統章 十三(承)積慶重暉 ── お互ひに滿足し合ひ、尊敬し合ひ、重んじ合ふ底本 三二七頁
原文
積慶重暉。
訓読
慶を積み暉を重ぬ。
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
此の「慶を積み暉を重ね」といふことが洵に大切なことでありまして、先づお互ひが勝れた德を具へて居られるから、お互ひに滿足し合ひ、お互ひに尊敬し合ひ、お互ひに重んじ合つて行けます。
それで一々の事がみな宜しきを得て、ますます發展をして行けるのであります。
解説
【積極評価】上から下へ、ではなく、お互ひに。
小林はここで「お互ひに」を三度重ねる――滿足し合ひ、尊敬し合ひ、重んじ合ふ。統治を、上位者から下位者への働きかけとしてではなく、相互のあいだに起こることとして読んでいる。
「積慶重暉」という四字は、本来は歴代の君主の徳が積み重なることを言った語である。小林はそれを横の関係へ開いた。
この読み方は、天先章の「禮というのは…どういう地位に居る者でも、どういう職業に携わる者でも、皆人として価値がある」(底本一五七頁)とまっすぐつながっている。
皇統章 十三(承)遼邈の地猶ほ未だ王澤に霑はず ── 一百七十九萬二千四百七十餘歳底本 三二七頁
原文
自天祖降跡。以逮于今。一百七十九萬二千四百七十餘歲。而遼邈之地。猶未霑於王澤。
訓読
天祖の降跡より以て今に逮るまで、一百七十九萬二千四百七十餘歳。而るに遼邈の地猶ほ未だ王澤に霑はず。
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
それで此の如くにして、天孫のお降りになつてから以來随分長い年月が經つた。
そこで先づ此の九州に住んで居る所の君臣の間に於ては正しい道が行はれて、上より下に至るまでみな滿足するやうになつたのであるが、これはたゞ一地方のことで、遠く遙かな所になると、まだ天孫の此の地にお降りになつた御趣意も解らないし、また善き政治も行はれて居ないから、
解説
一百七十九萬二千四百七十餘歳。『日本書紀』神武紀の詔にある数字をそのまま引いたものである。神話的な紀年であって、暦の上の年数ではない。素行も小林も、その当否には立ち入らない。
「王澤に霑はず」。王の恵みに潤っていない、という言い方に注目したい。素行が東征の理由として挙げるのは「まだ従っていないから」ではなく「まだ恵みが届いていないから」である。
治める側の未達として書いている――この向きは、中國章 その九(その九)の「都の生活が余り発達し過ぎて、地方を軽くあまく視ると、其の國は健全な発達をしない」と同じ方向を向いている。
皇統章 十三(結)邑に君あり村に長あり ── 各自ら疆を分ちて相凌ぎ轢ふ底本 三二七頁
原文
遂使邑有君。村有長。各自分疆用相凌轢。
訓読
遂に邑に君あり、村に長あり、各自ら疆を分ちて用て相凌ぎ轢はしむ。
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
方々の村に行けば其の土地を領して居る者が對立して居て、互ひに疆を分けて爭ひ合ふといふやうな狀態である。
斯ういふ狀態を此の儘にして置いては、何時まで經つても日本の國全體が幸福になるといふ譯には行かぬ。それで今までは此の九州地方で充分に謂はゆる正しい政治を行つて來たのであるから、今後は此の正しい政治を日本全國に及ぼすやうにしなければならぬ。
解説
「邑に君あり、村に長あり」。これは統一以前の実態を率直に書いた一句である。
『魏志倭人伝』が伝える「舊百餘國」の像とも重なる。神話の詔のなかに、こういう小さな共同体が並立していた記憶が残っていることは、それ自体が興味深い。
読むときの注意。この一句は統一の正当化として置かれている。争いを止めるために統一する、という論法である。この論法は、統一する側の言葉であることを忘れないでおきたい。「凌ぎ轢ふ」と評されている側にも、それぞれの由緒があったはずである。
