中國章 一豐葦原千五百秋の瑞穗の地
原文
天神謂伊弉諾尊伊弉冊尊曰、有豐葦原千五百秋瑞穗之地、宜汝往脩之、廼賜天瓊戈、
一書曰、豐葦原千五百秋之瑞穗國者、大八洲未生以前有其名、而無形相、強字其形爲天瓊矛之所成、大八洲國者、即今大日本、其中心號曰大日本日高見、大日本名之者、由大日孁貴之降靈、故有此名、
訓読
天神、伊弉諾尊・伊弉冊尊に謂りて曰く、豐葦原千五百秋瑞穗の地あり、宜しく汝往いて脩むべしとのたまひて、廼ち天瓊戈を賜ふ。
一書に曰く、豐葦原千五百秋之瑞穗國は、大八洲未だ生らざる以前にその名あり。而して形相なし。強ひてその形を字して天瓊矛の成れるところと爲すものなり。大八洲國は即ち今の大日本なり。その中心を號して大日本日高見と曰ふ。大日本と名づくるは大日孁貴の降靈に由る。故にこの名あり。
現代語訳
天神が伊弉諾尊・伊弉冊尊に語って言われた。「豐葦原の千五百秋の瑞穗の地がある。そなたたち、行ってこれを治めよ」。そうして天瓊戈を授けられた。
また一書にはこうある。豐葦原千五百秋之瑞穗國という名は、大八洲がまだ生まれていない以前からあった。しかしまだ形はなかった。しいてその形を名づけていえば、天瓊矛から成ったものである。大八洲國とはすなわち今の大日本であり、その中心を名づけて大日本日高見という。大日本と名づけるのは大日孁貴(天照大神)が霊を降されたことによる。だからこの名がある。
解説
中國章は「国の名」から始まる。素行がここで注目するのは、国土が生まれる前から国号があったという一書の一句である。名が先にあり、形が後から成る――天先章で「生には先後なく、成には先後あり」と論じた枠組みが、そのまま国号にも当てはめられている。以下の各節は、この長い国号を一字ずつ解いてゆく作業になる。
中國章 二是れ本朝の水土を謂ふの始なり
原文
謹按、是謂本朝水土之始也、初既有此稱、則其水土之美不識、而可知之、蓋豐者、盛當之言也、葦原者、草昧之稱也、千五百秋者、衆多之義、秋瑞穗者、百穀盛熟之意也、天神之靈、無不通、故知水土之沃壤、人物之庶當、教化可以施焉、夫知其機之謂乎、二神從之、以遂其功、其所繫全在天神、繫哉本朝開闢之義、悉因神聖之靈、是乃實天授之人與之也、故皇統有億兆之系、終無天壤之窮矣、
訓読
謹みて按ずるに、是れ本朝の水土を謂ふの始なり。初め既にこの稱あれば、その水土の美たること識らせずして知りぬべし。蓋し豐は盛當の言なり。葦原は草昧の稱なり。千五百秋は衆多の義にして、秋瑞穗は百穀盛熟の意なり。天神の靈は通ぜずといふことなし。故に水土の沃壤、人物の庶當、教化以て施すべきことを知りたまふ。夫れその機を知るの謂か。二神これに從つて以てその功を遂げたまふ。その繫るところは全く天神に在り。繫る哉、本朝開闢の義、悉く神聖の靈に因る。是れ乃ち實に天これを授け人これに與するなり。故に皇統は億兆の系あり、終に天壤と窮まりなし。
現代語訳
つつしんで考えてみるに、これが本朝の水土について語られたはじめである。国の初めにすでにこの名があるのだから、その水土がすぐれていることは、わざわざ教えられなくとも知れる。思うに「豐」とは盛んなさまをいう言葉である。「葦原」とはまだ開けていない未明の状態の称である。「千五百秋」とは数の多いことをいい、「秋の瑞穗」とは百穀がゆたかに実る意である。天神の霊妙なはたらきは通じないところがない。だから水土が肥えていること、人と物とが豊かであること、そこに教化をほどこすことができることを、あらかじめ知っておられた。これこそ「機を知る」ということであろう。二神はそれに従ってその功を成しとげられた。その拠りどころはすべて天神にある。ああ、かかっているのだ、本朝開闢の意味は、ことごとく神聖の霊妙なはたらきに拠っている。これこそまことに天がこれを授け、人がこれに与したのである。だから皇統には億兆の系譜があり、ついに天地とともに窮まることがない。
