神教章 十二治國の第一義 ── 太子を立てるは民間にも通じる道底本 下巻 十五頁
原文
(小林の講義による敷衍。原文には對應する漢文なし。)
訓読
(原文なし。小林一郎の講義による敷衍箇所。)
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
素行がなほ此処に就いて自分の意見を加へて申しますには、伊弉諾、伊弉冊尊の二柱の神が一番初めによく夫婦の道を正し、國を繼ぐべき太子を立てるに就いて、過ちがあればこれを改め、素戔嗚尊に對して永く遺されたお心持は、洵に尊いことと申さなければなりません。世の中といふものは廣いものであつて、人間の数も多いのでありますから、此の世の中を治めるのには、徳のある人でなければ決して治め得られない。また人民はみな其の君主を手本として、銘々の事に力を盡すのでありますから、根本の徳がなければ人の上には立てないといふことになるのであります。抑々君主が太子を立てるといふことを仰せられたのは、獨り一國の君主に限つたことではなく、民間に於て繼嗣を定めるにも此の心得がなければならないのであります。自分の愛する子であれば、たとひ徳がなくてもこれに後を承けさせるといふのは、御先祖の後を承け、天下を重んずる爲めの事柄を輕んずることになるのに、動もすると親子の間に於て愛情といふものが主になつて、此の根本を忘れさせるのであります。
解説
「治國の第一義」という見出しのもとで、太子を建てる教えが民間の家督相続にまで敷衍される。前冊(神教章 その一)の「不可以君臨宇宙」の九字(kg11)を、小林はここで一國の君主に限らない、あらゆる継承の場面に通じる道理として読み広げる。
「動もすると親子の間に於て愛情といふものが主になつて」という一言は、前冊の外家擅権・宮闈預政の戒め(kg06)とも通じる、素行に一貫する厳しさである。
神教章 十三胎教の本 ── 子供を教へるは胎内にある時から底本 下巻 十六〜十八頁
原文
(小林の講義による敷衍。原文には對應する漢文なし。)
訓読
(原文なし。小林一郎の講義による敷衍箇所。)
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
お治めになる所の領内の人民といふものは、みな其の君主の心持を手本として銘々の領内を治めなければならないのでありますから、若し其の君主の心得が足りなければ、これ等のことに深く氣を付けなければなりません。それであるから此の二柱の神様の戒めといふものは、獨り一國の君主のみならず、國の君主のみならず苟くも人の上に立つ者に對して、みな適切なる所の教訓をお與へになつたものと申して宜しいのであります。それで『外朝』――即ち支那に於きましても、昔の聖賢たる者が、家を繼ぐに就いていろ〳〵教訓を立てて居りました。此の教訓は『千差萬別』――即ち支那に於ても、昔の聖賢のお心持に適ふか適はないかといふ所に歸着するのであります。要するに道を守る者は人の上に立てるし、道を守らない者は人の上には立てない。それからまた陰陽の理に違つたことがあつたので、蛭兒といふ役に立たないお子さまがお生れになつたといふことは、後に謂ふ『胎教』といふことの本になるのであります。子供が胎内にある時から其の親は自分の行ひを愼しんで、世の中に生れない内から子供に教へを與へなければならないといふのが『胎教』であります。
解説
「胎教」――教育は生まれてから始まるのではない、という考え方の敷衍。前冊末尾の「天神胎教之戒」(kg11)を承けて、ここでは蛭兒命の記事を「胎教の本」として、より具体的に読み解く。
「外朝の教訓もまた千差萬別」という言い方は、神器章での外朝比較(sk23)と同じく、支那の事例を参照しつつも我が国固有の筋を重んじる、素行に一貫する構えである。
神教章 十四天照大神の幽居 ── 天石窟の段底本 下巻 十九〜二十頁