素行が皇統章 その一(kd01)で「日本では人民が集まつて王を立てたのではない」と書いた枠組みが、ここで具体的な形をとる。
皇統章 十四鹽土老翁に聞く ── 東に美地あり、青山四に周れり底本 三二七〜三二八頁
原文
抑又聞於鹽土老翁。曰東有美地。青山四周。
訓読
抑も又鹽土老翁に聞く。曰く、東に美き地あり、青山四に周れり。
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
就いては此の地方は餘り西に偏つて居るから、日本の國の中央に當る所に行かなければならぬが、何處に都を建てたら宜からうかといふことを考へて見ると、鹽土老翁といふ者の話に依ると、東の方には大和といふ非常に美い土地があつて、其處には山が四方を繞つて居て、其の山はみな青々として非常に美しい。
解説
老人に聞く、という一句。神武天皇は東征を発意するにあたって、鹽土老翁に聞いている。
これは皇統章 その六(kd84)の「生知の聖神にして、事毎に之を問ふ」と同じ型である。天照大神は八十諸神に問い、神武天皇は老翁に聞く。素行が皇統章で繰り返し拾っているのは、この「問う」という所作である。
「青山四に周れり」――四方を山に囲まれた盆地。奈良盆地の地形の描写として、これは的確である。
皇統章 十四(承)天磐船に乘りて飛び降れる者 ── 必ず同じ血統の者に相違ない底本 三二八頁
原文
其中亦有乘天磐船飛降者。
訓読
其の中に亦天磐船に乘りて飛び降れる者あり。
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
さうして其の地方に天の磐船に乘つて天上から飛降つた者があるといふことである。
これは必ず自分と同じやうな天照大神の血統を承けた者に相違ない。さういふ者が其の大和に居つて其の一帶の土地を治めて居るといふことであるから、其の地方に行つて更に善い政治を行ひさへすれば、必ず能く治まつて、此の國の都となるのに適する所となるであらうと察せられる。それであるから其處へこれから行つて國の都を建てたいと思ふ。
解説
饒速日命のことである。前冊(kd91・kd92)で素行が先取りして引いていたあの神が、ここで本文に出てくる。
注目すべきは、神武天皇が先に大和にいた者を「敵」として語っていないことである。「必ず自分と同じやうな天照大神の血統を承けた者に相違ない」――むしろ同族だろうと見当をつけている。だからそこへ行けばうまく治まるだろう、と。
読むときの注意。これは征服の物語を、合流の物語として語る型である。国譲り(kd82)・饒速日命(kd91)と、同じ型が三度目になる。繰り返される型は、事実の反映というより語りの型と見るほうがよい。
皇統章 十四(承)彼の地は必ず以て天業を恢弘するに足るべし底本 三二八頁
原文
余謂彼地必當足以恢弘天業。光宅天下。
訓読
余謂ふに、彼の地は必ず當に以て天業を恢弘し天下に光宅するに足るべし。
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
其のよい地に國の都を建てたならば、天照大神が瓊瓊杵尊に此の國を治めろと仰せられた其の御趣意を全うすることが出來るであらう。
即ち此の國を治めるといふ事業を今までは西の方の一地方にだけ實行して來たのであるが、之を普く此の國に擴めて、さうして天下に此の正しき道を行つて、天下を安らかに治めるといふ、其の中心をこゝに定めることが出來ると思ふ。
解説
「天業を恢弘する」。天から託された事業を大きく広げる。「光宅」は光が満ちて住まうこと。
どちらも『書經』の語彙である。神武天皇の詔は、じつは漢籍の語で書かれている――『日本書紀』が漢文で編まれた書物である以上、当然のことではあるが、この段はとくに濃い。