解説
国号の一字ずつを解いてゆく手さばきに注目したい。豐=盛ん/葦原=未開/千五百秋=多い/瑞穗=百穀の実り。素行はここで「未開だが豊かで、これから教化を施すべき地」という国号の含意を取り出す。そのうえで、その見通しを最初から持っていたのは天神であり、二神はそれに従っただけだと言う。建国の主体を人(二神)ではなく天に置くことで、皇統の無窮という結論が導かれる。
中國章 三磤馭慮嶋を以て國中の柱と爲す
原文
伊弉諾尊伊弉冊尊以磤馭慮嶋爲國中之柱、廼生大日本豐秋津洲、始起大八洲國之號焉、
訓読
伊弉諾尊・伊弉冊尊、磤馭慮嶋を以て國中の柱と爲す。廼ち大日本豐秋津洲を生み、始めて大八洲國の號起これり。
現代語訳
伊弉諾尊・伊弉冊尊は、磤馭慮嶋をもって国の中心の柱とされた。そうして大日本豐秋津洲を生み、はじめて大八洲國という呼び名が起こった。
解説
短い引用だが、以下四節にわたる字義解釈の的になる。「國中の柱」――国の中央に立つ、抜けない柱。素行はこの一語に、日本が「中」であることと「恆久に変わらない」ことの二つを同時に読み込む。天先章で見た「恆」と「中」が、ここで国土のかたちとして現れる。
中國章 四磤馭慮嶋・大日本の字義
原文
謹按、磤馭慮嶋者、自凝之嶋、言獨立而不倚之稱也、二神立于天浮橋之上、指下天瓊矛而探之、於是獲滄溟、其矛鋒滴瀝之潮、凝成一嶋、是也、國中者、中國也、柱者、建而不拔之稱、恆久而不變也、大者、無相對之稱、日者、陽之精也、明而不惑之稱也、本者、深根固蔕也、豐者、盛大之稱、秋津者、象其形也、
訓読
謹みて按ずるに、磤馭慮嶋は自ら凝るの嶋にして、獨立して不倚なるを言ふの稱なり。二神天浮橋の上に立ち、天瓊矛を以て指下して探りしかば、ここに滄溟を獲たまへり。その矛鋒より滴瀝るの潮凝りて一つの嶋と成るといふ、是れなり。國中は中國なり。柱は建てて拔けざるの稱にして、恆久にして變ぜざるなり。大は相對するなきの稱なり。日は陽の精にして、明らかにして惑はざるの稱なり。本は根を深くし蔕を固むるなり。豐は盛大の稱にして、秋津はその形を象るなり。
現代語訳
つつしんで考えてみるに、磤馭慮嶋とは「おのずから凝る島」であって、独り立ちして何ものにも寄りかからないさまをいう名である。二神が天浮橋の上に立ち、天瓊矛を指し下ろして探られたところ、そこに大海を得られた。その矛の先から滴った潮が凝って一つの島となった、というのがこれである。「國中」とは中國のことである。「柱」とは、立てて抜けないものの名であって、恆久に変わらないということである。「大」とは、並び比べるものがないという名である。「日」とは陽の精であって、明らかで惑わないという名である。「本」とは根を深くし蔕を固くすることである。「豐」とは盛大の名であり、「秋津」とはその形をかたどったものである。
解説
「大・日・本」の三字をそれぞれ、比類なさ・明るさ・根の深さと解く。国号を徳目に読みかえるこの手つきは、天先章で國常立尊の「常」、天御中主尊の「中」を徳として読んだのと同じである。とくに磤馭慮嶋=「独立して倚らず」という解釈は、後段で「日本は外朝と違い、他国に依存せず、また侵されもしなかった」と論ずる伏線になる。
中國章 五大八洲と、洲嶋の理
原文
大八洲者、其始生八洲也、所謂土者陰之精也、八者陰之極數、以統八方之義也、蓋是本朝生成之初也、
凡地之有洲、猶天之有星、地乃陰水之相積、而其間有洲嶋之相顯也、如天之積氣之裏、星宿之相著也、其洲或相連續、而異其域、或相獨立、而異其洲、本朝唯獨卓爾於洋海、稟天地之精秀、四時不違、文明以隆、皇統終不斷、其名實相應者、不可枚擧也、
訓読
