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中朝事實 九(禮儀章 上)

山鹿素行 著 ── 禮は上下を辨じて、以て天下の人心を定む 原文・訓読・現代語訳・解説の四層

この読本について

『中朝事實』第九章、禮儀章です。原本で五十ページに及ぶ最長の章のため、上・中・下の三分冊に分けます。この上巻は、章の総論から百官の設置までを収めます。

素行の「禮」は、行儀作法のことではありません。「禮は上下を辨じて以て天下の人心を定め、貴賤を分ちて以て天下の使用を通ずるの道なり」――秩序そのものを指します。しかもその秩序は人が作ったのではなく、天が上にあり地が下にある、その形を人が写し取って「禮」と名づけたのだ、という。

この総論のあと、彼は日本の記録から禮の起源にあたる場面を順に拾っていきます。伊弉諾・伊弉冉の二神が国生みをやり直した話(男女の順序)、素戔嗚尊の無狀と天石窟(無禮のもたらすもの)、允恭帝の探湯(氏姓の混乱を正す)、推古朝の憲法十七条(禮を文章にした最初)、神武帝の即位(即位の禮)、后妃の建立、皇太子の建立、太子の論教、雄略帝の遺詔、諒闇と喪服、功臣の封と官職の設置、冠位十二階と八省百官――。

読みどころ。第三節の「無狀は禮儀なきの言なり」から始まる一段は本章の白眉です。禮がなければ上下が混じり、上下が混じれば人はそれぞれ自分の情のままに動く。強きは弱きを陵ぎ、富めるは貧しきを侮り、大は小を傾ける。だから邪と正とが見分けられなくなる。天照大神が石窟に籠って六合が常闇になったのは、無禮の世がまさにそういう闇であることを示されたのだ――と素行は読みます。

もう一つは第十七節前後。「上智と下愚とは移らず、而も亦た得易からず。多くは唯だ中人のみ」。世の大半を占める中間の人は、慣習と薫陶とでその気質が決まる。だから建儲(世継ぎを定めること)と論教(教育)とは、どちらか一方では足りない、と説きます。

翻刻について。原文・訓読文は廣瀬豊編『山鹿素行全集 思想篇 第十三巻』の影印からの文字起こしに目視校正を加えたものです。旧字体・異体字を含む古い活字のため、なお誤りが残っている可能性があります。現代語訳と解説はこの読本のために新たに書き起こしたものです。

色分けの凡例

『日本書紀』(本文・一書)本朝の古典(古語拾遺・舊事本紀・元々集ほか)漢籍(易・書・詩・論語・孟子ほか)制度・地理・故事

主要語彙集

(れい)
本章の中心語。素行の定義は「上下を辨じて以て天下の人心を定め、貴賤を分ちて以て天下の使用を通ずるの道」。作法ではなく秩序そのもの。
無狀(ぶじょう)
『日本書紀』が素戔嗚尊の乱暴を評した語。素行は「無狀とは禮儀なきの言なり」と読み替え、章の要とする。
條理(じょうり)
筋道。「理とは條理なり。條理ありて亂れざる者は禮なり」──素行は理と禮とを同じものの別名とする。
盟神探湯(くかたち)
熱湯に手を入れさせ、火傷の有無で真偽を判ずる古代の裁き。允恭天皇四年、氏姓の詐りを正すのに用いられた。
八色の姓(やくさのかばね)
天武天皇十三年に定めた真人・朝臣・宿禰・忌寸・道師・臣・連・稲置の八階。素行は氏姓を明らかにする制度として引く。
憲法十七條(けんぽうじゅうしちじょう)
推古天皇十二年、聖徳太子の制定。その第四条「群卿百寮、禮を以て本と爲す」を素行は本章の柱に据える。
卽位の禮(そくいのれい)
「卽位は人君の大禮なり」。神武天皇の橿原即位を素行はその始めとし、正朔・授時と結びつける。
建儲(けんちょ)
世継ぎ(皇太子)を定めること。「建儲の禮は天下の大本なり」「蚤く定むるを貴ぶ」。
論敎(ろんきょう)
太子の教育。師傅を置き、典籍を習わせること。素行は建儲と論教とを一組と見る。
顧命(こめい)
君主が臨終に遺す命。雄略天皇の遺詔を素行は「顧命の禮」として高く評価する。
諒闇(りょうあん)
天子が父母の喪に服する期間。神武天皇崩御のくだりを素行は「諒闇の禮」と読む。
冠位十二階(かんいじゅうにかい)
推古天皇十一年に定めた位階。素行は孝德朝の八省百官とあわせ「百官を立つるの始」とする。
文武の二職(ぶんぶのにしょく)
「官は惟れ百にして、その統ぶるところは文武の二職に在り」。文は禮を守り、武は違うものを糾す。

登場する神・人物

伊弉諾尊・伊弉冉尊(いざなきのみこと・いざなみのみこと)
国中の柱を巡って言葉を交わし、陰神が先に唱えたために改めてやり直し、大日本豐秋津洲を生んだ。素行は「天神禮を正したまふの儀」と読む。
素戔嗚尊(すさのおのみこと)
その行いが「甚だ無狀」であったため、天照大神は天石窟に籠られた。
天照大神(あまてらすおおみかみ)
素戔嗚尊の無禮を憤って石窟に入り、磐戸を閉じられた。素行はこれを「無禮なるときは天下の邪正混ず」ことを示された教えと読む。
允恭天皇(いんぎょうてんのう)
四年、氏姓の詐りを正すために盟神探湯を行わせた。
聖徳太子(しょうとくたいし)
推古天皇十二年、憲法十七条を制定。第四条に「群卿百寮、禮を以て本と爲す」とある。素行は「その功、大なるかな」と評する。
神武天皇(じんむてんのう)
橿原宮での即位、媛蹈韛五十鈴媛命の立后、神渟名川耳尊の立太子、道臣命らへの論功行賞──本章はその多くを「禮の始め」として引く。
媛蹈韛五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)
神武天皇の正妃、のち皇后。素行は「后妃建立の始」とする。
仁德天皇(にんとくてんのう)
元年、詔して磐之媛を皇后とし「禮儀を備へて内を修む」ことを命じた。
豐城命・活目尊(とよきのみこと・いくめのみこと)
崇神天皇の二皇子。夢によって嗣を定められ、活目尊が皇太子、豐城命が東国の統治に当たった。上毛野君・下毛野君の祖。
阿直岐・王仁(あちき・わに)
百済から渡来。菟道稚郎子の師となり典籍を授けた。素行は「太子論敎の禮」の始めとする。
菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)
応神天皇の皇子。阿直岐・王仁に学び、のち大位を仁德天皇に譲った。
雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)
二十三年、大伴室屋大連らに遺詔して星川皇子の悪を戒め、皇太子に後を託した。素行は「顧命の禮」と称える。
手研耳命(たぎしみみのみこと)
神武天皇の子。諒闇の際に弟たちを害そうとして誅された。素行は「不孝不義の至り」とする。
道臣命(みちのおみのみこと)
神武天皇の東征を助けた大伴氏の遠祖。築坂邑を賜わった。素行は「功臣を封ずるの初」とする。
武内宿禰(たけうちのすくね)
景行天皇五十一年、棟梁の臣に命ぜられた。大臣の号の始まりとされる。

禮儀章 一禮とは、上下を辨じて天下の人心を定むるの道なり
原文
天先成而地後定、然後神聖生其中焉、
謹按、天先而居上、地後而居下、在上者高而文明也、在下者卑而厚順也、其中生萬品、而聖神長之以定其道、是乃天地有天地之形、聖人因以字之曰禮、禮者辨上下、以定天下之人心、分貴賤、以通天下之使用之道也、禮之行也、本天地之陰陽、因其自然、以立今日日用之制、天下襲之行之、則終不亂矣、上不遺於君父之尊親、下不超於臣子之分限、自此天下之廣萬機之衆、悉有其禮、等級分明不可相混亂、禮之義不亦大乎、凡治平之要、其本在禮、君臣定貴賤位、小大守分動靜有常、好作亂者未之有也、

訓読
あめりてつちおくれてさだまる。しかしてのち神聖しんせいそのなかうまれます。
つつしみてあんずるに、てんきだちてしかかみり、おくれてしかしもる。かみものたかくして文明ぶんめいなり、しもものひくくして厚順こうじゆんなり。そのなか萬品ばんぴんしやうじて、聖神せいしんこれにちやうとしてもつてそのみちさだむ。すなは天地てんち天地てんちかたちありて、聖人せいじんりてもつてこれにしてれいふ。れい上下しやうかべんじて、もつ天下てんか人心じんしんさだめ、貴賤きせんわかちてもつ天下てんか使用しようつうずるのみちなり。れいおこなはるるや天地てんち陰陽いんやうもとづき、その自然しぜんりて、もつ今日こんにち日用にちようせいつ。天下てんかこれにりてこれをおこなへば、すなはつひみだれず。かみ君父くんぷ尊親そんしんわすれず、しも臣子しんし分限ぶんげんえず。これより天下てんかひろき、萬機ばんきおほきも、ことごとくそのれいありて、等級とうきふ分明ぶんめいにしてあひ混亂こんらんすべからず。れいだいならずや。およ治平ちへいえう、そのもとれいり。君臣くんしんさだより貴賤きせんくらゐし、小大せうだいぶんまもり、動靜どうせいつねあらば、らんさんことをこのものいまだこれあらざるなり。

現代語訳
天が先に成り、地が後れて定まった。そうして後に、神聖なる存在がその中にお生まれになった。
つつしんで考えてみるに、天は先立って上にあり、地は後れて下にある。上にあるものは高くて明るく、下にあるものは低くて厚く順う。その中に万物が生じ、聖なる神がその長となって道を定められた。つまり天地には天地の形があって、聖人がそれにならって名づけたのが「禮」である。禮とは、上と下とを分けることによって天下の人心を定め、貴と賤とを分けることによって天下の役割の行き来を通わせる道である。禮が行われるのは天地の陰陽に基づき、その自然に従って今日の日常の制度を立てるからだ。天下がそれを承けて行えば、ついに乱れることはない。上は君と父への敬いと親しみを忘れず、下は臣と子としての分限を越えない。こうして天下がどれほど広く、政務がどれほど多くとも、ことごとくそれぞれの禮があって、等級が明らかで混じり合うことがない。禮の意味は大きいではないか。そもそも治まり平らかであることの要は、その本が禮にある。君と臣とがはじめから定まって貴賤の位につき、大きい者も小さい者も分を守り、動くも静かなるも常があれば、乱を起こすことを好む者などいたためしがない。

解説
禮儀章の総論。素行の「禮」は作法ではなく秩序そのものである。定義は明快で、「上下を辨じて以て天下の人心を定め、貴賤を分ちて以て天下の使用を通ずるの道」。前半は身分の秩序、後半は「使用を通ずる」――役割と働きの行き来を成り立たせる仕組み、という意味である。
注意したいのは、その秩序を人が発明したとはしていないところ。天が上に、地が下にある。そのを人が写し取って「禮」と字(な)づけただけだ、という。だから禮は「天地の陰陽に本づき、その自然に因る」。素行にとって制度とは、自然の写しなのである。

禮儀章 二陽神先づ唱ふ ── 二神、改め旋りたまふ
原文
伊弉諾尊伊弉冉尊、以磤馭盧嶋爲國中之柱、而陽神左旋、陰神右旋、分巡國柱、同會一面、時陰神先唱、陽神不悅曰、吾是男子、理當先唱、如何婦人反先言乎、事既不祥、宜以改旋、於是二神却更相遇、遂生大日本豐秋津洲、
謹按、是天神正禮之儀也、二神者、乃天地也、陰陽也、男女也、萬物之宗源也、中國之大宗也、本朝所以爲中州、人物所以爲人物、聖敎所以爲聖敎也、蓋理者、條理也、有條理不亂者、禮也、此時雖未有禮之名、既言理則禮以屬于此也、夫經營於宇宙、生成於人物之始、未嘗不以此大禮、天下之禮繫于人君、人君正禮而后、天下之條理可行之、故陰陽各自左旋右行、以循天地之序、正先後唱和之節、以定天下之事物、禮之時其用大哉乎、此禮一立、而后後世上下男女之道大明、萬民皆由之、二神之德、可不仰乎、

訓読
伊弉諾尊いざなきのみこと伊弉冉尊いざなみのみこと磤馭盧嶋おのごろじまもつ國中くになかみはしらして、陽神やうしんひだりよりめぐり、陰神いんしんみぎよりめぐり、わかれて國柱くにのみはしらめぐつておなじく一面いちめんひぬとき陰神いんしんとなへたまふ。陽神やうしんよろこばずしてのたまはく、われはこれ男子をのこなり、まさとなふべし、如何いかん婦人をんなかへつて言先ことさきだつやと。ことすで不祥ふしやうなり、よろしくもつあらためぐるべしと。ここに二神にしんしりぞきてさらあひひたまひぬ。つひ大日本豐秋津洲おほやまととよあきつしまみたまひぬ。
つつしみてあんずるに、天神てんしんれいただしたまふのなり。二神にしんすなは天地てんちなり、陰陽いんやうなり、男女なんによなり、萬物ばんぶつ宗源そうげんなり、中國ちうごく大宗たいそうなり。本朝ほんてう中州ちうしうたる所以ゆゑん人物じんぶつ人物じんぶつたる所以ゆゑん聖敎せいけう聖敎せいけうたる所以ゆゑんなり。けだとは條理でうりなり。條理でうりありてみだれざるものれいなり。このときいまれいあらずといへども、すでふときはれいもつてここにぞくす。宇宙うちう經營けいえいし、人物じんぶつ生成せいせいするのはじめいまかつてこの大禮たいれいもつてせずんばあらず。天下てんかれい人君じんくんかかる。人君じんくんれいただしてしかしてのちに、天下てんか條理でうりこれをおこなふべし。ゆゑ陰陽いんやうおのおのみづか左旋させん右行いうかうして、もつ天地てんちじよしたがひ、先後せんご唱和しやうわせつただして、もつ天下てんか事物じぶつさだむ。れいときにおける、そのようだいなるかな。このれいひとたびちて、しかしてのち後世こうせい上下しやうか男女なんによみちおほいにあきらかに、萬民ばんみんみなこれにる。二神にしんとくあふがざるべけんや。