原文
天照太神入于天石窟。閉磐戸而幽居焉。故六合之内常闇。于時八十萬神會合於天安河邊。計其可禱之方。故思兼神深謀遠慮。使長鳴。──常世之長鳴鳥。──互長鳴。亦以手力雄命立於磐戸之側。而不知晝夜之相。中臣連遠祖天兒屋命、忌部遠祖太玉命、掘天香山之五百箇眞坂樹。上枝懸八坂瓊之五百箇御統。中枝懸八咫鏡。──一云眞經津鏡。──下枝懸青和幣・白和幣。──和幣此云尼枳底。──相與致其祈禱焉。又猿女君遠祖天鈿女命。則手持茅纏之矟。立於天石窟戸之前。巧作俳優。
訓読
天照太神天石窟に入りまして、磐戸を閉ぢて幽居す。故に六合の内常闇なり。于時八十萬神天安河邊に會合して、その禱るべきの方を計ふ。故に思兼神深く謀り遠く慮りて、長鳴せしむ。──常世の長鳴鳥。──互に長鳴きせしむ。亦手力雄命を以て磐戸の側に立て、晝夜の相を知らず。中臣連の遠祖天兒屋命、忌部の遠祖太玉命、天香山の五百箇眞坂樹を掘る。上枝には八坂瓊の五百箇御統を懸け、中枝には八咫鏡を懸け、──一に眞經津鏡と云ふ。──下枝には青和幣・白和幣を懸け、──和幣此を尼枳底と云ふ。──相與にその祈禱を致す。又猿女君の遠祖天鈿女命は、則ち手に茅纏の矟を持ち、天石窟戸の前に立ちて、巧に俳優を作す。
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
天照大神が天の石窟にお入りになり、磐戸を閉ぢてお隠れになりました。それで天地四方のうちは常闇となりました。此処に於て八十萬の神々が天安河邊にお集まりになつて、其の祈るべき方法をお計りになりました。それで思兼神が深く謀り遠く慮つて、長鳴鳥――常世の長鳴鳥に互ひに長鳴きをさせました。また手力雄命を磐戸のかたはらにお立たせになつて、晝夜の別も判らなくなつたのであります。中臣連の遠祖天兒屋命と、忌部の遠祖太玉命とが、天香山の五百箇の眞坂樹を掘り取つて、上の枝には八坂瓊の五百箇の御統を懸け、中の枝には八咫鏡――一に眞經津鏡とも申します――を懸け、下の枝には青和幣・白和幣――和幣は之を尼枳底とも申します――を懸けて、お二方でお祈りを捧げられました。また猿女君の遠祖天鈿女命は、手に茅纏の矟を持ち、天石窟戸の前にお立ちになつて、巧みに舞ひ演じられたのであります。
解説
天照大神の岩戸隠れの場面。素行はこの神話を単なる伝承としてではなく、危機に際して神々が集まり、はかり、それぞれの役を果たす場面として引く。八十万神が会合し、思兼神が策を立て、手力雄命が力を、天兒屋命・太玉命が祭祀を、天鈿女命が芸能を担当する――分業と協働がここにそろっている。
次段の「謹按」(kg17)はこの構図から「神代思學の義」を取り出す。全集版の対応節はsg07。
神教章 十五天照大神の幽居(つづき)── 國中常闇となる底本 下巻 二十頁
原文
(小林の講義による敷衍。原文には對應する漢文なし。)
訓読
(原文なし。小林一郎の講義による敷衍箇所。)
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
次には天照大神が一時世の中から隠退なされた前後の事情に就いて記してあるのであります。素戔嗚尊の行ひが餘り荒々しい爲めに大いに心を傷められて、天照大神が世の中に出ていらつしやることがお出來にならなくなり、暫く磐戸の中に閉籠つていらせられたのであります。此の天照大神が在ませられない爲めに、國中が眞暗になつてしまつて、晝夜の別も判らなくなつたといふことであります。これは詰り徳の最も勝れた君主が世の中から離れておしまひになれば、國中がマルで暗闇と同じになるといふことを表はして居るのであります。それで八十萬の神々達が天安河邊といふ所に相談致しました。此の方が再び世の中にお出でになつて頂きたいと思ふ心持で、みな心を協せて弊戸の前に立ちて踊りを踊つて、其の賑やかな様子が自然に弊戸の中までも聞えるやうにして、さうして弊戸の中に立つて踊りを踊つて下さることをお待ち申して居つたといふのであります。