大八洲とはその始め八つの洲を生ずればなり。所謂土は陰の精なり、八は陰の極數にして、八方を統ぶるの義なり。蓋し是れ本朝生成の初なり。
凡そ地に洲あることは、猶ほ天に星あるがごとし。地は乃ち陰水の相積みて、その間に洲嶋の相顯はるるあるなり。天の積氣の裏に星宿の相著くが如し。その洲或は相連續してその域を異にし、或は相獨立してその洲を異にす。本朝は唯り洋海に卓爾として天地の精秀を稟け、四時違はず、文明以て隆えて、皇統終に斷えず。その名と實と相應ずることは、枚擧すべからざるなり。
現代語訳
大八洲というのは、そのはじめに八つの島を生んだからである。いわゆる土は陰の精であり、八は陰のきわまった数であって、八方を統べるという意味である。思うにこれが本朝の生成のはじめである。
そもそも大地に島があるのは、天に星があるのと同じである。大地は陰の水が積み重なって、その間に島々が現れ出たものである。天に氣が積み重なったその中に星宿がとどまっているのと同じである。その島は、あるものはたがいに連なり続いて領域だけを異にし、あるものはたがいに独立して島そのものを異にする。本朝はただ一つ大海のなかに抜きんでて、天地の精秀を受け、四季はたがわず、文明は栄えて、皇統はついに絶えることがなかった。その名とその実とがぴたりと合っていることは、いちいち数えあげられないほどである。
解説
「連続する洲」と「独立する洲」の対比が、この節の眼目である。大陸は他国と地続きで領域の境を接するにすぎない(連續)が、日本は海に囲まれて独り立っている(獨立)。この地理的事実を、素行は徳の高さの証として読む。島国であることを弱点ではなく卓越と見る発想は、次節以降の外朝批判の土台となる。
中國章 六耶麻騰は山迹なり
原文
以日本號耶麻騰者、猶言山迹、上古人民穴居野處、專憑山爲營焉、故人迹在山、
神武帝東征之日、因其山迹之多、以建州設都邑、乃稱號耶麻騰、今倭州是也、自此以耶麻止爲天下之通稱、或曰吾國、或曰倭國、或曰倭奴國、猶如言吾國也、
訓読
日本を以て耶麻騰と號するは、猶ほ山迹と言はんがごとし。上古の人民穴居野處して、專ら山に憑りて營を爲す。故に人迹山に在り。
神武帝東征の日、その山迹の多きに因りて、以て州を建て都邑を設け、乃ち耶麻騰と稱號す。今の倭州これなり。これより耶麻止を以て天下の通稱と爲す。或は吾國と曰ひ、或は倭國と曰ひ、或は倭奴國と曰ふは、猶ほ吾國と言ふがごとし。
現代語訳
日本を耶麻騰(やまと)と呼ぶのは、「山迹(やまと)」というのと同じである。上古の人民は穴に住み野に暮らして、もっぱら山に拠って営みをなした。だから人の足跡は山にあったのである。
神武天皇が東征されたとき、その山迹の多さにちなんで州を建て都邑を設け、そこで耶麻騰と名づけられた。今の大和州がこれである。これ以来、やまとを天下の通称とするようになった。あるいは「吾國」といい、あるいは「倭國」といい、あるいは「倭奴國」というのも、「わが国」というのと同じことである。
解説
「倭」という他称に対する素行の態度が読みどころである。彼はこれを蔑称として退けるのではなく、「吾(わ)が國」という自称が外朝の耳に写されたものだと説明してみせる。名の主導権をこちら側に取り戻す身ぶりで、自序で「中國」の語を奪い返したのと同じ手つきである。
中國章 七葦原中國の主
原文
皇祖高皇産靈尊、遂立皇孫天津彦火瓊瓊杵尊、以欲爲葦原中國之主、
謹按、是以本朝爲中國之謂也、自此先、天照大神在于天上曰、聞葦原中國有保食神、然乃中國之稱、自往古既有此也、
訓読
皇祖高皇産靈尊、遂に皇孫天津彦火瓊瓊杵尊を立てて、以て葦原中國の主と爲さんと欲す。
謹みて按ずるに、是れ本朝を以て中國と爲すの謂なり。これより先、天照大神天上に在して曰く、葦原中國に保食神ありと聞くと。然らば乃ち中國の稱は往古より既にこれあるなり。