現代語訳
伊弉諾尊と伊弉冉尊とは、磤馭盧嶋を国の中心の柱として、陽神は左から、陰神は右から、分かれて柱を巡り、同じ一面で出会われた。そのとき陰神が先に声をかけられた。陽神は喜ばずに言われた。「私は男である。理からいえば先に唱えるべきだ。どうして女のほうが先に言うのか」。事はすでに不吉である、あらためて巡り直すのがよい、と。そこで二神は退いてもう一度出会われた。こうしてついに大日本豐秋津洲をお生みになった。
つつしんで考えてみるに、これは天神が禮を正された儀である。二神とはすなわち天地であり、陰陽であり、男女であり、万物の大もとであり、中国(わが国)の大宗である。本朝が中州である理由、人が人である理由、聖なる教えが聖なる教えである理由が、ここにある。思うに理とは筋道のことである。筋道があって乱れないもの、それが禮である。このときはまだ「禮」という名はなかったけれども、すでに理と言うからには禮はここに属している。そもそも宇宙を営み、人と物とを生み成すそのはじめに、この大いなる禮によらなかったことはない。天下の禮は君主にかかっている。君主が禮を正して後に、天下の筋道が行われるのである。だから陰陽はそれぞれ左に旋り右に行って天地の順序に従い、先と後、唱えると和すとの節目を正して、天下の事物を定める。禮の、時に応じたはたらきの大きいことよ。この禮がひとたび立って後、後の世の上下男女の道が大いに明らかとなり、万民はみなこれによっている。二神の徳を、仰がずにいられようか。

解説
国生みのやり直しを、素行は「天神、禮を正したまふの儀」と読む。神話の一場面ではなく、秩序の起源を示す出来事として扱うわけである。
ここで見逃せないのは「理とは條理なり。條理ありて亂れざる者は禮なり」という一句。朱子学が「理」と呼ぶものを、素行は「禮」=目に見える筋道に置き換えている。聖政章十六節で「政敎法令の外、豈にこの德あらんや」と言ったのと同じ構えである。
なお、男が先に唱えるべきだという判断は江戸前期の男女観そのものであり、今日そのまま受け取るべき主張ではない。素行がここから引き出しているのは「先後・唱和の節を正す」=順序があること自体の重要性であって、そこは分けて読みたい。

禮儀章 三無狀は禮儀なきの言なり ── 六合常闇となる
原文
素戔嗚尊之爲行也、甚無狀、天照大神發慍乃入于天石窟、閉磐戸而幽居焉、故六合之內、常闇而不知晝夜之相代、
謹按、無狀者、無禮儀之言也、神者、寬仁之聖明、而嚴正其無禮如此、蓋禮者、安上治民之道也、無禮則上下混尊卑不分、上下混則人人從其情直行、故君臣不正、尊卑不分、則強陵弱富侮貧大傾小、故邪正不明、是神深所以戒其無狀也、神乃入于天石窟、閉磐戸而六合常闇、是示無禮則天下邪正混不可知、其慮不遠乎、後世臣蔑上子蔑父、皆所以禮之不明也、然乃、去神既遠、其靈驗雖無可速懼、若有亂臣賊子以縱志、神必可入石窟而六合常闇、不知神今日在耶不在、禮之用、可不愼乎、

訓読
素戔嗚尊すさのをのみこと爲行しわざはなは無狀ぶじやうなり。天照大神あまてらすおほみかみいかりをはつしてすなは天石窟あまのいはやりまして、磐戸いはとぢて幽居いうきよしたまふゆゑ六合りくがふうち常闇とこやみにして晝夜ちうやあひかはるをらず。
つつしみてあんずるに、無狀ぶじやうとは禮儀れいぎなきのことばなり。かみ寬仁くわんじん聖明せいめいにして、しかもその無禮ぶれい嚴正げんせいすることかくのごとし。けだれいは、かみやすんじたみをさむるのみちなり。れいなきときはすなは上下しやうかこん尊卑そんぴわかたず、上下しやうかこんずるときはすなは人人ひとびとそのじやうしたがつてただちにおこなふ。ゆゑ君臣くんしんただしからず、尊卑そんぴわかたざるときは、すなはきやうじやくしのぎ、めるはひんあなどり、だいせうかたむく。ゆゑ邪正じやせいあきらかならず。かみふかくその無狀ぶじやういましめたまふ所以ゆゑんなり。かみすなは天石窟あまのいはやりたまひ、磐戸いはとぢて六合りくがふ常闇とこやみとなる。無禮ぶれいなるときは天下てんか邪正じやせいこんじてるべからざることをしめしたまふ。そのおもんぱかとほからずや。後世こうせいしんかみなみちちなみするは、みなれいあきらかならざる所以ゆゑんなり。しからばすなはち、かみることすでとほく、その靈驗れいげんすみやかにおそるべきことしといへども、亂臣らんしん賊子ぞくしありてもつこころざしほしいままにせば、かみかなら石窟いはやりて六合りくがふ常闇とこやみなるべし。らず、かみ今日こんにちいますやいまさずや。れいようつつしまざるべけんや。

現代語訳
素戔嗚尊のふるまいは、はなはだ無狀であった。天照大神は怒りを発して天石窟にお入りになり、磐戸を閉じて籠られた。そのため天地四方のうちは常闇となって、昼と夜との交替がわからなくなった。
つつしんで考えてみるに、「無狀」とは禮儀がないということばである。神は寛くて仁ある聖明の御方でありながら、その無禮を正されることはこのように厳しい。思うに禮とは、上を安んじ民を治める道である。禮がなければ上と下とが混じり、尊いと卑しいとが分かれない。上下が混じれば、人はそれぞれ自分の情のままにそのまま行動する。だから君臣が正しくなく、尊卑が分かれないときには、強い者は弱い者を踏みつけ、富める者は貧しい者を侮り、大きな者は小さな者を傾ける。こうして邪と正とが見分けられなくなる。これが神が深くその無狀を戒められた理由である。神が天石窟に入り、磐戸を閉じて天地四方が常闇となった。これは、無禮であれば天下の邪正が混じって見分けられなくなることをお示しになったのだ。その慮りは遠くまで及んでいるではないか。後の世に臣が上をないがしろにし子が父をないがしろにするのは、みな禮が明らかでないからである。そうであれば、神の御代を去ることすでに遠く、その霊験がただちに恐ろしく現れることはないとしても、もし乱臣賊子があって思いのままにふるまうならば、神は必ず石窟に入られて天地は常闇となるだろう。神は今日いますのか、いまさないのか、それは分からない。禮のはたらきを、慎まずにいられようか。

解説
本章の白眉。『日本書紀』が素戔嗚尊を評した「甚だ無狀」の一語を、素行は「無狀とは禮儀なきの言なり」と読み替え、そこから一気に論を展開する。
禮なし → 上下混ず → 人おのおの情のままに行う → 強は弱を陵ぎ、富は貧を侮り、大は小を傾く → 邪正明らかならず。この四段の連鎖が、この節の核心である。無禮とは行儀の悪さではなく、強い者が何をしてもとがめられなくなる状態だ、というのが素行の理解である。
そして天石窟の常闇を、そのまま「邪正が見分けられない世」の姿として読む。結びの「神、今日在すや在さずや」は、配所にあった素行の実感がにじむ問いかけである。
同じ天石窟の場面は、神教章七節では「思學」の、神知章一節では「人才」の教材として読まれていた。同じ史料を章の主題に応じて読み分けるのが素行の方法である。

禮儀章 四允恭帝の探湯 ── 姓氏明らかならざれば分正しからず
原文
允恭帝四年、秋九月辛巳朔、己丑詔曰、上古之治、人民得所、姓名勿錯、今朕踐祚於茲四年矣、上下相爭、百姓不安、或誤失己姓、或故認高氏、其不至於治者、蓋由是也、朕雖不賢、豈非正其錯乎、群臣議定奏之、群臣皆言、陛下擧失正枉而定氏姓者、臣等冒死奏可、戊申詔曰、群卿百寮、及諸國造等、皆各言、或帝皇之裔、或異之天降、然三才顯分以來、多歷萬歲、是以一氏蕃息更爲萬姓、難知其實、故諸氏姓人等、沐浴齋戒、各爲盟神探湯、則諸人各著木綿手繦、而赴釜探湯、則得實者自全、不得實者皆傷、是以故詐者慴然之、豫退無進、自是之後、氏姓自定更無詐人、

訓読
允恭帝いんぎようてい四年しねんあき九月くぐわつ辛巳かのとみついたち己丑つちのとうしみことのりしてのたまはく、上古しやうこをさまるところ、人民じんみんところて、姓名せいめいあやまることなしいまちん踐祚せんそしてここ四年しねん上下しやうかあひあらそひて百姓ひやくせいやすからず、あるひおのかばねあやまうしなひ、あるひことさらにたかうぢみとむ。そのいたらざるものは、けだしこれにつてなり。ちん不賢ふけんいへども、にそのあやまりをたださざらんや。群臣ぐんしんさだめてこれをそうせと。群臣ぐんしんみなまうさく、陛下へいかしつわうただして氏姓しせいさだめたまはば、臣等しんらをかして奏可そうかせんと。戊申つちのえさるみことのりしてのたまはく、群卿ぐんけい百寮ひやくれうおよもろもろ國造くにのみやつこみなおのおのふ、あるひ帝皇ていわうすゑあるひことてんよりくだれりと。しかれども三才さんさいあらはれわかれてより以來このかたおほ萬歲ばんさいたり。ここをもつ一氏いつし蕃息はんそくしてさら萬姓ばんせいり、そのじつがたし。ゆゑもろもろ氏姓しせい人等ひとら沐浴もくよく齋戒さいかいして、おのおの盟神探湯くかたちよと。すなは諸人しよにんおのおの木綿手繦ゆふたすきけて、かまおもむきて探湯たんたうす。すなはじつものおのづかまつたく、じつざるものみなやぶる。ここをもつことさらにいつはもの慴然せふぜんとして、あらかじ退しりぞきてすすむことなし。これよりのち氏姓しせいおのづかさだまりてさらいつはひとなし。

現代語訳
允恭天皇四年、秋九月辛巳の朔、己丑の日、詔して言われた。「上古の治まっていた時代には、人民はそれぞれの所を得て、姓名に誤りがなかった。いま朕が位についてここに四年、上下が争って民が安んじない。ある者は自分の姓を取り違えて失い、ある者はことさらに高い氏を名のる。治まらないのは、思うにこれによるのだ。朕は賢くはないが、どうしてその誤りを正さずにいられよう。群臣は議して定め、これを奏せよ」。群臣はみな申し上げた。「陛下が失われたものを挙げ、曲がったものを正して氏姓を定められるなら、臣らは死を賭してでも奏上いたします」。戊申の日、詔して言われた。「群卿も百官も、諸国の国造たちも、みなそれぞれこう言う――あるいは帝皇の末裔である、あるいは特別に天から降った、と。しかし天地人の三才が分かれて以来、すでに万年を経ている。だから一つの氏が増えてさらに万の姓となり、その実を知ることが難しい。そこで諸氏姓の人々は、沐浴し斎戒して、それぞれ盟神探湯を行え」。そこで人々はそれぞれ木綿の襷をかけ、釜に向かって熱湯に手を入れた。すると実のある者はおのずと無事で、実のない者はみな火傷した。そのためことさらに偽っていた者は震え上がり、あらかじめ退いて前に出なかった。これより後、氏姓はおのずと定まって、もう偽る人はいなくなった。

解説
盟神探湯という古代の裁きを、素行は迷信としてではなく制度として読む。関心は熱湯そのものにはなく、この記事が氏姓を正したという一点にある。詔のことば――「一氏蕃息して更に萬姓と爲り、その實を知り難し」――が、まさに素行の見る問題であった。

禮儀章 四(承前)姓氏は善を章らかにし惡を癉むの道なり
原文
謹按、姓氏不明、故下僭上卑蹂尊、是禮不明、分不正之由也、往古神聖因其功業、或賜姓氏、命名號、旌別淑慝、流芳遺臭、將傳百世而未嘗泯、是令人民守禮不混尊卑、不忘旌別善惡之道也、姓氏之出一混、則人皆忘所其由出、失所己可旌示、而悉不知其本、非章善癉惡之道、故帝定姓氏、以審盟、諸人之眞僞相著、尊卑初定、是禮之大端也、

訓読
つつしみてあんずるに、姓氏せいしあきらかならず、ゆゑしもかみをかそんむ。れいあきらかならず、ぶんただしからざるのよしなり。往古わうこ神聖しんせいはその功業こうげふりて、あるひ姓氏せいしたまひ、名號めいがうめいじ、淑慝しゆくとく旌別せいべつかんばしきをながくさきをのこし、まさ百世ひやくせいつたへていまかつほろびず。人民じんみんをしてれいまもりて尊卑そんぴこんぜず、善惡ぜんあく旌別せいべつするのみちわすれざらしむるなり。姓氏せいしづるところひとたびこんずるときは、すなはひとみなそのつてづるところをわすれ、おのれが旌示せいじすべきところをうしなひて、ことごとくそのもとらず。ぜんあきらかにしあくにくむのみちにあらず。ゆゑてい姓氏せいしさだめ、もつめいつまびらかにす。諸人しよにん眞僞しんぎあひあらはれ、尊卑そんぴはじめてさだまる。れい大端たいたんなり。