素行がこの詔を重んじるのは、まさにその点においてでもあろう。漢籍の枠組みで書かれた日本の古伝――皇統章 その六の結び(kd96)で見た「異域堯舜禹受授の說も亦豈此に外ならんや」と、同じ地平にある。
皇統章 十四(承)蓋し六合の中心か ── 此處から東西南北に敎化を及ぼす底本 三二八頁
原文
蓋六合之中心乎。
訓読
蓋し六合の中心か。
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
此の大和が國の中心となつて、此處から東西南北の有らゆる國々に敎化を及ぼすといふことになつたならば、此の九州地方が今までよく治まつた通りに、日本の國全體が安らかに治まるであらう。
斯うして初めて天照大神が此の國を天孫にお授けになつたといふ御趣意が全うされるであらう。
解説
「六合」は天地と東西南北、すなわち世界のすべてを指す語である。『莊子』斉物論などに見える。
読むときの注意。神武紀のこの詔の少し先には、「六合を兼ねて以て都を開き、八紘を掩ひて宇と爲さん」という句がある。この「八紘為宇」が、昭和十五年に八紘一宇という標語に仕立て直された。
だが原文の文脈は、大和に都を開くという話である。小林もここでは「日本の國全體が安らかに治まるであらう」と、国内の話として読んでいる。この読み方を保っている点は記録しておきたい。
皇統章 十四(承)遂に東を征ちて中州を定む ── 二千六百餘年底本 三二八頁
原文
遂東征定中州。
訓読
遂に東を征ちて中州を定む。
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
斯う仰せられて、天皇は遂に東の方にお向ひになり、「中州」即ち日本の中央である所の大和地方をお定めになりました。
これが日本の人皇の代に於ける初めといふことになつて居るのでありまして、これより先づ今日まで二千六百餘年を經て居る譯であります。
解説
「二千六百餘年」。この一語が、この講義の年代を教えてくれる。皇紀二千六百年は昭和十五年(一九四〇)。皇統章 その四(kd66)でも同じ数字が出ていた。
皇紀二千六百年は、全国で記念行事が催された年である。同じ年の九月には日独伊三国同盟が結ばれ、十月には大政翼賛会が発足している。この講義は、そういう年の講義である。
読むときの注意。「二千六百餘年」という数え方自体が、『日本書紀』の紀年をそのまま暦に据えた明治五年の決定にもとづく。史実の年数ではない。
皇統章 十四(結)是れ人皇の中州を平げ、天祖の降跡を續くる始めなり底本 三二八頁
原文
謹按。是人皇平於中州。續天祖之降跡始也。
訓読
謹みて按ずるに、是れ人皇の中州を平げ、天祖の降跡を續くる始めなり。
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
それで素行が考へるのに、これが神代の御精神を承け繼がれ、人間の世の天皇が國を平かに治められて、天孫降臨の御精神をお繼ぎになるといふことの初めである。
解説
素行が引いた区切り。「人皇」――人の世の天皇である。神代と人代の境目が、ここに置かれる。
注目したいのは「續くる」という語である。断絶ではなく継続として書く。前段の按語(その六 kd83)が「是れ天孫降臨の始めなり」だったのと対になっている。降りた/継いだ――この二つで一組である。
そして「平げ」の一字。素行は東征を「平定」と書く。前段では国譲りを「誠款の至りを陳ぶ」と書いていた。同じ書物のなかで、譲られたときと平らげたときとを、素行は書き分けている。
皇統章 十五辛酉の年春正月、橿原の宮に帝位に卽く底本 三二九〜三三一頁 欄外「神武天皇の卽位」
原文
辛酉年春正月庚辰朔。天皇即帝位於大倭州橿原宮。是歲爲天皇元年。
訓読
辛酉の年春正月庚辰の朔、天皇大倭の州橿原の宮に於いて帝位に卽く。是の歳を天皇元年と爲す。
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