現代語訳
皇祖高皇産靈尊は、ついに皇孫天津彦火瓊瓊杵尊をお立てになって、葦原中國の主とされようとした。
つつしんで考えてみるに、これが本朝を中國とすることの意味である。これより先に、天照大神が天上にあって「葦原中國に保食神があると聞く」と言われた。とすれば「中國」という呼び名は、はるか往古からすでにあったのである。
解説
本章の主張の典拠にあたる節。素行の論法は明快である――「中國」という語は素行の造語ではない。『日本書紀』が神代の段ですでに、この国を「葦原中國」と呼んでいる。ならば「中國=日本」は古典に根拠を持つ呼び名であって、大陸の専有物ではない。他称を借りたのではなく、もともと自称だったという主張である。
中國章 八水土の氣を稟けて性情を異にす
原文
凡人物之生成、一日未曾不罹水土、故生成于平易之土者、稟平易之氣、而性情自平易也、生成於嶮難之土者、稟嶮難之氣、而性情抵危險、豈唯人也、鳥獸草木亦然、是所以五方之民皆有性、而異其俗也、蓋有天之中、有地之中、有水土人物之中、有時宜之中、故外朝有服土中之說、迦維羅有天地之中之言、耶蘇亦曰得天之中、
訓読
凡そ人物の生成は、一日も未だ嘗て水土に罹らずんばあらず。故に平易の土に生成する者は、平易の氣を稟けて性情自ら平易なり。嶮難の土に生成する者は、嶮難の氣を稟けて性情危險に抵る。豈唯だ人のみならんや。鳥獸草木も亦然り。是れ五方の民皆性ありてその俗を異にする所以なり。蓋し天の中あり、地の中あり、水土人物の中あり、時宜の中あり。故に外朝に土の中に服くの說あり、迦維羅に天地の中なりの言あり、耶蘇も亦天の中を得と曰ふ。
現代語訳
そもそも人も物も、生まれ育つにあたって一日たりとも水土の影響を受けないということはない。だから平坦で穏やかな土地に生まれ育つものは、平易な氣を受けて性情もおのずと穏やかである。険しく難儀な土地に生まれ育つものは、険難の氣を受けて性情も危険に立ち向かう。これは人だけのことではない。鳥獣草木もまた同じである。だからこそ五方の民はそれぞれに性質を持ち、習俗を異にするのである。思うに、天の中があり、地の中があり、水土と人物の中があり、時宜の中がある。だからこそ外朝には「土の中に服く」という説があり、迦維羅には「天地の中である」という言葉があり、耶蘇もまた「天の中を得た」という。
解説
ここは本章でも屈指の重要な一節である。素行は「どの国も自分を中だと言っている」という事実をまず認める。周は洛邑を天下の中とし、天竺はカピラを中と言い、西洋もまた自分を中と言う。つまり「中」の称は誰にでも主張できてしまう。ならば決め手は何か――それが次節の「天地の中とは何か」の議論になる。相対化を経てから自国の卓越を論ずるという手続きを踏んでいるところに、素行の議論の骨がある。
中國章 九天地の中を得れば中國と稱すべし
原文
愚按、天地之所運、四時之所交、得其中、則風雨寒暑之會不偏、故水土沃而人物精、是乃可稱中國、萬邦之衆、唯本朝及外朝得其中、而本朝神代、既有天御中主尊、二神建國中之柱、則本朝之爲中國、天地自然之勢也、神神相生、聖皇連綿、文武事物之精秀、實以相應、是豈誣而稱之乎、
訓読
愚按ずるに、天地の運るところ、四時の交はるところ、その中を得れば、風雨寒暑の會偏らず。故に水土沃えて人物精し。是れ乃ち中國と稱すべし。萬邦の衆き、唯だ本朝及び外朝のみその中を得たり。而して本朝の神代、既に天御中主尊あり、二神國中の柱を建つ。則ち本朝の中國たるや、天地自然の勢なり。神神相生み、聖皇連綿し、文武事物の精秀、實に以て相應ず。是れ豈誣ひてこれを稱せんや。
現代語訳