現代語訳
つつしんで考えてみるに、姓氏が明らかでない、だから下は上を犯し、卑しい者が尊い者を踏みつける。これは禮が明らかでなく、分限が正しくないことによる。昔の神聖なる方々は、その功業に応じて姓氏を賜い、名号を命じ、善と悪とをはっきり分けて示し、よい名を流しわるい名を遺して、百世に伝えていまだ消えることがない。これは人民に、禮を守って尊卑を混ぜず、善悪を分けて示す道を忘れさせないためである。姓氏の出所がいったん混じってしまえば、人はみな自分の出てきたもとを忘れ、自分が掲げ示すべきものを失って、ことごとくその本を知らなくなる。これは善を明らかにし悪を憎む道ではない。だから天皇は姓氏を定め、誓いをはっきりさせられた。人々の真偽が明らかになり、尊卑がはじめて定まった。これが禮のいちばんの端緒である。

解説
姓氏とは何かというと、素行の答えは「善を章らかにし惡を癉むの道」――功業の記録である。誰が何をした家か、が消えれば、善悪を掲げる基準そのものが消える。だから氏姓の混乱は身分の話ではなく、公の記憶の崩壊なのだ、という見方になる。
聖政章十一節の「國史を置く」と同じ関心――記録が政の一部である――が、ここでも働いている。

禮儀章 五八色の姓・姓氏錄 ── 尊卑初めて定まる
原文
此後作八色之姓、以混萬民、故定姓氏、以審盟、近臣各賜朝臣宿禰、諸歌男歌女笛吹傳己子孫、令習其伎、及弘仁帝御宇、勅萬多親王右大臣藤原園人等、撰姓氏錄、延喜帝朝正親司勘皇親籍、以掌賜服改姓之事、皆紀姓苑之瓜瓞、明禮儀之分定之敎、而否乃民情不厚、而詐僞日行也、

訓読
こののち八色やくさかばねつくり、もつ萬民ばんみんこんず。ゆゑ姓氏せいしさだめ、もつめいつまびらかにす。近臣きんしんにはおのおの朝臣あそん宿禰すくねたまひ、もろもろ歌男うたをのこ歌女うため笛吹ふえふきおの子孫しそんつたへて、そのわざならはしむ。弘仁帝こうにんてい御宇ぎようおよびて、萬多親王まんだしんわう右大臣うだいじん藤原園人ふぢはらのそのひとちよくしたまうて、姓氏錄しやうじろくえらばしむ延喜帝えんぎていてうには正親司おほきみのつかさ皇親籍くわうしんじやくかんがへ、もつふくたませいあらたむるのことつかさどる。みな姓苑せいゑん瓜瓞くわてつしるし、禮儀れいぎ分定ぶんていをしへあきらかにするなり。しかるにしからざればすなは民情みんじやうあつからずして、詐僞さぎひびおこなはるるなり。

現代語訳
この後、八色の姓を作って万民を分け整えた。だから姓氏を定めて、誓いをはっきりさせるのである。近臣にはそれぞれ朝臣・宿禰の姓を賜い、歌をうたう男女や笛を吹く者たちはそれぞれ自分の子孫に伝えて、その技を習わせた。弘仁天皇の御代になって、萬多親王・右大臣藤原園人らに勅して『姓氏錄』を撰ばせられた。延喜天皇の朝には正親司が皇親の籍を調べ、衣服を賜い姓を改める事務を担当した。いずれも姓の系譜が瓜の蔓のように連なるさまを記して、禮儀の分限を定める教えを明らかにするものである。そうでなければ、民の情は厚くならず、偽りが日ごとに行われるようになる。

解説
前節を制度史として引き延ばした一段。八色の姓(天武)、『新撰姓氏錄』(弘仁)、正親司の皇親籍(延喜)――系譜を公に記録し続けた制度の系列を素行は並べる。芸能の家が技を子孫に伝えることまで同じ枠で語るのが面白いところで、姓氏とは「その家が何をする家か」の公示だと見ているのが分かる。

禮儀章 六憲法十七條 ── 群卿百寮、禮を以て本と爲す
原文
推古帝十二年夏四月丙寅朔、戊辰皇太子親肇作憲法十七條、其四曰、群卿百寮以禮爲本、其治民之本要在乎禮、上不禮而下非齊、下無禮以必有罪、是以君臣有禮、位次不亂、百姓有禮、國家自治、
謹按、禮之大於此始著諸憲章、以令天下之人民知之由之也、夫禮者、天地之大經、而往古神聖以定中國、天神以非禮入石窟、所其繫太重、所其由行、不以禮則無所措手足、有天下國家、則有其禮、不由禮、則無所謂治平、是所以治民之本要在乎禮也、人君示不以禮民之俗不易、禮下不以禮、民不心服、禮讓行而后敎化之極、可始著也、

訓読
推古帝すゐこてい十二年じふにねんなつ四月しぐわつ丙寅ひのえとらついたち戊辰つちのえたつ皇太子くわうたいしみづかはじめて憲法けんぱふ十七條じふしちでうつくりたまふ。そのいはく、群卿ぐんけい百寮ひやくれうれいもつもとす。それたみをさむるのもとかなられいり。かみれいあらざればしもととのはず、しもれいなきときはもつかならつみあり。ここをもつ君臣くんしんれいあれば、位次ゐじみだれず。百姓ひやくせいれいあれば、國家こくかおのづかをさまる。
つつしみてあんずるに、れいだいなる、ここにいたりてはじめてこれを憲章けんしやうあらはし、もつ天下てんか人民じんみんをしてこれをりこれにらしむるなり。れい天地てんち大經たいけいにして、往古わうこ神聖しんせいもつ中國ちうごくさだむ。天神てんしん非禮ひれいもつ石窟いはやりたまふ。そのかかるところはなはおもく、そのりておこなふところ、れいもつてせざればすなは手足しゆそくくところなし。天下てんか國家こくかあれば、すなはちそのれいあり。れいらざれば、すなは治平ちへいふところなし。たみをさむるのもとかなられい所以ゆゑんなり。人君じんくんしめすにれいもつてせざればたみぞくかはらず、しもれいするにれいもつてせざれば、たみこころよりふくせず。禮讓れいじやうおこなはれてしかしてのち敎化けうくわきよくはじめてあらはるべし。

現代語訳
推古天皇十二年、夏四月丙寅の朔、戊辰の日、皇太子がみずからはじめて憲法十七条をお作りになった。その第四条にいう。「群卿も百官も、禮を根本とせよ。民を治める根本はかならず禮にある。上に禮がなければ下は整わず、下に禮がなければ必ず罪が生ずる。だから君臣に禮があれば位の順序は乱れず、民に禮があれば国家はおのずと治まる」。
つつしんで考えてみるに、禮の大切さは、ここに至ってはじめて憲章として文章に書き表され、天下の人民にこれを知らせこれに拠らせることになった。そもそも禮は天地の大きな筋道であって、昔の神聖なる方々はこれによってこの国を定められた。天神は非禮のゆえに石窟に入られた。禮のかかわるところはきわめて重く、行動のよりどころも、禮によらなければ手足の置き所がない。天下国家があれば、必ずその禮がある。禮によらなければ、治まり平らかであるということもない。これが、民を治める根本が必ず禮にある理由である。君主が示すのに禮によらなければ民の習俗は変わらず、下に接するのに禮によらなければ民は心から服さない。禮と譲りとが行われて後に、はじめて教化のきわみが現れてくるのである。

解説
憲法十七条を、素行は「禮の大なる、ここに至りて始めてこれを憲章に著はす」――禮が成文になった最初として位置づける。第三節の天石窟がここで引き戻され、神代の教訓が推古朝の条文になったという筋が通される。
聖政章六節でも同じ憲法十七条が引かれていたが、あちらは「憲法から律令へ」という制度史の流れの中。ここでは禮の成文化という一点で読まれている。

禮儀章 七人にして禮なきときは、禽獸に異ならず
原文
蓋人之爲人、本朝之爲中華、由此禮也、夷狄亦人、而其國亦治、禽獸亦物、而其群亦類、然所以爲其夷狄也、爲其禽獸也、不由禮而行之也、人而無禮、則不異於禽獸、中華而無禮、則不異於夷狄、故神聖建敎於初、天神懲戒於無狀、正其禮矣、皇太子聰明美質、始定冠位、親選憲法、以禮爲治國之本、其敎可謂著明也、此後連綿、天下衆庶之禮、制度之法大定、終律令格式行于世、天下萬世皆知禮以爲大本、皇太子之功、大哉、

訓読
けだひとひとたる、本朝ほんてう中華ちうくわたるは、このれいりてなり。夷狄いてきまたひとたり、しかしてそのくにまたをさまり、禽獸きんじうまたものにして、そのむれまたるゐたり。しかれどもその夷狄いてきたる所以ゆゑんは、その禽獸きんじうたるは、れいりてこれをおこなはざればなり。ひととしてれいなきときは、すなは禽獸きんじうことならず、中華ちうくわにしてれいなきときは、すなは夷狄いてきことならず。ゆゑ神聖しんせいをしへはじめて、天神てんしん無狀ぶじやう懲戒ちようかいして、そのれいただしたまふ。皇太子くわうたいし聰明そうめい美質びしつにして、はじめて冠位くわんゐさだめ、みづか憲法けんぱふえらび、れいもつ治國ちこくもとしたまふ。そのをしへ著明ちよめいなりとひつべし。こののち連綿れんめんして、天下てんか衆庶しゆうしよれい制度せいどはふおほいにさだまり、つひ律令りつりやう格式きやくしきおこなはれ、天下てんか萬世ばんせいみなれいもつ大本たいほんたることをる。皇太子くわうたいしこうだいなるかな

現代語訳
思うに、人が人であること、本朝が中華であることは、この禮によっている。夷狄もまた人であり、その国もまた治まっており、禽獣もまた物であって、その群れもまた仲間である。それでもなお夷狄が夷狄である理由、禽獣が禽獣である理由は、禮によって行動していないからだ。人であって禮がなければ禽獣と異ならず、中華であって禮がなければ夷狄と異ならない。だから神聖なる方々ははじめに教えを立て、天神は無狀を懲らしめてその禮を正された。皇太子は聡明で美質をそなえ、はじめて冠位を定め、みずから憲法を選定して、禮を国を治める根本とされた。その教えは明らかであったと言ってよい。この後は連綿として、天下万民の禮、制度の法が大いに定まり、ついに律令格式が世に行われて、天下は万世にわたってみな禮が大本であることを知った。皇太子の功は、大きい。

解説
前節の按語の続き。ここには素行の議論のいちばん際どいところが出ている。「中華にして禮なきときは、夷狄に異ならず」――中華か夷狄かは、地でも血でもなく禮によるかどうかで決まる、という定義である。だからこそ「本朝の中華たる」も証明を要する主張になる。
ただし、その裏返しとして「夷狄」「禽獸」を対比項に置く語り方は、江戸前期の華夷観念そのものである。今日の読者としては、素行の主張の芯(禮=文明の指標という論理)と、その芯を語るのに用いられた差別的な語彙とを、分けて受け取る必要がある。
聖徳太子への評価が高いのは、禮を成文化して誰にでも参照できるものにしたという一点による。素行が制度を重んじる思想家であることが、ここでもよく現れている。

禮儀章 八卽位は人君の大禮なり ── 正朔終に失せず
原文
神武帝辛酉年、春正月庚辰朔、天皇卽帝位於橿原宮、是歲爲天皇元年、
謹按、卽位者、人君之大禮也、天者、人君之所宗、而人君者、庶人之所天也、天高于上、而文明照於四海、人君位于大寶、而明德周於天下、故行卽位之禮、以始天下萬機之道也、帝東征之功大成、定中國、以始卽位之禮、以是歲爲元年、以王正月授時、一二天地之氣候、著人君之大禮也、自是歷代因循有此儀、大臣北面以捧神器、天子南面以詔萬國、正上下尊卑之禮、布道德聖明之政、所其繫太重哉乎、蓋此時未知外朝之三統、而人統自立四時以宜、是乃神聖之靈妙也、爾來正朔終不失、授時相正、而天下一其俗、中華之渾厚大哉、

訓読
神武帝じんむてい辛酉年しんいうねんはる正月しやうぐわつ庚辰かのえたつついたち天皇てんわう橿原宮かしはらのみや帝位ていゐきたまふ。とし天皇てんわう元年ぐわんねん
つつしみてあんずるに、卽位そくゐ人君じんくん大禮たいれいなり。てん人君じんくんそうとするところにして、人君じんくん庶人しよじんてんとするところなり。てんかみたかくして文明ぶんめい四海しかいらし、人君じんくん大寶たいはうくらゐして明德めいとく天下てんかあまねし。ゆゑ卽位そくゐれいおこなひて、もつ天下てんか萬機ばんきみちはじむるなり。てい東征とうせいこうおほいにり、中國ちうごくさだめて、もつ卽位そくゐれいはじむ。としもつ元年ぐわんねんし、王正月わうしやうぐわつもつときさづけ、天地てんち氣候きこういつにして、人君じんくん大禮たいれいあらはしたまふ。これより歷代れきだい因循いんじゆんしてこのあり。大臣だいじん北面ほくめんしてもつ神器じんぎささげ、天子てんし南面なんめんしてもつ萬國ばんこくみことのりし、上下しやうか尊卑そんぴれいただし、道德だうとく聖明せいめいまつりごとく。そのかかるところはなはおもかなけだしこのときいま外朝ぐわいてう三統さんとうらず、しか人統じんとうおのづかちて四時しいじもつよろし。すなは神聖しんせい靈妙れいめうなり。爾來じらい正朔せいさくつひうしなはれず、ときさづくることあひただしくして、天下てんかそのぞくいつにす。中華ちうくわ渾厚こんこうだいなるかな