解説
「徳の最も勝れた君主が世の中から離れれば、國中が暗闇と同じになる」という寓意。天照大神お一人の不在が国中の常闇として描かれるのは、君主の徳がそのまま国の明暗を決めるという、神器章の「鏡は本明かにすべきの象あり」(sk27)とも通じる発想である。
次段(kg16)では、この危機に際して八十万神それぞれが異なる持ち味を発揮する様が語られる。
神教章 十六各自の自重と協力底本 下巻 二十一頁
原文
(小林の講義による敷衍。原文には對應する漢文なし。)
訓読
(原文なし。小林一郎の講義による敷衍箇所。)
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
此の事實は要するに、國に於ても其の通りでありまして、或る者は人の心を和らげる働きに於て秀でて居り、或る者は智慧が勝れて居り、或る者は技藝に秀でて居り、或る者は人を懐ける徳を持つて居り、或る者はまた國の前途を考へる所の分別に富んで居るといふやうな譯で、いろ〳〵な人間の働きといふものは、みな此の國を發展させる爲めに必要なのであります。此の弊戸の外に集まつた神々でも、思兼神のやうに智慧の勝れた方もあり、手力雄命のやうに勇氣の勝れた方もあり、天鈿女命のやうに藝の勝れた方もあり、太玉命のやうに寛仁な方もある。それであるから協力一致の實を挙げるといふことが最も肝要なのであります。これは今後に於ても人間が居ります限り、或る者は艱難を冒して行く所の勇氣を具へなければならないし、また他の人の長所を尊敬して、お互ひにいろ〳〵な人間の働きといふものはみな國の發展に必要なのであると解釋することが最も肝要な點であると解釋すべきであります。
解説
神々の分業を、そのまま人間社会の協力論として読み替える一段。思兼神の智慧、手力雄命の勇力、天鈿女命の芸、太玉命の寛仁――それぞれ異なる持ち味が、一つの危機を乗り越えるために持ち寄られる。
「或る者は艱難を冒して行く所の勇氣を具へなければならない」という言い方は、次段(kg17)の謹按で「思」と「兼」とに分けて論じられる知の構造(考えることと、外に事をなすこと)の下敷きになっている。
神教章 十七謹按 ── 是れ神代思學の義なり底本 下巻 二十二頁
原文
謹按。是神代思學之義也。初雖有二神共議。──立於天浮橋之上共計曰。──未及然詳。凡學者成于思。思者審于學。蓋思兼神者神代思學睿聖之神歟。──思在兼。不兼則思在臆説。──然則思者審内致其知慮。兼者外盡其事物也。萬億世之被其幸。宜哉天安河邊之謀得其道。而大神復其初。此斯民之直道乎。手力雄神。天鈿女命之勇略也。其所懸之靈璽寶鏡。天兒屋命。其所持之茅纏矟。太玉命之寛仁也。其嘯樂之悠然。事物茲善盡美盡。神何不復其初乎。
訓読
謹みて按ずるに、是れ神代思學の義なり。初め二神共議すること有りと雖も、──天浮橋の上に立ちて共に計りて曰く。──未だ然るに詳かなるに及ばず。凡そ學は思に成り、思は學に審なり。蓋し思兼神は神代思學睿聖の神か。──思は兼るに在り。兼ねざれば則ち思は臆説に在り。──然らば則ち思者は内に其の知慮を審にし、兼る者は外に其の事物を盡くすなり。萬億世の其の幸を被る、宜なるかな天安河邊の謀その道を得て、大神その初に復りたまふ。此れ斯の民の直道か。手力雄神・天鈿女命の勇略なり。其の懸けし靈璽寶鏡、天兒屋命。其の持てる茅纏の矟、太玉命の寛仁なり。其の嘯樂の悠然たる、事物ここに善を盡くし美を盡くせり。神なんぞ其の初に復らざらんや。
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