わたしの考えでは、天地がめぐるところ、四季が交わるところ、そこで「中」を得ていれば、風雨や寒暑のめぐり合わせがかたよらない。だから水土は肥え、人と物とはこまやかに秀でる。これこそ中國と称してよいのである。数多い国々のうち、ただ本朝と外朝だけがその中を得ている。そのうえで本朝には、神代にすでに天御中主尊がおられ、二神が国中の柱を建てられた。とすれば本朝が中國であることは、天地自然のなりゆきである。神々があいついで生まれ、聖なる天皇が連綿と続き、文と武、事と物の精秀さが、実際にそれとぴたり合っている。これをどうして偽って称するといえようか。
解説
前節の相対化を承けた結論である。素行の判定基準は気候の偏りのなさという、いわば経験的なものだ。その基準で残るのは日本と中国大陸の二つ。そこで決め手になるのが名と実の一致である。日本には神代からすでに「中」を名に持つ神(天御中主尊)があり、「国中の柱」があった。名がまずあり、しかも文武の実がそれに応じている。だから「誣ひて称する」=でっちあげではない、と言う。ここまでの論理の運びは、序で示された「水土・人物・治教の連続」という三点にきちんと対応している。
中國章 十東に美地あり ── 神武帝の東征
原文
神武帝纘神代之迹、都日向國宮崎宮曰、東有美地、青山四周、其中有乘天磐船而飛降者、蓋六合之中心乎、彼地必足以恢弘天業、光宅天下、遂東征、初平中州、觀大倭國畝傍山東南橿原之地、經始帝宅、
謹按、國屬鴻荒、時鍾草昧、蛇龍鳥虫得其處、人分彊而居、唯此西邊可以治、故天孫先降于此、多年踐塵、以養正也、逮神武帝、王澤既洽、當弘業于天下、故有此東征、始得中州之實、蓋西者金也、東者木也、自西及東者征伐之相克也、自東及西者化育之相生也、左旋右行乃天地日月五行之道、而至誠無息也、聖皇之征治可以法乾坤、
訓読
神武帝神代の迹を纘ぎ、日向國宮崎宮に都したまうて曰く、東に美地あり、青山四周せり。その中に天磐船に乘りて飛び降る者あり。蓋し六合の中心か。彼の地は必ず以て天業を恢弘し、天下に光宅するに足りぬべし。遂に東を征ちたまうて、初めて中州を平げ、大倭國畝傍山東南橿原の地を觀て、帝宅を經り始む。
謹みて按ずるに、國は鴻荒に屬し、時は草昧に鍾まれり。蛇龍鳥虫はその處を得、人は彊を分けて居る。唯だこの西邊以て治むべし。故に天孫先づここに降りたまひ、多年塵を踐みて、以て正を養ひたまふ。神武帝に逮びて王澤既に洽し。當に業を天下に弘むべし。故にこの東征ありて、始めて中州の實を得たまふ。蓋し西は金にして、東は木なり。西より東に及ぶは征伐の相克なり。東より西に及ぶは化育の相生なり。左旋右行は乃ち天地日月五行の道にして、至誠息むことなきなり。聖皇の征治は乾坤に法るべし。
現代語訳
神武天皇は神代の事跡を継いで日向國宮崎宮に都し、こう言われた。「東によい地がある。青い山が四方をめぐっている。その中に天磐船に乗って飛び降った者がある。思うにそこは六合(天地四方)の中心であろうか。かの地はきっと、天の御業を大きく広め、天下に光り宅るに足るであろう」。そうしてついに東を討たれ、はじめて中州を平定し、大倭國畝傍山の東南、橿原の地を見て、帝の宮を営みはじめられた。
つつしんで考えてみるに、当時この国はまだ荒れたままで、時は未明のさなかにあった。蛇龍や鳥虫がそれぞれの居所を占め、人は境を分けて住んでいた。ただこの西のあたりだけが治めやすかった。だから天孫はまずここに降られ、長年ちりの中を歩んで、正しさを養われたのである。神武天皇の代になって王の恩沢はすでにゆきわたった。いまこそ業を天下に広めるべきときである。だからこの東征があり、はじめて中州の実を得られた。思うに西は五行の金であり、東は木である。西から東へ及ぶのは征伐の相克である。東から西へ及ぶのは化育の相生である。左にめぐり右に行くのは天地・日月・五行の道であって、至誠が止むことのないさまである。聖なる天皇の征討と統治は、天地のはたらきにのっとるべきである。