現代語訳
神武天皇の辛酉の年、春正月庚辰の朔の日、天皇は橿原宮で帝位におつきになった。この年を天皇の元年とする。
つつしんで考えてみるに、即位は君主の大いなる禮である。天は君主が宗とするものであり、君主は庶民が天とするものである。天は高く上にあって、その明るさが四海を照らす。君主は大いなる位にあって、その明るい徳が天下に行きわたる。だから即位の禮を行って、天下の万機の道をはじめるのである。天皇は東征の功を大いに成しとげ、この国を定めて、即位の禮をはじめられた。この年を元年とし、王者の正月をもって暦を授け、天地の気候を一つにして、君主の大禮を明らかにされた。これより歴代がこれを承けてこの儀がある。大臣は北を向いて神器を捧げ、天子は南を向いて万国に詔し、上下尊卑の禮を正し、道徳と聖明の政を布く。そのかかわるところの何と重いことか。思うにこのとき、まだ外国の三統(王朝ごとに歳首を改める説)は知られていなかったのに、人の統がおのずと立って四季にかなっていた。これこそ神聖の霊妙というものである。それ以来、正朔がついに失われることなく、暦の授け方が正しく保たれて、天下はその習俗を一つにしている。この国の渾厚さは、大きい。

解説
即位を「人君の大禮」と定義し、そこからへ話が向かう。素行にとって即位とは、時間の起点を定める行為なのである。「この歲を以て元年と爲し、王正月を以て時を授く」。
中国では王朝が代わるたびに歳首が動いた(三統)。日本はそれを知らないまま四季にかなう暦を保ち、しかも一度も途切れさせなかった――これが「爾來正朔終に失せず」の含意で、皇統の連続を暦の側から言い直したものである。聖政章五節「天下皆正朔を受くるは、その天に事ふること同じくするなり」と対になる。

禮儀章 九后妃建立の始 ── 聖人の匹を得れば聖子あり
原文
神武帝庚申年秋八月癸丑朔、戊辰天皇當立正妃、改廣求華胄、九月壬午朔、己巳納媛蹈韛五十鈴媛命、以爲正妃、辛酉春正月庚辰朔、天皇卽位、擧正妃爲皇后、
謹按、是后妃建立之始也、蓋聖人得其匹、則有聖子、聖子聖孫相續、則百代猶一日、是人君所以愛天下之至也、凡帝王之匹、風化之本、禮儀之大也、擇立不以其道、則唯縱欲從情、雖克其始、于以保其終不可、故必立正妃、廣議、正族姓、詳女德、及卽位乃爲皇后、其隆禮、以序男女之別、排媵妾之口、垂正議於萬世也、

訓読
神武帝じんむてい庚申年かうしんねんあき八月はちぐわつ癸丑みづのとうしついたち戊辰つちのえたつ天皇てんわう正妃せいひてたまふにあたりて、あらためてひろ華胄くわちうもとめたまふ九月くぐわつ壬午みづのえうまついたち己巳つちのとみ媛蹈韛五十鈴媛命ひめたたらいすずひめのみことれて、もつ正妃せいひしたまふ。辛酉しんいうはる正月しやうぐわつ庚辰かのえたつついたち天皇てんわう卽位そくゐして、正妃せいひげて皇后くわうごうしたまふ。
つつしみてあんずるに、后妃こうひ建立こんりふはじめなり。けだ聖人せいじんそのたぐひるときは、すなは聖子せいしあり。聖子せいし聖孫せいそんあひぐときは、すなは百代ひやくだい一日いちにちのごとし。人君じんくん天下てんかあいするのいたりなり。およ帝王ていわうたぐひは、風化ふうくわもと禮儀れいぎだいなるものなり。擇立たくりふすることそのみちもつてせざれば、すなはよくほしいままにしじやうしたがふのみ。そのはじめつといへども、もつてそのをはりたもつべからず。ゆゑかなら正妃せいひつるにひろし、族姓ぞくせいただし、女德ぢよとくつまびらかにし、卽位そくゐおよびてすなは皇后くわうごうす。そのれいさかんにして、もつ男女なんによべつじよし、媵妾ようせふくちはいし、正議せいぎ萬世ばんせいるるなり。

現代語訳
神武天皇の庚申の年、秋八月癸丑の朔、戊辰の日、天皇が正妃をお立てになるにあたって、あらためて広くよい家柄をお求めになった。九月壬午の朔、己巳の日、媛蹈韛五十鈴媛命を迎えて正妃とされた。辛酉の年の春正月庚辰の朔の日、天皇は即位して、正妃を挙げて皇后とされた。
つつしんで考えてみるに、これが后妃を立てることのはじめである。思うに聖人がふさわしい配偶を得れば、聖なる子が生まれる。聖なる子、聖なる孫が相い継げば、百代を経てもなお一日のようである。これこそ君主が天下を愛することのきわみである。そもそも帝王の配偶は、風俗と教化の本であり、禮儀の大事である。選び立てるのにその道によらなければ、ただ欲を放ち情に従うだけになる。はじめは抑えられても、終わりまで保つことはできない。だから必ず正妃を立てるのに広く議し、家柄を正し、女性としての徳を詳らかにし、即位にあたってはじめて皇后とする。その禮を厚くして男女の別に順序をつけ、側室たちの口出しを退け、正しい議を万世に伝えるのである。

解説
立后を「風化の本、禮儀の大なるもの」とする。素行がここで力を入れているのは、選び方を公の手続きにするという点である。「廣く議し、族姓を正し、女德を詳らかにし」――私的な好悪で決めない、というのが眼目で、次節の「立后の禮正しからざれば」への伏線になっている。
ただし「族姓を正す」という発想はそのまま門閥主義でもあり、素行の議論が身分秩序の枠内にとどまることも同時に示している。

禮儀章 十仁德帝、皇后を立つ ── 禮儀を備へて内を修む
原文
仁德帝元年、三月庚申朔、詔曰、神祇不可乏主、宇宙不可無君、天生黎庶、樹以元首、使司助養、令全性命、大連憂朕無息、披誠款以國家、世世盡忠、豈唯朕日、宜備禮儀、奉迎白香皇女爲皇后、修敎于內、
謹按、是立皇后備禮儀、修敎于內之詳也、蓋人君恆居九重之深、御萬乘之富、近臣進媚、佞臣逆惡、少怠縱情、則鴆毒無不根其衷、故外設諫議置史官、正其言行、猶未嘗無其闕遺、妃匹之親、皇后之睦、與內助之益、備規警之戒、以拾補於此、是良匹賢配所以倫之也、

訓読
仁德帝にんとくてい元年ぐわんねん三月さんぐわつ庚申かのえさるついたちみことのりしてのたまはく、神祇じんぎしゆとぼしくすべからず、宇宙うちうきみなかるべからずてん黎庶れいしよしやうじて、つるに元首げんしゆもつてし、たすやしなふことをつかさどらしめて、性命せいめいまつたからしむ。大連おほむらじちんむすこなきをうれへ、誠款せいくわんひらきてもつ國家こくかのためにし、世世よよちうつくす。ちんのみならんや。よろしく禮儀れいぎそなへて、白香皇女しらかのひめみこ奉迎ほうげいして皇后くわうごうし、をしへうちをさめしむべし。
つつしみてあんずるに、皇后くわうごう禮儀れいぎそなへ、をしへうちをさむるのしやうなり。けだ人君じんくんつね九重きうちようふかて、萬乘ばんじようとみぎよす。近臣きんしんこびすすめ、佞臣ねいしんあくむかふ。すこしくおこたりてじやうほしいままにすれば、すなは鴆毒ちんどくそのうちざさざるはなし。ゆゑそと諫議かんぎまう史官しくわんき、その言行げんかうただすも、いまかつてその闕遺けつゐなくんばあらず。妃匹ひひつしん皇后くわうごうむつび、內助ないじよえきともに、規警きけいいましめそなへて、もつてここに拾補しふほす。良匹りやうひつ賢配けんぱいのこれをたすくる所以ゆゑんなり。

現代語訳
仁德天皇の元年、三月庚申の朔、詔して言われた。「神祇に主が欠けてはならず、宇宙に君がいなくてはならない。天は民を生じ、そこに元首を立てて、助け養うことを司らせ、その性命を全うさせる。大連は朕に子のないことを憂え、真心を開いて国家のために尽くし、代々忠を尽くしてきた。これはひとり朕の代だけのことではない。禮儀を備えて白香皇女をお迎えして皇后とし、教えを内に修めさせるがよい」。
つつしんで考えてみるに、これが皇后を立て、禮儀を備え、教えを内に修めることの詳しい姿である。思うに君主は常に幾重にも囲われた奥深い宮にあって、万乗の富を治めている。近臣は媚びを差し出し、佞臣は悪を迎えにくる。少し気をゆるめて情に流されれば、鴆の毒のようなものがその心の内に根を張らないということはない。だから外には諫議の役を設け史官を置いて、その言行を正すのだが、それでもなお漏れがなかったためしはない。妃としての親しみ、皇后としての睦まじさ、内助の益とともに、いさめ警めることの備えがあって、そこを補うのである。これがよき配偶、賢い伴侶が君主を助けるということである。

解説
皇后の役割を、素行は諫言の制度の一部として説明する。諫議の官も史官も外から君主を正す装置だが、それでも届かないところがある。「妃匹の親、皇后の睦び」――外の制度が届かない私の領域を補うのが皇后だ、という理解である。
神知章で「近臣は知ること難し」と言った素行が、その近臣のさらに内側をどう扱うかを考えた結果がこれで、制度の届かない場所にも制度的な役割を割り当てるという発想が徹底している。

禮儀章 十一立后の禮正しからざれば ── 外戚威を擅にす
原文
此後立后之禮、世世相續、以至皇統連綿也、凡女德之撰、不以其道、則淫婦妖女必蠱其心、族姓之戒不嚴、則外戚擅威必構天下之害、立后之禮不正、則男女之別不明、而內修之戒不行、皇妃之道不規之以其禮、則宮闈臨朝垂簾預政、至使嗣主擁於虛位、故禮本夫婦、治亂因之興亡繫君、往古之令典、舊紀之所載、可不監乎、

訓読
こののち立后りつこうれい世世よよあひぎ、もつ皇統くわうとう連綿れんめんたるにいたる。およ女德ぢよとくえらび、そのみちもつてせざれば、すなは淫婦いんぷ妖女えうぢよかならずそのこころまどはす。族姓ぞくせいいましめげんならざれば、すなは外戚ぐわいせきほしいままにしてかなら天下てんかがいかまふ。立后りつこうれいただしからざれば、すなは男女なんによべつあきらかならずして、內修ないしういましめおこなはれず。皇妃くわうひみちこれをただすにそのれいもつてせざれば、すなは宮闈きゆうゐてうのぞすだれれてまつりごとあづか嗣主ししゆをして虛位きよゐようせしむるにいたる。ゆゑれい夫婦ふうふもとづき治亂ちらんこれに興亡こうばうきみかかる。往古わうこ令典れいてん舊紀きうきするところ、かんがみざるべけんや。

現代語訳
この後、立后の禮は代々受け継がれ、皇統が連綿と続くに至った。そもそも女性の徳を選ぶのに正しい道によらなければ、みだらな女や人を惑わす女が必ずその心を惑わす。家柄への戒めが厳しくなければ、外戚が権威をほしいままにして必ず天下の害を作り出す。立后の禮が正しくなければ、男女の別が明らかでなくなって、内を修める戒めが行われない。皇妃の道をその禮によって正さなければ、後宮が朝廷に臨み、簾を垂れて政に関与し、後を継ぐ君主を空位に据え置くまでになる。だから禮は夫婦に本づき、治乱はこれによって起こり、興亡は君にかかっている。昔の立派な典礼、古い記録が載せるところを、鑑としないでよいだろうか。

解説
前節の按語の後半で、失敗したときに何が起きるかを列挙する。外戚の専横、垂簾聴政――中国史から得た警戒である。
ここで素行が「淫婦妖女」といった語を用いているのは事実であり、女性を災いの源とする当時の通念がそのまま出ている。ただし論の骨は「立后の禮正しからざれば」――手続きの不備が権力の私物化を招く、という制度論であって、素行自身は原因を女性の側にではなく禮の欠如に置いている。読むときはこの区別を意識したい。
結びの「禮は夫婦に本づく」は『中庸』の「君子の道は端を夫婦に造す」を承けたもので、素行の常套――漢籍の枠組みに日本の記録を盛る――がここでも働いている。

禮儀章 十二皇太子を立つるの始 ── 國の本を定む
原文
神武帝四十有二年、春正月壬子朔、甲寅立皇子神淳名川耳尊爲皇太子、
謹按、是立皇太子之始也、蓋建太子者、定國之本、所以重宗廟社稷也、凡立子必以長、是禮之恆也、然時有治亂屯蒙承久、地有新故大小、人有賢知愚不肖、故愼思明辨、以致其道、在人君之德、帝始定中州、建皇極、其間未嘗無拙悍不律之賊、信是屯難之時、其建立可不愼乎、太子者、帝之第三子、而風姿岐嶷、少有雄拔之氣、見子不可如父、竟立以爲皇太子、建立之禮一行、天下之大本定、自是連綿以建儲之儀成、於乎懿哉、

訓読
神武帝じんむてい四十有二年しじふいうにねんはる正月しやうぐわつ壬子みづのえねついたち甲寅きのえとら皇子わうじ神淳名川耳尊かむぬなかはみみのみことてて皇太子くわうたいししたまふ
つつしみてあんずるに、皇太子くわうたいしつるのはじめなり。けだ太子たいしつるは、くにもとさだめ、宗廟そうべう社稷しやしよくおもんずる所以ゆゑんなり。およつるにかならちやうもつてす、れいつねなり。しかれどもとき治亂ちらん屯蒙ちゆんもう承久しようきうあり、新故しんこ大小だいせうあり、ひと賢知けんち愚不肖ぐふせうあり。ゆゑつつしみておもあきらかにべんもつてそのみちいたすは、人君じんくんとくり。ていはじめて中州ちうしうさだめ、皇極くわうきよくつ。そのかんいまかつ拙悍せつかん不律ふりつぞくなくんばあらず。まことにこれ屯難ちゆんなんとき、その建立こんりふつつしまざるべけんや。太子たいしてい第三子だいさんしにして、風姿ふうし岐嶷きぎよくわかくして雄拔ゆうばつあり。ることちちくべからず。つひててもつ皇太子くわうたいしす。建立こんりふれいひとたびおこなはれて、天下てんか大本たいほんさだまる。これより連綿れんめんとしてもつ建儲けんちよる。於乎ああうるはしいかな