辛酉の年の春正月に、神武天皇が橿原の宮に於て帝位にお卽きになりました。
これが天皇の元年といふのであつて、これより日本の紀元が始まりまして、今日まで二千六百餘年の久しきに及んで居るので、尚ほ何時までも永久に續いて行かなければならぬのであります。
解説
辛酉の年。『日本書紀』はこの年を紀元とする。讖緯説にもとづいて後から逆算されたものだ、というのが明治以来の研究の到達点である(那珂通世「上世年紀考」明治三十年)。
ただし。年代が神話的であることと、この物語が何を語ろうとしているかとは別の問題である。素行が読んでいるのは年代ではなく、「位に即く」とはどういうことかである。次段からがそれになる。
皇統章 十五(承)正妃を尊んで皇后と爲し、皇子を立てて皇太子と爲す底本 三二九・三三一〜三三二頁
原文
尊正妃爲皇后。立皇子神淳名川耳尊爲皇太子。
訓読
正妃を尊んで皇后と爲す。皇子神淳名川耳尊を立てて皇太子と爲す。
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
そこで天皇が既にお立ちになりましたから、今まで妃といふものはおありになつたのでありますが、此の天皇の妃であつた方を改めて尊んで、皇后と申上げたのであります。此の時新しく皇后をお迎へになつた譯ではないので、天皇が御位にお卽きになりましたから、皇后のお名前をも正しくされた譯であります。
そこでまた皇子の神淳名川耳尊といふ方を立てゝ皇太子とされました。此の皇太子をお立てになつたのは同じ年ではないので、後にもありますやうに、卽位後四十二年の時でありましたが、併し此の天皇、皇后、皇太子、これは何れもお揃ひにならなければならぬ方でありますから、併せて此處に書いたものと思はれるのであります。
解説
【積極評価】年代の食い違いを、ごまかさずに指摘している。
素行の原文は即位・立后・立太子を一続きに並べているが、『日本書紀』では立太子は即位後四十二年のことである。小林はそれをそのまま述べたうえで、「併せて此處に書いたものと思はれる」と自分の推測として断る。
この態度は、皇統章 その四(kd63)で智仁勇の解釈を「漢學の方の思想」と切り分けたのと同じものである。典拠と解釈を分ける――小林の側の一貫した美点として数えてよい。
なお神淳名川耳尊はのちの綏靖天皇にあたる。
皇統章 十五(承)我が國の卽位の式 ── 御宣言に相成れば、それで濟む底本 三三二頁
原文
謹按。是天皇即位之始也。
訓読
謹みて按ずるに、是れ天皇卽位の始めなり。
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
そこで此の卽位の式といふものは、無論外國にもこれに準ずべきものはありますが、我が國の卽位の式は神様の裔の方が御位をお繼ぎになるのでありますから、他の國の卽位の式といふやうなものとは全く其の趣きを異にして居るのでありまして、天皇が自ら天皇の位に卽くといふことを御宣言に相成れば、それで御卽位の式は濟むのであります。
外國のやうに神の助けを祈るとかいふやうなことの必要はない。こゝに日本の國體の特別な所があるのであります。尚ほ此の事は後の方に至つて稍々詳しく申さうかと思ひます。
解説
【転回(二)】この段は注意して読みたい。
小林は「外國のやうに神の助けを祈るとかいふやうなことの必要はない」と書く。だがこれは事実として正確ではない。
日本の即位儀礼はむしろ祈りの積み重ねである。大嘗祭は新穀を神に供える祭であり、中世には即位灌頂という密教的な儀礼も行われた。「宣言すれば済む」という制度ではない。
そして論法の型に注意。「我が国は◯◯だが、外国は△△だ」――自国の側だけを理念で、他国の側だけを実態で語る。これは中國章以来くり返し現れてきた転回(二)(ck65・ck73・ck116・ck142)そのものである。