解説
東征を五行説で説明するのが素行らしい。西(金)から東(木)へ進むのは金克木で「征伐」、東から西へは木生火…で「化育」。つまり神武天皇が西から東へ攻め上ったのは征伐の理にかない、その後に東から西へ及ぶ統治は化育の理にかなう。単なる史実の記述を、天地の運行の一部として位置づけている。この「征と治を乾坤に法る」という発想は、兵学者としての素行の面目でもある。
中國章 十一或疑ふ ── 天孫の降臨、何ぞ西の偏に在りや
原文
或疑、二神以磤馭慮嶋爲國中之柱、廼生大日本、然乃天孫之降、何在西偏乎、竊謂、是以末季之俗意、量上古之靈神、甚渉意見臆說也、神聖之道悠久、而成其功、先因其易、而建其極、考其遏化、而洪其業、故其成也久、其根本也固、實萬世不拔之大基、而博厚配地、高明配天、悠久無彊也、二神爲國中之柱者、所以可稱大日本之中州之言也、二神之聖、既鑑萬世、以此洲爲中國、以天孫主此洲、其天鑒魏魏乎哉、
訓読
或は疑ふ、二神は磤馭慮嶋を以て國中の柱と爲し、廼ち大日本を生みたまふ。然らば乃ち天孫の降りたまふこと、何ぞ西の偏に在りやと。竊に謂へらく、是れ末季の俗意を以て上古の靈神を量る、甚だ意見臆說に渉るなり。神聖の道は悠久にしてその功成る。先づその易きに因りてその極を建て、その遏化を考へてその業を洪む。故にその成るや久しく、その根本や固し。實に萬世不抜の大基にして、博厚は地に配し、高明は天に配し、悠久は彊りなきなり。二神國中の柱と爲すものは、大日本の中州と稱すべき所以の言なり。二神の聖、既に萬世を鑑みて、この洲を以て中國と爲し、天孫を以てこの洲に主たらしむ。その天鑒魏魏たる哉。
現代語訳
ある人が疑って言う。二神は磤馭慮嶋を国の中心の柱とし、そうして大日本を生まれた。それならば天孫が降られたのが、どうして西のかたよったところなのか、と。ひそかに思うに、これは末の世の俗な了見で上古の霊妙な神をおしはかるもので、たいへんな臆説である。神聖の道は悠久であって、その功が成る。まずやりやすいところに拠ってその極を立て、その広がりを考えて業を大きくする。だからその成就は久しく、その根本は堅い。まことに万世に抜けない大きな土台であって、博く厚いことは地にひとしく、高く明らかなことは天にひとしく、悠久であることに限りがない。二神が国中の柱とされたということは、大日本を中州と称してよいことの根拠となる言葉である。二神の聖なるお心は、すでに万世を見通して、この島を中國とし、天孫をこの島の主とされた。その天の鑑みたまうことの、なんと高く大きいことか。
解説
「或疑」形式――想定される反論をみずから立て、それに答える。この形は本書の附録「或疑」に受け継がれる。反論は鋭い。中央の柱を立てておきながら、天孫が降ったのは九州という西の端ではないか、と。素行の答えは「まずやりやすいところから始めて、そこから広げる」というもので、建国を一度に完成する事業ではなく、時間をかけて根を張る事業と見る。天先章の「成るや久しく、根本や固し」がここでも繰り返される。
中國章 十二腋上嗛間丘の国見
原文
神武帝三十有一年、夏四月乙酉朔、皇輿巡幸、因登腋上嗛間丘、而廻望國狀曰、妍哉乎、國之獲矣、雖內木綿之眞迮國、猶如蜻蛉之臀呫焉、由是始有秋津洲之號、昔伊弉諾尊目此國曰、日本者浦安國、細戈千足國、磯輪上秀眞國、復大己貴大神目之曰、玉牆內國、及饒速日命乘天磐船、翔行太虛、睨是郷而降之、故因目之曰、虛空見日本國矣、
訓読
神武帝の三十有一年、夏四月乙酉の朔、皇輿巡幸す。因りて腋上の嗛間丘に登りまして、國狀を廻望せて曰はく、妍哉乎、國を獲つること。內木綿の眞迮國と雖も、猶ほ蜻蛉の臀呫せるがごとくあるかなと。これに由りて始めて秋津洲の號あり。昔伊弉諾尊この國を目けて曰はく、日本は浦安國、細戈千足國、磯輪上秀眞國と。復大己貴大神これを目けて曰はく、玉牆內國と。饒速日命の天磐船に乘りて、太虛を翔行きて、この郷を睨て降りたまふに及びて、故に因りて目けて、虛空見日本國と曰ふ。