現代語訳
神武天皇の四十二年、春正月壬子の朔、甲寅の日、皇子の神渟名川耳尊を立てて皇太子とされた。
つつしんで考えてみるに、これが皇太子を立てることのはじめである。思うに太子を立てるのは、国の本を定め、宗廟と社稷とを重んじるためである。そもそも子を立てるには必ず年長者による、これが禮の常である。しかし時勢には治まると乱れると、生み悩みと蒙昧と、受け継ぎと久しさとがあり、土地には新旧大小があり、人には賢いと愚かとがある。だから慎んで思い明らかに分けて、その道を尽くすのは、君主の徳にかかっている。天皇ははじめてこの国を定め、統治の極を立てられた。その間、荒々しく法を守らぬ賊がなかったことはない。まことに困難な時であって、その建立を慎まずにいられようか。太子は天皇の第三子であって、その姿かたちは際立ち、若くして抜きん出た気概があった。子を見るのに父に及ぶ者はない。ついに立てて皇太子とされた。建立の禮がひとたび行われて、天下の大本が定まった。これより連綿として世継ぎを立てる儀が成った。ああ、うるわしいことである。

解説
立太子を「國の本を定む」と位置づける。原則は「子を立つるに必ず長を以てす、是れ禮の恆なり」だが、素行はすぐに例外の条件を並べる――時勢、土地、人の資質。神武天皇が第三子を立てたのは、まさにその例外の適用だった、というわけである。
「常」を立てたうえで、それを破りうる場合の判断を君主の徳に委ねる――このやり方は、聖政章一節の「義は必ず時に隨ふ」と同じ構えである。

禮儀章 十三崇神帝の夢占 ── 建儲は蚤く定むるを貴ぶ
原文
崇神帝四十八年、春正月己卯朔、戊子天皇勅豐城命活目尊曰、汝雖二子、慈愛共齊、不知爲嗣、各宜夢、朕以夢占之、二皇子於是被命、淨沐而祈、各得夢也、會明、兄豐城命以夢辭奏于天皇曰、自登御諸山、向東而八廻弄槍、八廻擊刀、弟活目尊以夢辭奏言、自登御諸山之嶺、繩絚四方逐食粟雀、則天皇相夢謂二子曰、兄則一片向東、當治東國、弟是悉臨四方、宜襲朕位、四月戊申朔、丙寅立活目尊爲皇太子、以豐城命令治東、是上毛野君下毛野君之始祖也、
謹按、建儲之禮者、天下之大本也、今以其夢所、定其計、後世未無疑擬、此時去古未遠、人心朴素、而誠信感通、故有此議、二王子亦肯之、終永承帝詔不貳、是帝之聖德也、王子之渾厚也、非後世所可似效之、蓋帝位者、大寶也、人誰不欲、況皇子乎、故建立之禮貴蚤定、不蚤定則嫡庶之分不定、或以智求之、立功欲之、以力爭之、古今宗室之亂天秩、無不由此、業已蚤定則衆望絕、而天下之勢定、宗室分極、而主家以固、人君豈可忽乎、

訓読
崇神帝すじんてい四十八年しじふはちねんはる正月しやうぐわつ己卯つちのとうついたち戊子つちのえね天皇てんわう豐城命とよきのみこと活目尊いくめのみことちよくしてのたまはく、なんぢ二子にしいへども、慈愛じあいともひとし、すをらず、おのおのよろしくゆめみるべし、ちんゆめもつてこれをうらなはんと。二皇子にわうじここにめいかうむり、きよゆあみていのり、おのおのゆめたり。會明くわいめいに、あに豐城命とよきのみことゆめことばもつ天皇てんわうそうしてまうさく、みづか御諸山みもろやまのぼり、ひがしかひて八廻やたびほこもてあそび、八廻やたびたちつと。おとうと活目尊いくめのみことゆめことばもつ奏言そうごんすらく、みづか御諸山みもろやまみねのぼり、なは四方しはうりてあはすずめふと。すなは天皇てんわうゆめ二子にしひてのたまはく、あにすなは一片ひとかたひがしかふ、まさ東國とうごくをさむべし。おとうとはこれことごと四方しはうのぞむ、よろしくちんくらゐぐべしと。四月しぐわつ戊申つちのえさるついたち丙寅ひのえとら活目尊いくめのみことてて皇太子くわうたいしし、豐城命とよきのみこともつひがしをさめしむ。上毛野君かみつけののきみ下毛野君しもつけののきみ始祖しそなり。
つつしみてあんずるに、建儲けんちよれいは、天下てんか大本たいほんなり。いまそのゆめみるところをもつて、そのけいさだむ。後世こうせいいま疑擬ぎぎなくんばあらず。このときいにしへることいまとほからず、人心じんしん朴素ぼくそにして、誠信せいしん感通かんつうす。ゆゑにこのあり。二王子にわうじまたこれをうけがひ、つひながていみことのりけてふたつにせず。てい聖德せいとくなり、王子わうじ渾厚こんこうなり。後世こうせい似效じかうすべきところにあらず。けだ帝位ていゐ大寶たいはうなり。ひとたれほつせざらん、いはんや皇子わうじをや。ゆゑ建立こんりふれいはやさだむるをたふとぶ。はやさだめざればすなは嫡庶ちやくしよぶんさだまらず、あるひもつてこれをもとめ、こうててこれをほつし、ちからもつてこれをあらそふ。古今ここん宗室そうしつ天秩てんちつみだす、これにらざるはなし。わざすではやさだまればすなは衆望しゆうばうえて、天下てんかいきほひさだまり、宗室そうしつぶんきはまりて、主家しゆかもつかたし。人君じんくんゆるがせにすべけんや。

現代語訳
崇神天皇の四十八年、春正月己卯の朔、戊子の日、天皇は豐城命と活目尊とに勅して言われた。「お前たち二人の子は、いとおしさにおいて等しく、どちらを嗣とすべきか分からない。それぞれ夢を見よ。朕はその夢によって占おう」。二皇子は命を受け、身を清めて祈り、それぞれ夢を得た。夜明けに、兄の豐城命が夢のことばを天皇に奏して言った。「みずから御諸山に登り、東に向かって八度槍をふるい、八度刀を打ちました」。弟の活目尊は夢のことばを奏して言った。「みずから御諸山の嶺に登り、縄を四方に張って粟を食う雀を追いました」。天皇は夢を判じて二人に言われた。「兄は一方の東に向かっている。東国を治めるがよい。弟はことごとく四方に臨んでいる。朕の位を継ぐがよい」。四月戊申の朔、丙寅の日、活目尊を立てて皇太子とし、豐城命に東を治めさせられた。これが上毛野君・下毛野君の始祖である。
つつしんで考えてみるに、世継ぎを立てる禮は天下の大本である。いまその見た夢によって、その方針を定めた。後の世からは疑問がないわけではない。この時代は古から遠くなく、人心は素朴で、真心が通じ合っていた。だからこの議があり、二人の皇子もこれを承知して、ついに長く天皇の詔を受けて二心を持たなかった。これは天皇の聖なる徳であり、皇子たちの厚みである。後世が真似てよいことではない。思うに帝位は大いなる宝である。誰がそれを欲しないだろうか、まして皇子ならなおさらである。だから世継ぎを立てる禮は早く定めることを貴ぶ。早く定めなければ嫡と庶との分限が定まらず、ある者は智によってこれを求め、功を立ててこれを望み、力によってこれを争う。古今、皇室が天の秩序を乱したのは、みなここから起きている。すでに早く定まっていれば人々の望みは断たれ、天下の勢いが定まり、皇室の分限がきわまって、主家は固くなる。君主はどうしてこれをおろそかにできようか。

解説
この節の値打ちは、素行が夢占いを手放しでは肯定していないところにある。「後世未だ疑擬なくんばあらず」――後の世から見れば疑問が残る、とはっきり書き、それが通用したのは「人心朴素にして誠信感通す」時代だったからだ、と限定する。そして「後世の似效すべきところにあらず」と釘を刺す。聖政章十節で「妖神を殺すは夷狄の習俗なり」と言い切った合理性が、ここでも働いている。
そのうえで引き出す原則は「蚤く定むるを貴ぶ」。早く決めておけば「衆望絕えて天下の勢定まる」――誰かが望みを抱く余地をなくすこと自体が制度の効用だ、という冷静な見方である。

禮儀章 十四阿直岐と王仁 ── 太子論敎の禮
原文
應神帝十五年、秋八月壬戌朔、丁卯百濟王遣阿直岐、貢良馬、阿直岐能讀經典、卽太子菟道稚郎子師焉、於是天皇問阿直岐曰、如勝汝博士亦有耶、對曰、有王仁者、是秀也、時遣上毛野君祖荒田別巫別於百濟、仍徵王仁也、十六年春二月、王仁來之、則太子菟道稚郎子師之、習諸典籍於王仁、莫不通達、
謹按、是太子論敎之禮也、此時稚郎子未有皇太子之命、然帝既建儲之計定於茲、故有此論敎也、蓋論敎之禮橡定、則其薰陶正明、變化氣質、不由業師傅保、以不可得其實也、太子聰明天資謙讓、而又有雄武之俊才、能熟中國之事物、兼通外朝之經籍、其粹迪開悟習貫如自然、故以表狀無禮、責高麗之使、譲大位於仁德帝、存尊上而卑下、聖君而愚臣之常典、其豪英也、其脫落也、皆繫敎諭之得矣、萬世法之、以立師置傅保、置太子家令之官、可不愼乎、

訓読
應神帝おうじんてい十五年じふごねんあき八月はちぐわつ壬戌みづのえいぬついたち丁卯ひのとう百濟王くだらのこきし阿直岐あちきつかはして、良馬りやうばたてまつ阿直岐あちき經典けいてんめり。すなは太子たいし菟道稚郎子うぢのわきいらつここれをとす。ここに天皇てんわう阿直岐あちきひてのたまはく、なんぢまされる博士はかせまたありやと。こたへてまうさく、王仁わにといふものあり、これひいでたりと。とき上毛野君かみつけののきみ荒田別あらたわけ巫別かんなぎわけ百濟くだらつかはし、りて王仁わにさしむ。十六年じふろくねんはる二月にぐわつ王仁わにきたけり。すなは太子たいし菟道稚郎子うぢのわきいらつここれをとして、もろもろ典籍てんじやく王仁わにならひたまふ。通達つうたつせずといふことなし。
つつしみてあんずるに、太子たいし論敎ろんけうれいなり。このとき稚郎子わきいらつこいま皇太子くわうたいしめいあらず。しかれどもていすで建儲けんちよけいここにさだまる。ゆゑにこの論敎ろんけうあり。けだ論敎ろんけうれいかたさだまるときは、すなはちその薰陶くんたう正明せいめいにして、氣質きしつ變化へんくわす。業師げふし傅保ふほらざれば、もつてそのじつべからざるなり。太子たいし聰明そうめい天資てんし謙讓けんじやうにして、また雄武ゆうぶ俊才しゆんさいあり。中國ちうごく事物じぶつじゆくし、ねて外朝ぐわいてう經籍けいじやくつうず。その粹迪すゐてき開悟かいご習貫しふくわんすること自然しぜんごとし。ゆゑ表狀へうじやう無禮ぶれいもつて、高麗こま使つかひめ、大位たいゐ仁德帝にんとくていゆづり、かみたふとびてしもへりくだり、聖君せいくんにして愚臣ぐしんなるの常典じやうてんそんす。その豪英がうえいなる、その脫落だつらくなる、みな敎諭けうゆとくかかれり。萬世ばんせいこれにのつとりて、もつ傅保ふほき、太子家令たいしかれいくわんく。つつしまざるべけんや。

現代語訳
応神天皇の十五年、秋八月壬戌の朔、丁卯の日、百済王が阿直岐を遣わして良馬を献じた。阿直岐は経典をよく読むことができた。そこで太子の菟道稚郎子はこれを師とされた。天皇は阿直岐に問われた。「もしお前にまさる博士がほかにもいるか」。答えて申し上げた。「王仁という者がおります。これは秀でております」。そこで上毛野君の祖である荒田別・巫別を百済に遣わして、王仁を召された。十六年春二月、王仁がやって来た。太子菟道稚郎子はこれを師として、諸々の典籍を王仁に学ばれ、通じないものはなかった。
つつしんで考えてみるに、これが太子の論教の禮である。このとき稚郎子はまだ皇太子の命を受けていない。しかし天皇はすでに世継ぎの方針をここに定めておられた。だからこの論教があるのである。思うに論教の禮の形が定まれば、その薫陶は正しく明らかで、気質を変化させる。学業の師と守り役とによらなければ、その実を得ることはできない。太子は聡明で、生まれつき謙譲であり、しかも雄々しく武にすぐれた才があった。この国の事物によく通じ、あわせて外国の経籍にも通じておられた。そのすぐれた進み方、悟りの開け方、習い覚え方は自然のようであった。だから上表文の無禮を責めて高麗の使者を退け、大位を仁德天皇に譲り、上を尊び下にへりくだって、君は聖にして臣は愚という常のありようを保たれた。その豪英さも、そのこだわりのなさも、みな教え諭すことの成果にかかっている。万世これにならって、師を立て守り役を置き、太子家令の官を置く。慎まずにいられようか。