素行の原文はここで何も言っていない。「是れ天皇卽位の始めなり」とだけ書き、次段からは磤馭盧島の柱の話に入る。比較を持ち込んだのは小林である。
皇統章 十五(承)磤馭盧島を以て國中の柱と爲す ── 皆後世卽位の意なり底本 三二九・三三二頁
原文
初天神以磤馭盧島爲國中之柱。分巡國柱。
訓読
初め天神磤馭盧島を以て國中の柱と爲し、以て國柱を分ち巡る。
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
そこでこれに就いて素行の意見を述べて申しますには、これが天皇といふ方の御卽位の初めである。勿論ズット前から此の國の君主といふものは上にいらしつて、謂はゆる神代に於ても國をお治めになつたのでありますが、天皇として御卽位を御宣言になるといふことは神武天皇に始まるものと考へなければならぬのであります。
それで一番初めに伊弉諾・伊弉冊尊が磤馭盧島を國の柱とされたといふことがあり、又此の國の柱を巡つて御夫婦の御契約をなさつたといふことがあつて、これが實は日本の國を經營するといふことの初めでありますから、謂はゆる卽位といふことに準ずべきものであるが、併しながら此の時は卽位といふ名はまだ定まつて居なかつたのであります。
解説
素行の三段構え。①磤馭盧島の柱(伊弉諾・伊弉冊)→ ②浮渚在平處の宮殿(天孫)→ ③橿原の卽位(神武天皇)。この三つを「皆後世卽位の意なり」――みな後世の即位にあたるもの――として一続きに読む。
これは形式の話ではなく、意味の話である。柱を立てること、宮殿を建てること、位に即くこと――形は違うが、いずれも「中に立つ」という同じ行為の反復だ、という読み方である。
皇統章の主題がここで一つに結ばれる。中國章で素行が「中を得た」ことを国の名の由来としたのと(中國章 その三)、皇統章の「中州を定む」とが、同じ一語でつながっている。
皇統章 十五(承)浮渚在平處に立たして宮殿を立つ ── 君主の住まひを定める底本 三二九・三三二〜三三三頁
原文
天孫立於浮渚在平處。立宮殿。皆後世即位之意也。
訓読
天孫浮渚在平處に立たして宮殿を立つ。皆後世卽位の意なり。
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
それから天孫が海の上に浮んだ平らかなる所に御殿をお建てになつたといふことも傳へられてありますが、これもたゞ家を建てるといふことではなく、卽ち一國をお治めになる君主のお住まひを定められたのでありますから、これも亦卽位といふことの意義にはなるのであります。
併しながら卽位といふ名の始まつたのは神武天皇の御時からであると申すのであります。
解説
「たゞ家を建てるといふことではなく」。小林のこの一句が、素行の読みを言い当てている。
宮殿を建てるとはその場所を国の中心と定めることである。だから柱を立てることと同じ意味を持つ。
「浮渚在平處」は『日本書紀』の難語で、読み方にも諸説ある。浮き島の平らかなところと読むのが一般だが、確かなことは分からない。素行も小林も、そこは深追いしない。
そして「卽位といふ名の始まつたのは神武天皇の御時から」――実は前からあったが、名はここからという整理である。皇統章 その六の結び(kd95)で見た「名はないが、実はある」という素行の論法が、ここでは逆向きに使われている。
皇統章 十六洪濛の間、悠久にして以て正を養ふ底本 三三〇・三三三頁 欄外「卽位の意義」の前
原文
洪濛之間。悠久以養正。
訓読
洪濛の間、悠久以て正しきを養ふ。
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
それで神武天皇までの間は、何分にも「洪濛の間」──國が本當に開けない狀態でありますから、それで久しい年月の間大和にはおいでにならないで、九州の一地方である所の日向に在つて、「正を養ふ」卽ち正しき道を以て君臣上下の別を立て、國民が各々其の業に力を盡すやうに之を御指導になつて居られたのであります。