現代語訳
神武天皇三十一年、夏四月乙酉の朔、天皇のみ車が巡幸された。そこで腋上の嗛間丘に登られ、国のかたちを見わたして言われた。「ああ、よい国を得たものだ。内木綿のように狭い国ではあるけれども、まるで蜻蛉が交尾しているように、山々が連なりめぐっていることよ」。これによってはじめて秋津洲という名が起こった。昔、伊弉諾尊はこの国を名づけて「日本は浦安國、細戈千足國、磯輪上秀眞國である」と言われた。また大己貴大神はこれを名づけて「玉牆內國」と言われた。饒速日命が天磐船に乗って大空を翔けめぐり、この郷を見下ろして降られたことにちなんで、「虛空見日本國」と名づけられた。
解説
この国見の場面が、以下三節にわたる日本地理論の出発点になる。素行が拾い上げるのは五つの国号――秋津洲・浦安國・細戈千足國・磯輪上秀眞國・玉牆內國・虛空見日本國。いずれも『日本書紀』が伝える古い名で、素行はこれらを一つずつ地形の特徴に読み替えてゆく。古い国号は、日本の地理そのものを言い当てた記録である――これが素行の読み方である。
中國章 十三本朝の地形
原文
謹按、本朝之地形、廣裒、長索、西上東下皆豐大也、長居位而背陰面陽、象蜻蛉之臀呫、洋海廻四方、故曰浦安國也、唯西方少可寄外域之舶、而無襲來之畏、故稱細戈千足國、磯輪上秀眞國、是內木綿之眞迮國也、其形如文、而品物無不備、尤秀精之地也、
訓読
謹みて按ずるに、本朝の地形は廣くして裒く、長くして索し。西上東下皆豐大なり。長く位に居りて陰を背にし陽に面ふ。蜻蛉の臀呫せるに象り、洋海四方を廻る。故に浦安國と曰ふなり。唯だ西方少しく外域の舶を寄すべし。而も襲來の畏れなし。故に細戈千足國、磯輪上秀眞國と稱す。是れ內木綿の眞迮國なり。その形は文の如くにして、品物備はらざることなく、尤も秀精の地なり。
現代語訳
つつしんで考えてみるに、本朝の地形は、広くゆたかで、細長く伸びている。西は上り東は下って、いずれも豊かで大きい。長く位置を占めて、北の陰を背にし南の陽に向かっている。蜻蛉が交尾しているような形をとり、大海が四方をめぐっている。だから浦安國というのである。ただ西の方から少しばかり外国の船が寄せうるだけで、襲来の恐れはない。だから細戈千足國、磯輪上秀眞國と称する。これが内木綿の真迮國である。その形は綾織りのようで、産物として備わらないものはなく、まことに最もすぐれた土地である。
解説
国見の場面で挙げられた古い国号を、素行はここで地形の記述として読み直す。四方を海がめぐるから「浦安(うらやす)」=入江が安らか。外から船が寄せられるのは西のわずかな範囲だけだから「細戈千足(くわしほこちたる)」。狭いけれども産物に不足がないから「真迮(まさき)」。島国であることの三つの帰結――防衛、自給、まとまりが、この一節に凝縮されている。
中國章 十四外朝の五つの失
原文
帝曰、妍哉乎國之獲、嘻、大哉、蓋國之在地不可枚擧、而其文物、古今之所稱者、以外朝爲宗、日本朝鮮次之、愚竊考惟、四海之間、唯本朝與外朝共得天地之精秀、神聖一其機、而外朝亦未如本朝之秀眞也、凡外朝其封彊太廣、而連續四夷、無封域之要、故藩屏之屯戍甚多、而不得守其約、失是一也、近迫四夷、故長城要塞之固世世勞人民、失是二也、守成之徒、或通狄構難、或奔狄泄其情、失是三也、匈奴契丹北虜覦窺其賞、數以劫奪、失是四也、終削其國、易其姓、而天下左袵、大失其五也、
訓読