解説
太子教育の制度化を「太子論敎の禮」と呼ぶ。素行が注目するのは、稚郎子がまだ皇太子ではなかったという点である。それでも教育が始まっていたのは、天皇の腹の中で世継ぎの方針が決まっていたからだ、と読む。建儲と論敎とが一組だという主張の根拠がここにある。
菟道稚郎子は結局は即位せず、大位を仁德天皇に譲った人物である。素行はその譲位も教育の成果として数える。位を得たかどうかではなく、位の扱い方を見ているわけである。

禮儀章 十五敎諭の道、外朝の書籍を以て事と爲すは後世の訛なり
原文
繼、敎諭之道、多以外朝之書籍爲事、是後世之訛也、中國古今天下之興廢治亂、事物之制度、人民之禮儀、載在文獻、然乃日用言行修改之暇、詳致其道、擧其古、而后及外朝之經傳、以廣其知識、證其事迹、斟酌用捨、就有道以正之、可謂得敎論之實也、

訓読
いで、敎諭けうゆみちおほ外朝ぐわいてう書籍しよじやくもつことす。後世こうせいくわなり。中國ちうごく古今ここん天下てんか興廢こうはい治亂ちらん事物じぶつ制度せいど人民じんみん禮儀れいぎせて文獻ぶんけんり。しからばすなは日用にちよう言行げんかう修改しうかいいとまつまびらかにそのみちいたし、そのいにしへげて、しかしてのち外朝ぐわいてう經傳けいでんおよび、もつてその知識ちしきひろめ、その事迹じせきしようし、斟酌しんしやく用捨ようしやして、有道いうだういてもつてこれをたださば、敎論けうろんじつふべきなり。

現代語訳
続けていうと、教え諭す道は、多くの場合、外国の書籍を用いることになっている。これは後の世の誤りである。この国の古今の天下の興亡と治乱、事物の制度、人民の禮儀は、記されて文献に残っている。それならば、日々の言行を修め改める合間に、詳しくその道を尽くし、自国の古を挙げ、そのうえで外国の経典・注釈に及んで、知識を広め、事跡を照らし合わせ、加減して取捨し、道を得た人について正すならば、教え諭すことの実を得たと言ってよい。

解説
本書全体の方法宣言と言ってよい一節。「敎諭の道、多く外朝の書籍を以て事と爲す。是れ後世の訛なり」――教育が漢籍一辺倒になっているのは間違いだ、と言う。
ただしこれは漢籍排斥ではない。順序の話である。まず自国の古を挙げ、そのうえで外朝の経伝に及んで知識を広め事跡を証する。『中朝事實』という書物そのものが、この順序を実践してみせたものにほかならない。

禮儀章 十六嫡・長・賢 ── 子を立つるの常禮
原文
愚竊按、有父母必有子、子以嗣孫以承、連綿以及萬世者、人倫之大綱也、子有嫡有長、有賢愚、貴嫡者正宗族姓氏之所由明、后妃遞縢之所配也、用長者、順天倫之序、正長幼之道也、用賢者、其器能以任之也、故以嫡庶則在嫡、以長幼則在長、其德其智可覆之、則用賢、是立子之常禮也、國家之世子所其任既重、所其率既衆、況天下之太子乎、然乃建立之禮、不可有苟、是往古神聖或生或及、或措長或撰智、所以不必專常禮也、

訓読
ひそかにあんずるに、父母ふぼあるときはかならあり。もつまごもつけ、連綿れんめんとしてもつ萬世ばんせいおよぶは、人倫じんりん大綱たいかうなり。ちやくありちやうあり、賢愚けんぐあり。ちやくたふとぶことは、宗族そうぞく姓氏せいしりてあきらかなるところをただし、后妃こうひ遞縢ていとうはいするところなればなり。ちやうもちふることは、天倫てんりんじよしたがひ、長幼ちやうえうみちただすなり。けんもちふることは、その器能きのうもつてこれににんずるなり。ゆゑ嫡庶ちやくしよもつてするときはすなはちやくり、長幼ちやうえうもつてするときはすなはちやうり。そのとくそのおほふべきときは、すなはけんもちふ。つるの常禮じやうれいなり。國家こくか世子せいしはそのにんずるところすでおもく、そのひきゐるところすでおほし。いはんや天下てんか太子たいしをや。しからばすなは建立こんりふれいかりそめなるべからず。往古わうこ神聖しんせいあるひしやうあるひおよび、あるひちやうあるひえらび、かならずしも常禮じやうれいもつぱらにせざる所以ゆゑんなり。

現代語訳
愚かながらひそかに考えてみるに、父母があれば必ず子がある。子が嗣ぎ孫が承けて、連綿として万世に及ぶのが人倫の大綱である。子には嫡子があり年長者があり、賢い者と愚かな者とがある。嫡子を貴ぶのは、宗族と姓氏の由来を明らかにして正し、后妃の順序が配されるところだからである。年長者を用いるのは、天の与えた順序に従い、長幼の道を正すからである。賢者を用いるのは、その器量と能力によって任せるからである。だから嫡と庶とで見れば嫡にあり、長と幼とで見れば長にある。その徳とその智とが他を覆うほどであれば、賢者を用いる。これが子を立てることの常の禮である。一国の世子でさえその任は重く、率いるところは多い。まして天下の太子ならばなおさらである。そうであれば、その立て方はかりそめであってはならない。だからこそ昔の神聖なる方々は、あるときは生まれた順により、あるときは兄弟に及ぼし、あるときは年長を措いて智を選び、必ずしも常の禮ひとすじにはされなかったのである。

解説
立太子の三つの基準――嫡・長・賢――を整理し、優先順位を示す。原則は嫡、次に長、そして「その德その智覆ふべきとき」だけ賢を採る
面白いのは結論の運び方で、三原則を立てておきながら「必ずしも常禮を專らにせざる所以なり」と締める。原則は判断を省くためではなく、例外を自覚的に選ぶための基準なのだ、という構えである。第十二節と同じ論法がここでも繰り返される。

禮儀章 十七多くは唯だ中人のみ ── 建儲と論敎と相持し扶翼して以て正す
原文
夫皇太子者、受天下之重職、爲億兆之君師、安危治亂繫之、其高明也、其寬悠也、其博厚也、共畜而后可堪三器之任、抑欲撰其人、則無蚤建之定、欲盡其計、則君父亦不可知其終、故蚤立嫡長之序、定國本、而論敎相持扶翼以正、可謂建儲之大禮也、凡上智與下愚不可移、而亦不易得、多唯中人而已、中人之才必由所慣習薫陶、變其氣質、建儲而不謹於論敎、則錯諸宴安、知諸深窓、所以蕩其志愚其質、而非以君德之溢、豈是子子之謂乎、未有如此而知治平之實者矣、

訓読
皇太子くわうたいしは、天下てんか重職ぢゆうしよくけ、億兆おくてう君師くんしり、安危あんき治亂ちらんこれにかかる。その高明かうめいなるや、その寬悠くわんいうなるや、その博厚はくこうなるや、ともたくはへてしかしてのち三器さんきにんふべし。そもそもそのひとえらばんとほつすれば、すなははやつるのさだめなし。そのけいつくさんとほつすれば、すなは君父くんぷまたそのをはりるべからず。ゆゑはや嫡長ちやくちやうじよてて國本こくほんさだめ、しかして論敎ろんけうあひ扶翼ふよくしてもつただす。建儲けんちよ大禮たいれいふべきなり。およ上智じやうち下愚かぐとはうつらずしかまたやすからず。おほくは中人ちうじんのみ。中人ちうじんさいかなら慣習くわんしふ薫陶くんたうするところにりて、その氣質きしつへんず。建儲けんちよして論敎ろんけうつつしまざれば、すなはちこれを宴安えんあんき、これを深窓しんさうらしむ。そのこころざしとろかしそのしつにする所以ゆゑんにして、君德くんとくあふるるをもつてするにあらず。にこれとするいひならんや。いまだかくのごとくにして治平ちへいじつものあらず。

現代語訳
そもそも皇太子は、天下の重い職を受け、億兆の民の君となり師となる者であって、安危と治乱とがそれにかかっている。その高く明らかであること、寛くゆったりしていること、広く厚いこと――それらをともに蓄えてはじめて三種の神器の任に堪えられる。そもそもふさわしい人を選ぼうとすれば、早く立てるという定めが立たない。その見きわめを尽くそうとすれば、君であり父である者にもその終わりまでは知りようがない。だから早く嫡長の順序を立てて国の本を定め、そのうえで論教が相い支え助けて正す。これを世継ぎを立てる大いなる禮と言うべきである。そもそも最上の智者と最下の愚者とは変わらない。しかもそのどちらも得やすいものではない。多くはただ中くらいの人ばかりである。中くらいの人の才は、必ず慣れ親しんだ習慣と薫陶とによってその気質が変わる。世継ぎを立てておきながら教育に慎まなければ、その者を安逸に置き、奥深い窓の内だけを知らせることになる。それはその志をとろけさせ、その質を愚かにするやり方であって、君主の徳が溢れ出るようにするものではない。これがどうして「子を子として育てる」ということだろうか。このようにして治まり平らかであることの実を知り得た者は、いまだかつていない。

解説
本節が禮儀章 上の理論的な頂点である。素行はまずジレンマを提示する――ふさわしい人を選ぼうとすれば早く立てられない、早く立てれば見きわめが利かない。
その解が「蚤く嫡長の序を立てて國本を定め、而して論敎相持し扶翼して以て正す」先に決める(建儲)+あとから育てる(論敎)の二本立てである。
根拠は『論語』の「上智と下愚とは移らず」を逆手に取った現実主義。「多くは唯だ中人のみ」――上智も下愚もめったにいない、世の大半は中くらいの人だ。だから慣習と薫陶で決まる。血統で決めた以上、教育で担保するほかない、という論理である。
聖政章十八節の「舟と水」――修身と制度の二本立て――と、まったく同じ形をしている。

禮儀章 十八雄略帝の遺詔 ── 顧命の禮
原文
雄略帝二十三年、秋八月庚午朔、丙子天皇疾甚、與百寮辭訣、握手歔欷、崩于大殿、遺詔於大伴室屋大連與東漢掬直曰、方今區宇一家、烟火萬里、百姓乂安、四夷賓服、此又天意欲寧區夏、所以小心翼己、日愼一日、蓋爲百姓故也、臣連伴造、每日朝參、國司郡司、隨時朝集、何不罄竭心府、誠勅慇懃、義乃君臣情兼父子、冀藉臣連智力、內外歡心、欲令普天之下永保安樂、不謂纏疾彌留至於大漸、此乃人生常分、何足言及、

訓読
雄略帝ゆうりやくてい二十三年にじふさんねんあき八月はちぐわつ庚午かのえうまついたち丙子ひのえね天皇てんわうやまひはなはだし。百寮ひやくれう辭訣じけつし、にぎりて歔欷きよきし、大殿おほとのほうじたまふ大伴室屋大連おほとものむろやのおほむらじ東漢掬直やまとのあやのつかのあたひとに遺詔ゐせうしてのたまはく、方今はうこん區宇くう一家いつか烟火えんくわ萬里ばんり百姓ひやくせい乂安がいあんにして、四夷しい賓服ひんぷくす。また天意てんい區夏くかやすんぜんとほつするなり。小心せうしん翼己よくき一日いちにちつつし所以ゆゑんは、けだ百姓ひやくせいためゆゑなり。臣連おみむらじ伴造とものみやつこ每日まいにち朝參てうさんし、國司こくし郡司ぐんしときしたがひて朝集てうしふす。なん心府しんぷ罄竭けいけつせざらんや。誠勅せいちよく慇懃いんぎんすなは君臣くんしんじやう父子ふしぬ。ねがはくは臣連おみむらじ智力ちりよくり、內外ないぐわいこころよろこばしめ、普天ふてんもとをしてなが安樂あんらくたもたしめんとほつす。おもはざりき、やまひまとはれいよいよとどまりて大漸たいぜんいたらんとは。すなは人生じんせい常分じやうぶんなんおよぶにらん。

現代語訳
雄略天皇の二十三年、秋八月庚午の朔、丙子の日、天皇の病が重くなった。百官と別れを告げ、手を握ってすすり泣き、大殿で崩じられた。大伴室屋大連と東漢掬直とに遺詔して言われた。「いま天下は一つの家となり、かまどの煙は万里に立ち、民は安らかで、四方の異民族も服している。これもまた天意がこの地を安んじようとするからである。私が小心につつしみ、日々に一日を慎んできたのは、思うに民のためである。臣・連・伴造は毎日朝廷に参り、国司・郡司も時に応じて集まる。どうして心の底を尽くさずにいられよう。まことをこめて丁寧に勅してきた。義においては君臣であり、情においては父子を兼ねている。願わくは臣連の智と力とを借り、内外の心を喜ばせ、天下あまねく永く安楽を保たせたいと思っていた。思いもよらず、病にまとわれていよいよ長引き、危篤に至ろうとは。これも人生の常であって、言うほどのことではない。

解説
雄略天皇の遺詔、その前半。「小心翼己、日に一日を愼む所以は、蓋し百姓の爲の故なり」――慎重であった理由を、天皇はまず民に置く。「義は乃ち君臣、情は父子を兼ぬ」という臣下への呼びかけも印象深い。臨終の場で語られているのが恨みごとでも私事でもなく、政の総括であることに注意したい。