謹んで按じまするに、是れが神代に於ける思學――考へることと學ぶこととの意義であります。初め二神が共に議られたことがありましたが――天の浮橋の上にお立ちになつて共に計られたと申します――未だ其の詳しいことには及びませぬ。凡そ學ぶといふことは思ふことに於て成り、思ふといふことは學ぶことに於て審らかになる。思兼神といふ方は、神代に於て思學の道に最も睿く聖なる神ではないでせうか。思といふ字には兼ねるといふ意味が籠もつて居るのであつて、兼ねなければ思ふことも臆説に止まる。然らば思ふ者は内に其の知慮を審らかにし、兼ねる者は外に其の事物を盡くすのであります。萬億世の後までも其の幸ひを被るのは、宜なるかな、天安河邊の謀が其の道を得て、大神が再びもとにお還りになつたからであります。此れこそ民の直き道ではないでせうか。手力雄神・天鈿女命の勇略、其の懸けた靈璽寶鏡は天兒屋命、其の持つた茅纏の矟は太玉命の寛仁であります。其の嘯樂の悠然たる有樣――事物ここに善を盡くし美を盡くして居ります。神なんぞ其の初めに復らざらんや。
解説
「思」と「學」とが互いに支え合うという、神教章前半の要となる論。「學は思に成り、思は學に藉る」――全集版のサブタイトルにも掲げられる本章全体の主題が、ここで初めて明確に語られる。
思兼神の名そのものに「兼ねる」の意が籠もる、という語義解釈は、神器章での「神」と「鏡」の語義解釈(神教章 その一とは異なる巻だが同工の手法)と同じ、素行・小林に共通する言葉へのこだわりである。全集版の対応節はsg08。
神教章 十八學問の仕方 ── 聖學の道を演ぶるも之に外ならず底本 下巻 二十三〜二十四頁
原文
以聖學之道演之亦不外焉。夫人。不思不學則不異禽獸。思不學而事物之思在兼。思之如質鬼神。建諸天地而不悖也。或以悦或懌。著明而教學俛焉不休。是乃天行健。有力行有近本有遠致。窮諸天以樂之。萬世之今讀此一章。以知聖學之淵源始終於此神之道。其誠不可掞著明如此。以上神代思學之説。
訓読
聖學の道を以てこれを演ぶるも亦これに外ならず。夫れ人たる、思はず學ばざれば則ち禽獸に異ならず。思ひて學ばずして事物を之を思ふは兼ぬるに在り。之を思ふは鬼神に質すが如く、諸を天地に建てて悖らざるなり。或は以て悦び或は懌び、著明にして教學俛焉として休まず。是れ乃ち天行健なり。力行有り近本有り遠致有り。諸を天に窮めて以てこれを樂しむ。萬世の今此の一章を讀みて、以て聖學の淵源此の神の道に始終するを知る。其の誠掞著明らかにすべからざること此の如し。以上神代思學の説。
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
此の天の岩戸の事實に就いて、更に素行が自分の意見を加へて申しますには、聖學の道を演べるのも、亦此処に外なりませぬ。夫れ人たる者は、思はず學ばざれば禽獸と異なりません。思ふても學ばなければ、事物に對して之を思ふといふことは、萬事を兼ね合はせることに在るのであります。之を思ふは鬼神に質すがごとくに愼重にして、天地に建てても悖らないやうにしなければなりません。或は悦び或は懌んで、著しく明らかにして教學を怠らず、日に新たに努めて休むことがない。これが天の道の健やかなる所以であつて、力行あり近本あり遠致あり、天の理を窮めて之を樂しむのであります。萬世の今、此の一章を讀んで、聖學の淵源は此の神代の道に始終することがよく解ります。其の誠の掲げ著すべからざること、此の如くであります。
解説
「思はず學ばざれば則ち禽獸に異ならず」――神教章前半のもう一つの要。思兼神の議を承けて、素行は「思ふ」ことと「學ぶ」ことの往復こそが人を禽獣から分かつ、と説く。
末尾の「天行健」(天の道は健やかである)は『易経』乾卦の「天行健、君子以自彊不息」に依る言葉で、教学を怠らず日々努めることの根拠を天地の理そのものに求める、素行らしい結び方である。全集版の対応節はsg09。次冊(神教章 その三)では高皇産靈尊が八十諸神に「當に誰を遣はすべきぞ」と問う、「問學の義」に進む。