解説
「蒙以養正」がここでもう一度出てくる。kd101 で読んだ一句が、卽位の按語のなかで繰り返される。素行がこの語を重く見ていたことの証しである。
小林の噛みくだきは、kd101 の「外に向つて發展するといふことを企てないで」から一歩進んで、「國民が各々其の業に力を盡すやうに之を御指導になつて」――それぞれが自分の仕事に力を尽くせるようにする――と説く。
これは皇統章 その三(その三)の「其の所を得さへすれば誰でも……存在の意義の全く無いといふものは一人もない」と同じ主題である。素行の主題③――適材適所が、建国の物語のなかにも置かれている。
皇統章 十六(承)帝は明達大雄、善く乾靈の志を繼ぎ、善く皇孫の事を述ぶ底本 三三〇・三三三頁
原文
帝明達大雄。善繼乾靈之志。善述皇孫之事。
訓読
帝明達大雄、善く乾靈の志を繼ぎ、善く皇孫の事を述ぶ。
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
ところが斯様に長い年月を經る間に、神武天皇といふ非常に優れた方が御出現になつて、お德も勝れていらつしやるし、また前途を見透す所の勝れた智慧をも具へていらつしやつて、いよいよ日本の國の都を中央に奠めなければならぬといふことで、大和に向つて御出發になつたのであります。
其の時には卽ち天照大神が此の日本の國を皇孫にお授けになつた其のお志を繼いで、さうしてこれを全うしようといふ御決心であつたのであります。また皇孫瓊瓊杵尊以來洵に善い政事を行うていらしつた、此の御精神を更に全國に及ぼさうといふお考へでありました。
解説
「善く繼ぎ、善く述ぶ」。『中庸』の「夫れ孝なる者は、善く人の志を繼ぎ、善く人の事を述ぶる者なり」を踏まえた句である。素行は神武天皇の東征を孝の行いとして書いている。
これは注目してよい。征服でも建国でもなく、先祖の志を継ぐこととして位置づけられている。「繼ぐ」と「述ぶ」――どちらも自分から始めるのではないという語である。
皇統章 その六(kd94)の「聖主萬萬世の嚴鑑」――位が高いほど鑑は厳しい――と、向きは同じである。上に立つ者は、自分の判断だけで立っているのではない。
皇統章 十六(結)一たび戎衣して東方服す ── 卽位の大禮を開く底本 三三〇・三三三頁
原文
一戎衣而東方服。故建人皇之洪基。開即位之大禮。
訓読
一たび戎衣して東方を服す。故に人皇の洪基を建てて卽位の大禮を開く。
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
さうして「戎衣して」といふのは武裝を調へて、東の方に向はれたのであります。
無論敵に勝つといふことが主ではありませぬけれども、御事業の妨げをする者があれば之を討ち平げなければ御事業は完成されませぬから、そこで武を以て國を建てられた譯であります。
そこでいよいよ大和地方が平らぎましたから、天皇の國をお治めになるといふ基礎を其處へシッカリとお定めになつて、卽位の大禮といふものをお擧げになつたのであります。
解説
「一戎衣」。『書經』武成の「一たび戎衣して天下大いに定まる」から来た語で、『中庸』にも引かれる。ひとたび軍装をととのえただけで――つまり長く戦わずにという含みの語である。
そして小林の但し書き。「無論敵に勝つといふことが主ではありませぬけれども」――この一句が置かれた年を思い出したい。皇紀二千六百年前後、日中戦争は四年目に入り、翌年には対米開戦が控えていた。
【積極評価】その時期に、建国神話の武の場面を講じながら、「勝つことが主ではない」とわざわざ断っている。そして続けるのも「御事業の妨げをする者があれば」という限定つきである。武を目的ではなく手段として位置づける読み方を、小林はここで保っている。
──神武天皇の東征と卽位はここまで。次冊は欄外「卽位の意義」から、素行の三綱論(即位・立后・立太子=君臣・夫婦・父子)に入る。