禮儀章 十八(承前)朕、目を瞑ると雖も、何ぞ復た恨むるところあらんや
原文
但朝野衣冠未得鮮麗、敎化政刑、猶未盡善、興言念此、唯以留恨、今年齡若干、不復稽天、筋力精神一時勞竭、如此之事本非爲己、止欲安養百姓、所以致此、生子孫誰不屬念、諡爲天下事須割情、今星川王心懷傲惡、行闕友于、古人有言、知臣莫若君、知子莫若父、縱使星川得志共治國家、必當戮辱遍於臣連、酷毒流於民庶、夫惡子孫已爲百姓所棄、好子孫足堪負荷大業、此雖我家事、理不容隱、大連等民部廣大充盈於國、皇太子以爲嗣、仁孝著聞、以其行業堪成朕志、以此共治天下、朕雖瞑目、何所復恨、
謹按、是顧命之禮也、凡人君崩于正殿者、禮之正也、況切切顧命、擧以天下爲任、以百姓爲心、以死生爲常、歸功於大臣、爲億兆護其子之惡、以遺戒於後嗣、其義深哉、蓋死生之際者、人倫之所甚重也、故天神臨訣、以有拳拳之神勅、今帝垂終之言、經遠保世之謀及此、以不崩於婦人女子之手、讀本章以至此、則未嘗不措卷歎之、嗚呼帝所以謚雄略、宜哉、

訓読
朝野てうや衣冠いくわんいま鮮麗せんれいず、敎化けうくわ政刑せいけいいまぜんつくさず。げんおこしてこれをおもへば、もつうらみをとどむるのみ。いま年齡ねんれい若干そこばくてんとどめず。筋力きんりよく精神せいしん一時いちじ勞竭らうけつす。かくのごときのこともとおのれのためにあらず。百姓ひやくせい安養あんやうせんとほつす。このむところの子孫しそんたれおもひをけざらん。天下てんかことためにはすべからくじやうくべし。いま星川王ほしかはのおほきみこころ傲惡がうあくいだき、おこなひは友于いううく。古人こじんげんあり、しんるはきみくはなく、るはちちくはなしと。たと星川ほしかはをしてこころざしとも國家こくかをさめしめば、かならまさ戮辱りくじよく臣連おみむらじあまねく、酷毒こくどく民庶みんしよながるべし。しき子孫しそんすで百姓ひやくせいつるところとり、子孫しそん大業たいげふ負荷ふかするにふ。家事かじいへども、かくすことをゆるさず。大連おほむらじ民部みんぶ廣大くわうだいにしてくに充盈じゆうえいす。皇太子くわうたいしもつす。仁孝じんかう著聞ちよぶん、その行業かうげふもつちんこころざしすにふ。これもつとも天下てんかをさめば、ちんつむるといへども、なんうらむるところあらんや。
つつしみてあんずるに、顧命こめいれいなり。およ人君じんくん正殿せいでんほうずるは、れいせいなり。いはんや切切せつせつたる顧命こめいげて天下てんかもつにんし、百姓ひやくせいもつこころし、死生しせいもつつねし、こう大臣だいじんし、億兆おくてうためにそのあくまもり、もつ後嗣こうし遺戒ゐかいす。そのふかかなけだ死生しせいさいは、人倫じんりんはなはおもんずるところなり。ゆゑ天神てんしんわかれのぞみて、拳拳けんけん神勅しんちよくあり。いまていをはりなんなんとするのことばとほきをはかたもつのはかりごとここにおよび、もつ婦人ふじん女子ぢよしほうぜず本章ほんしやうみてここにいたれば、すなはいまかつまききてこれをたんぜずんばあらず。嗚呼ああてい雄略ゆうりやくおくりなする所以ゆゑんむべなるかな

現代語訳
ただ朝廷にも民間にも衣冠がまだ美しく整わず、教化も政も刑もまだ善を尽くしていない。ことばに出してこれを思えば、ただ心残りである。いま年齢もそれなりに重ね、もう天にとどまることはできない。筋力も精神も一度に尽き果てた。こうしたことはもともと自分のためではない。ただ民を安んじ養いたいと思ってのことである。生んだ子孫に、誰が心を寄せないだろうか。しかし天下のためには情を断ち切らねばならぬ。いま星川王は心に驕りと悪とを抱き、行いは兄弟のよしみを欠いている。古人のことばに、臣を知るは君に及ぶものなく、子を知るは父に及ぶものなし、という。もし星川が志を得て共に国家を治めることになれば、必ず辱めが臣連に行きわたり、むごい毒が民に流れるだろう。悪しき子孫はすでに民に見捨てられ、よき子孫は大業を担うに堪える。これは我が家のことではあるが、道理として隠すことは許されない。大連たちの民部は広大で国に満ちている。皇太子を嗣とする。仁と孝とで知られており、その行いによって朕の志を成しとげるに堪える。これによって共に天下を治めるならば、朕は目を閉じても、もう何の恨みもない」。
つつしんで考えてみるに、これが顧命の禮である。そもそも君主が正殿で崩ずるのは禮の正しいあり方である。ましてこの切々たる遺詔は、挙げて天下を自分の任とし、民を自分の心とし、死生を常のことと受けとめ、功を大臣に帰し、億兆の民のためにわが子の悪を包み隠さず、後を継ぐ者に戒めを遺している。その意義は深い。思うに死と生との境は、人倫がもっとも重んずるところである。だから天神も別れに臨んで、ねんごろな神勅を遺された。いま天皇の終わりに臨むことばは、遠くを慮り世を保つ計りごとにまで及び、しかも婦人女子の手のうちで崩ずることがなかった。この章を読んでここに至ると、いつも巻を置いて嘆じないではいられない。ああ、天皇に「雄略」の謚がある理由も、もっともなことである。

解説
遺詔の後半。ここで天皇はわが子・星川王の悪を名指しで書き残す。「臣を知るは君に若くはなく、子を知るは父に若くはなし」――神知章の一句がここで実地に使われている。「此れ我が家事と雖も、理隱すことを容さず」。私事だが道理として隠せない、というのがこの遺詔の核心である。
素行の按語は四点を挙げて称える。天下を任とし、百姓を心とし、功を大臣に歸し、億兆の爲にその子の惡を護る。そして「本章を讀みてここに至れば、未だ嘗て卷を措きてこれを歎ぜずんばあらず」――読むたびに本を置いてため息をつく、と書いている。本章で素行がもっとも心を動かされた一節である。

禮儀章 十九諒闇の禮と喪服の禮 ── 愼終の誼
原文
神武帝七十有六年、春三月甲午朔、甲辰天皇崩于橿原宮、時皇太子、孝性純深、悲慕無已、特留心於哀葬之事焉、其庶兄手研耳命行年已長、久經朝機、故亦委事而親之、然其王立操懷、本乖仁義、遂以諒闇之際、盛加隱害、圖害其弟、
謹按、是諒闇之禮也、夫父子者、天性也、臨終者、永訣也、以天性之親、至永訣之期、是哀葬之情所以不得已也、以不得已之誠、從其情、則無不至、故聖人立其制、中其過不及、是禮所以由行之也、此時未有喪哀之制、然神聖既建其極、則此禮亦可類推之、故史官以諒闇書之也、手研耳命爲其貪、忘父子之親、失兄弟之義、竟至亡其身、不孝不義之至、父既措之、天既顯之、可不懼乎、

訓読
神武帝じんむてい七十有六年しちじふいうろくねんはる三月さんぐわつ甲午きのえうまついたち甲辰きのえたつ天皇てんわう橿原宮かしはらのみやほうじたまふとき皇太子くわうたいし孝性かうせい純深じゆんしんにして、悲慕ひぼむことなく、ことこころ哀葬あいさうこととどめたまふ。その庶兄しよけい手研耳命たぎしみみのみこと行年かうねんすでちやうじ、ひさしく朝機てうきたり。ゆゑまたことゆだねてこれにしたしむ。しかれどもそのわう立操りつさうおもふところ、もと仁義じんぎそむき、つひ諒闇りやうあんさいもつて、さかんに隱害いんがいくはへ、そのおとうとがいせんことをはかる。
つつしみてあんずるに、諒闇りやうあんれいなり。父子ふし天性てんせいなり。をはりのぞむは永訣えいけつなり。天性てんせいしんもつて、永訣えいけついたる。哀葬あいさうじやうむをざる所以ゆゑんなり。むをざるのまこともつて、そのじやうしたがへば、すなはいたらざるなし。ゆゑ聖人せいじんそのせいてて、その過不及くわふきふちうす。れいりておこなはるる所以ゆゑんなり。このときいま喪哀さうあいせいあらず。しかれども神聖しんせいすでにそのきよくつれば、すなはちこのれいまたこれを類推るゐすゐすべし。ゆゑ史官しくわん諒闇りやうあんもつてこれをしよするなり。手研耳命たぎしみみのみことはそのむさぼりをし、父子ふししんわすれ、兄弟けいていうしなひ、つひにそのほろぼすにいたる。不孝ふかう不義ふぎいたり、ちちすでにこれをき、てんすでにこれをあらはす。おそれざるべけんや。

現代語訳
神武天皇の七十六年、春三月甲午の朔、甲辰の日、天皇は橿原宮で崩じられた。そのとき皇太子は、孝心が深く純粋で、悲しみ慕う思いがやまず、とくに心を葬送のことに向けられた。その庶兄の手研耳命は、年もすでに長じ、久しく朝廷の政務を経験していた。だから事をゆだねてこれに親しんでおられた。しかしその人の身の処し方と心に抱くところとは、もともと仁義にそむいており、ついに諒闇の折を利用して、しきりに密かな害を加え、その弟たちを害そうとはかった。
つつしんで考えてみるに、これが諒闇の禮である。そもそも父と子とは天からの性である。終わりに臨むのは永久の別れである。天から与えられた親しみをもって、永久の別れの時に至る。これが葬送の悲しみがやむにやまれぬ理由である。やむにやまれぬ真心のままにその情に従えば、行き届かないところはない。だから聖人はその制度を立てて、行きすぎと足りなさとの中を取った。これが禮が行われる理由である。このときはまだ喪の制度がなかった。しかし神聖なる方々がすでにその極を立てておられたのだから、この禮もそこから推し量ることができる。だから史官は「諒闇」と書いたのである。手研耳命はむさぼりの心を起こし、父子の親しみを忘れ、兄弟の義を失って、ついにその身を滅ぼすに至った。不孝不義のきわみである。父はすでにそれを措いておかれ、天はすでにそれを明らかにした。恐れずにいられようか。

解説
喪の禮を、素行は「已むを得ざる情」を制度が受け止めるものとして説明する。悲しみは自然に湧く。だがそのまま任せれば行きすぎる。「聖人その制を立てて、その過不及を中す」――禮とは感情を抑えるものではなく、感情に形を与えるものだ、という理解である。
手研耳命の一件をこの節に置いた構成も巧みで、喪の期間にこそ人の本性が出るという読み方になっている。

禮儀章 十九(承前)喪服の禮は、終りを愼むの誼なり
原文
此後至孝德帝、葬哀之禮始定、及文武帝大定、天下皆因爲禮、蓋喪服之禮者、愼終之誼、子弟所可盡其實、悉在此、可盡而不盡之者、孰不可忍也、然俗不正敎不詳、則皆事於有司、貴於異敎、各任其意、遂不得其中、故往古神聖所建之法、亦混同以不明、豈不歎乎、

訓読
こののち孝德帝かうとくていいたりて、葬哀さうあいれいはじめてさだまり、文武帝もんむていおよびておほいにさだまる。天下てんかみなりてれいす。けだ喪服さうふくれいは、をはりつつしにして、子弟していのそのじつつくすべきところ、ことごとくここにり。つくすべくしてつくさざるものは、いづれかしのぶべからざらん。しかれどもぞくただしからずをしへつまびらかならざれば、すなはみな有司いうしこととし、異敎いけうたふとび、おのおのそのまかせて、つひにそのちうず。ゆゑ往古わうこ神聖しんせいつるところのはふも、また混同こんどうしてもつあきらかならず。たんぜざらんや。

現代語訳
この後、孝德天皇に至って葬送の禮がはじめて定まり、文武天皇に及んで大いに定まった。天下はみなこれによって禮とした。思うに喪服の禮とは、終わりを慎むという道理であって、子弟がその実を尽くすべきところは、ことごとくここにある。尽くすべきなのに尽くさない者は、いったい何を忍びがたいと思うのだろうか。しかし習俗が正しくなく教えが詳らかでなければ、みな役所まかせにし、異なる教えを貴び、それぞれ自分の思いに任せて、ついにその中庸を得ない。だから昔の神聖なる方々が立てられた法もまた混じり合って明らかでない。嘆かずにいられようか。

解説
孝德朝で葬禮が定まり、文武朝で大いに定まる――制度史としての整理。そのうえで素行は当時の葬送を批判する。「皆有司に事とし、異敎を貴び、各その意に任せて、遂にその中を得ず」――葬式を役所と僧とに任せきりにして、自分の情を尽くさない、という趣旨である。仏教への言及をこの一語で済ませているのが素行らしい。

禮儀章 二十功を定め賞を行ふ ── 功臣を封じ官職を立つるの初
原文
神武帝二年、春二月甲辰朔、乙巳天皇定功行賞、賜道臣命宅地、居于築坂邑、以寵異之、亦使大來目居于畝傍山以西川邊之地、今號來目邑、此其緣也、以珍彥爲倭國造、又給弟猾猛田邑、因爲猛田縣主、是菟田主水部遠祖也、弟磯城名黑速爲磯城縣主、復以劒根者爲葛城國造、
一書曰、此時天兒屋根命孫天種子命專主祭祀事、是乃執朝政之儀也、
謹按、是封功臣、立官職之初也、

訓読
神武帝じんむてい二年にねんはる二月にぐわつ甲辰きのえたつついたち乙巳きのとみ天皇てんわうこうさだしやうおこなひたまふ道臣命みちのおみのみこと宅地たくちたまひ、築坂邑つきさかのむららしむ。もつことちようしたまふ。また大來目おほくめをして畝傍山うねびやま以西いせい川邊かはべらしむ。いま來目邑くめのむらなづくるは、れそのゆかりなり。珍彥うづひこもつ倭國造やまとのくにのみやつこす。また弟猾おとうかし猛田邑たけだのむらたまひ、りて猛田縣主たけだのあがたぬしす。菟田うだ主水部もひとりべ遠祖とほつおやなり。弟磯城おとしき黑速くろはや磯城縣主しきのあがたぬしす。劒根つるぎねといふものもつ葛城國造かづらきのくにのみやつこす。
一書あるふみいはく、このとき天兒屋根命あまのこやねのみことまご天種子命あまのたねこのみこともつぱ祭祀さいしことつかさどる。すなは朝政てうせいるのなり。
つつしみてあんずるに、功臣こうしんほうじ、官職くわんしよくつるのはじめなり。

現代語訳
神武天皇の二年、春二月甲辰の朔、乙巳の日、天皇は功を定め賞を行われた。道臣命に宅地を賜い、築坂邑に住まわせて、とくに寵愛された。また大來目を畝傍山より西の川辺の地に住まわせた。いま來目邑と呼ぶのは、これがその由来である。珍彥を倭国造とされた。また弟猾に猛田邑を与え、そこで猛田縣主とされた。これが菟田の主水部の遠い祖である。弟磯城、名は黑速を磯城縣主とされた。また劒根という者を葛城国造とされた。
ある書にいう。このとき天兒屋根命の孫の天種子命が、もっぱら祭祀のことを司った。これがすなわち朝政を執る儀である。
つつしんで考えてみるに、これが功臣を封じ、官職を立てることのはじめである。

解説
ここから章は官制の起源に移る。地名の由来まで丁寧に引くのは、素行が制度は土地と結びついて始まると見ているからで、抽象的な官職論の前に、まず誰にどこを与えたかを押さえている。按語が一行しかないのも、事実の列挙そのものが論拠だという構えである。

禮儀章 二十一四道將軍・棟梁の臣・國郡の造長
原文
崇神帝十年、秋九月、命四道將軍、
謹按、是立武官之初也、
景行帝五十一年、秋八月己酉朔、壬子命武内宿禰爲棟梁之臣、
謹按、是以大臣爲棟梁之臣也、成務帝朝初號大臣、仲哀帝朝、有大連之號、大臣大連相並知天下之政、
成務帝五年秋九月、令諸國以國郡立造長、縣邑置稻置、
謹按、是立國郡守司之始也、初有國造縣主之號、未致其職掌、及此設其器、以授其官也、

訓読
崇神帝すじんてい十年じふねんあき九月くぐわつ四道將軍しだうしやうぐんめいじたまふ
つつしみてあんずるに、武官ぶくわんつるのはじめなり。
景行帝けいかうてい五十一年ごじふいちねんあき八月はちぐわつ己酉つちのととりついたち壬子みづのえね武内宿禰たけうちのすくねめいじて棟梁とうりやうしんしたまふ
つつしみてあんずるに、大臣だいじんもつ棟梁とうりやうしんすなり。成務帝せいむていてうはじめて大臣だいじんがうし、仲哀帝ちゆうあいていてう大連おほむらじがうあり。大臣だいじん大連おほむらじあひならびて天下てんかまつりごとる。
成務帝せいむてい五年ごねんあき九月くぐわつ諸國しよこくれいして國郡こくぐん造長みやつこをさて、縣邑あがたむら稻置いなぎかしむ
つつしみてあんずるに、國郡こくぐん守司しゆしつるのはじめなり。はじ國造くにのみやつこ縣主あがたぬしがうありて、いまだその職掌しよくしやういたさず。ここにおよびてそのまうけ、もつてそのくわんさづくるなり。

現代語訳
崇神天皇の十年、秋九月、四道将軍を命ぜられた。
つつしんで考えてみるに、これが武官を立てることのはじめである。
景行天皇の五十一年、秋八月己酉の朔、壬子の日、武内宿禰に命じて棟梁の臣とされた。
つつしんで考えてみるに、これは大臣を棟梁の臣とするということである。成務天皇の朝にはじめて大臣と号し、仲哀天皇の朝に大連の号があった。大臣と大連とが相並んで天下の政を司った。
成務天皇の五年秋九月、諸国に命じて、国郡に造長を立て、県邑に稲置を置かせられた。
つつしんで考えてみるに、これが国郡の守司を立てることのはじめである。はじめに国造・県主の号はあったが、まだその職掌が定まっていなかった。ここに及んでその器を設け、その官を授けたのである。

解説
武官(四道将軍)・大臣(棟梁の臣)・地方官(造長と稲置)――三つの官が立った瞬間を並べて記す。
注目したいのは最後の按語。「初め國造・縣主の號ありて、未だその職掌を致さず」――名前だけはあったが、職務内容が定まっていなかった。素行は号(名)と職掌(実)とを分けて、後者が定まってはじめて「官を立つ」と数える。中國章以来の「名と實の一致」がここでも基準になっている。

禮儀章 二十二冠位十二階と八省百官 ── 官を立つるの始
原文
推古帝十一年、十二月戊辰朔、壬申始行冠位十二階、
孝德帝大化五年、春正月始置八省百官、
謹按、是立百官之始也、先是雖有群臣百寮諸卿有司之名、未致其職掌、及此置八省百官、始群臣之職分定、天下知其禮、及文武帝撰律令、大定官位職員、其後損益相續、而萬世襲之、以爲準據也、蓋立官者、治平之道、而有其事則不無其職、有其職則不無其官、有其官則不無其位、定有物必有則也、既立官設位、則其道其禮未嘗不正之也、

訓読
推古帝すゐこてい十一年じふいちねん十二月じふにぐわつ戊辰つちのえたつついたち壬申みづのえさるはじめて冠位くわんゐ十二じふにかいおこな
孝德帝かうとくてい大化たいくわ五年ごねんはる正月しやうぐわつはじめて八省はつしやう百官ひやくくわん
つつしみてあんずるに、百官ひやくくわんつるのはじめなり。これよりさき群臣ぐんしん百寮ひやくれう諸卿しよけい有司いうしありといへども、いまだその職掌しよくしやういたさず。ここにおよびて八省はつしやう百官ひやくくわんき、はじめて群臣ぐんしん職分しよくぶんさだまり、天下てんかそのれいる。文武帝もんむていおよびて律令りつりやうえらび、おほいに官位くわんゐ職員しよくゐんさだむ。そののち損益そんえきあひぎて、萬世ばんせいこれにり、もつ準據じゆんきよすなり。けだくわんつるは、治平ちへいみちなり。そのことあればすなはちそのしよくなくんばあらず、そのしよくあればすなはちそのくわんなくんばあらず、そのくわんあればすなはちそのくらゐなくんばあらず。さだめてものあればかならのりあるなり。すでくわんくらゐまうくるときは、すなはちそのみちそのれいいまかつてこれをたださずんばあらず。

現代語訳
推古天皇の十一年、十二月戊辰の朔、壬申の日、はじめて冠位十二階を行われた。
孝德天皇の大化五年、春正月、はじめて八省百官を置かれた。
つつしんで考えてみるに、これが百官を立てることのはじめである。これより前にも、群臣・百寮・諸卿・有司という名はあったが、まだその職掌が定まっていなかった。ここに及んで八省百官を置き、はじめて群臣の職分が定まって、天下がその禮を知った。文武天皇に及んで律令を撰び、官位と職員とを大いに定めた。その後は減らし加えることが受け継がれて、万世これに拠り、基準としている。思うに官を立てることは、治まり平らかであるための道である。その事があれば必ずその職があり、その職があれば必ずその官があり、その官があれば必ずその位がある。定まったものがあれば必ずその法則があるのである。すでに官を立て位を設けたなら、その道もその禮も、正されないままであったためしはない。

解説
事 → 職 → 官 → 位という四段の連鎖が、この節の骨である。仕事があるから職務がある、職務があるから官がある、官があるから位がある。制度は現実の仕事から立ち上がるという順序を明示している。
結びの「物あれば必ず則あるなり」は聖政章十六節と同じ『詩經』の句で、あちらでは「政敎法令は德の末か」への反論に、こちらでは官制の必然性の根拠に用いられている。同じ一句を章ごとに違う場所で効かせるのが素行の書き方である。

禮儀章 二十三官は惟れ百、その統ぶるところは文武の二職に在り
原文
竊按、官惟百、而所其統在文武之二職、文以守禮、武以糾違、故草業乃以武臣立其功、守成乃以文臣立其禮、文武互根、先後以時、而輔佐於一人、是乃往古神聖所以遣經津主神武雷神于諸不順者、命二神侍天孫、且先天忍日命也、故神武帝封賞道臣命饒速日命、令天種子命天富命以爲左右、歷代因循以重此二職也、夫有土地則立其司、有人民則建其長帥、有物則設其司、有事則命其職、而置師以敎其道、立監以省其務、以糾其禮記其事、垂法於萬世、期治平於天下、是乃立官之禮也、官立位定、則百寮有司及四民之制、其禮自正、因其品位從其尊卑、以制家宅衣服、設飲食器用、定交際言語之法、正冠昏喪祭之禮、奉三綱而明明德、立官之義其用大哉、否乃官虛設徒虛名、非其人而食其職、無其功而居其官、於玆百官失其職掌、遂猶桃梗土偶飾金蟬紹、故天下之禮混于上、而四民倍焉于下、豈往古神聖之心乎、

訓読
ひそかにあんずるに、くわんひやくにして、そのぶるところは文武ぶんぶ二職にしよくり。ぶんもつれいまもり、もつただす。ゆゑ草業さうげふにはすなは武臣ぶしんもつてそのこうて、守成しゆせいにはすなは文臣ぶんしんもつてそのれいつ。文武ぶんぶたがひざし、先後せんごときもつてして、一人いちにん輔佐ほさす。すなは往古わうこ神聖しんせい經津主神ふつぬしのかみ武雷神たけみかづちのかみもろもろ不順者ふじゆんしやつかはし、二神にしんめいじて天孫てんそんせしめ、天忍日命あまのおしひのみことさきだたしめたまふ所以ゆゑんなり。ゆゑ神武帝じんむてい道臣命みちのおみのみこと饒速日命にぎはやひのみこと封賞ほうしやうし、天種子命あまのたねこのみこと天富命あまのとみのみことをしてもつ左右さいうさしむ。歷代れきだい因循いんじゆんしてもつてこの二職にしよくおもんずるなり。土地とちあればすなはちそのつかさて、人民じんみんあればすなはちその長帥ちやうすゐて、ものあればすなはちそのつかさまうけ、ことあればすなはちそのしよくめいじ、しかしてきてもつてそのみちをしへ、かんててもつてそのつとめかへりみ、もつてそのれいただしそのことしるし、はふ萬世ばんせいれ、治平ちへい天下てんかす。すなはくわんつるのれいなり。くわんくらゐさだまるときは、すなは百寮ひやくれう有司いうしおよ四民しみんせい、そのれいおのづかただし。その品位ひんゐりその尊卑そんぴしたがひ、もつ家宅かたく衣服いふくせいし、飲食いんしよく器用きようまうけ、交際かうさい言語げんごはふさだめ、冠昏喪祭くわんこんさうさいれいただし、三綱さんかうほうじて明德めいとくあきらかにす。くわんつるの、そのようだいなるかなしからざればすなはくわんむなしくまうけられいたづらに虛名きよめいのみ、そのひとにあらずしてそのしよくみ、そのこうなくしてそのくわんる。ここにいて百官ひやくくわんその職掌しよくしやううしなひ、つひ桃梗たうかう土偶どぐうきんかざ蟬紹せんせうするがごとし。ゆゑ天下てんかれいかみこんじ、しかして四民しみんしもそむく。往古わうこ神聖しんせいこころならんや。

現代語訳
ひそかに考えてみるに、官は百もあるけれども、それを統べるところは文と武との二職にある。文は禮を守り、武は違うものを糾す。だから創業のときには武臣によってその功を立て、守成のときには文臣によってその禮を立てる。文と武とは互いに根ざし合い、先と後とは時に応じて入れ替わり、そうして一人の君を輔佐する。これこそ昔の神聖なる方々が、経津主神と武雷神とを従わない者たちのもとへ遣わし、二神に命じて天孫にお仕えさせ、また天忍日命を先導させられた理由である。だから神武天皇は道臣命と饒速日命とを封じ賞し、天種子命と天富命とを左右の臣とされた。歴代これを受け継いで、この二職を重んじてきたのである。そもそも土地があればその司を立て、人民があればその長を立て、物があればその司を設け、事があればその職を命じ、そのうえで師を置いてその道を教え、監督を立ててその務めを省み、その禮を糾しその事を記して、法を万世に垂れ、天下の治まり平らかであることを期する。これが官を立てる禮である。官が立ち位が定まれば、百官も役人も士農工商の制も、その禮はおのずと正しくなる。その品位により、その尊卑に従って、家や衣服を定め、飲食や器物を設け、交際やことばづかいの法を定め、冠婚葬祭の禮を正し、君臣・父子・夫婦の三綱を奉じて明らかな徳を明らかにする。官を立てることの意義は、そのはたらきが大きい。そうでなければ、官はむなしく設けられてただ空名があるばかりで、ふさわしい人でないのにその俸禄を食み、功もないのにその官にいる。こうして百官はその職掌を失い、ついには桃の木の人形や土人形に金を飾り立てたようなものになる。だから天下の禮は上で混じり、四民は下で背く。これがどうして昔の神聖なる方々の心であろうか。

解説
禮儀章 上の結び。百官を文と武との二職に統べるのは素行の持論で、兵学者としての彼が最もよく現れるところである。「文は以て禮を守り、武は以て違を糾す」。そして創業には武、守成には文と時期で使い分ける。
後半は官が空洞化したとき何が起きるか。「その人にあらずしてその職を食み、その功なくしてその官に居る」――世襲で名ばかりの官職が並ぶ状態を、桃の木の人形に金箔を貼ったようなものと切って捨てる。「天下の禮上に混じ、四民下に倍く」――上が形骸化すれば下は従わなくなる、という指摘は、素行が生きた元禄前夜の武家社会への批評としても読める。
禮儀章 中では、この後に朝儀・年中行事・饗宴の禮などが続きます。