帝の曰はく、妍哉乎、國を獲つると。嘻、大なる哉。蓋し國の地に在ること枚擧すべからず。而してその文物、古今の稱するところは外朝を以て宗と爲し、日本・朝鮮これに次ぐ。愚竊に考へ惟ふに、四海の間、唯だ本朝と外朝と共に天地の精秀を得て、神聖その機を一にす。而れども外朝も亦未だ本朝の秀眞たるに如かざるなり。凡そ外朝はその封彊太だ廣くして、四夷に連續し、封域の要なし。故に藩屏の屯戍甚だ多くして、その約を守ることを得ず。失これ一なり。近く四夷に迫る。故に長城要塞の固世世人民を勞す。失これ二なり。守成の徒、或は狄に通じて難を構へ、或は狄に奔りてその情を泄らす。失これ三なり。匈奴・契丹・北虜その賞を覦窺ひ、數以て劫奪せらる。その失四なり。終にその國を削りその姓を易へて、天下左袵す。大失その五なり。
現代語訳
天皇は「ああ、よい国を得たものだ」と言われた。ああ、なんと大きなことか。そもそも地上に国があることは数えきれない。そしてその文物について、古今に称えられるところでは外朝を第一とし、日本と朝鮮がこれに次ぐという。わたしがひそかに考えてみるに、四海のうち、ただ本朝と外朝だけがともに天地の精秀を得て、神聖のはたらきを同じくしている。しかしその外朝も、まだ本朝の秀真であることには及ばない。そもそも外朝は領土があまりに広く、四方の異民族と地続きで、領域の要害がない。だから守備の駐屯がきわめて多く、それでも約束を守りきれない。これが第一の失である。すぐ近くまで異民族が迫っている。だから長城や要塞を固めるために、代々人民を疲れさせる。これが第二の失である。守備にあたる者が、あるいは異民族と通じて乱を起こし、あるいは異民族のもとへ走って内情を漏らす。これが第三の失である。匈奴・契丹・北方の異民族がその富をうかがい、たびたび略奪される。これが第四の失である。ついには国土を削られ王朝の姓を易えられて、天下が左袵(異民族の風俗)となる。これが第五の、そして最大の失である。
解説
中國章のなかで最も議論を呼ぶ箇所である。素行は「文物では外朝が第一」という当時の常識をいったん認めたうえで、地政学的な五つの弱点を数え上げてそれを覆す。五失はきれいに一本の線をなしている――境界がない(一)→守備に人民が疲れる(二)→守備兵が裏切る(三)→略奪される(四)→王朝が倒れ天下が左袵する(五)。天先章の結語「二神の功業は万世左袵を免るる所以なり」が、ここで大陸との対比として具体化する。ただしこれは十七世紀の日本人による対外認識であり、明清交替の衝撃を色濃く反映した議論であることを踏まえて読みたい。
中國章 十五獨り本朝は天の正道に中る
原文
況河海之遠、而魚蝦之美、運轉之利、不給、故人物亦異其俗、如喫牛羊之美、衣氈裘、坐榻床、以可見之也、況朝鮮之叢爾乎、獨本朝中天之正道、得地之中國、正南面之位、背北陰之險、上西下東、前擁數洲而利河海、後據絕嶠而望大洋、毎州悉有運漕之用、故四海之廣猶如一家之約、萬國之化育同天地之正位、竟無長城之勞、無戎狄之膺、況鳥獸之美、林木之材、布縷之巧、金木之工、無不備、聖神稱美之嘆、豈虛哉、
昔大元之世宗奪外朝、乘其勢、瞰本朝、大兵悉敗、而歸彼地者僅三人耳、其後元之主數、不得覦窺我藩籬、況朝鮮新羅百濟皆本朝之藩臣乎、聖神翔行大虛、睨此郷而降、最宜哉、
以上論本朝之水土、
訓読
況んや河海の遠くして、魚蝦の美、運轉の利給らず。故に人物も亦その俗を異にす。牛羊の美を喫ひ、氈裘を衣、榻床に坐するが如き、以てこれを見るべきなり。況んや朝鮮の叢爾たるをや。獨り本朝は天の正道に中り、地の中國を得、南面の位を正しうして北陰の險を背にす。上は西、下は東、前に數洲を擁して河海を利し、後は絕嶠に據りて大洋に望み、毎州悉く運漕の用あり。故に四海の廣きも猶ほ一家の約なるがごとく、萬國の化育は天地の正位を同じうす。竟に長城の勞なく、戎狄の膺つなし。況んや鳥獸の美、林木の材、布縷の巧、金木の工、備へずといふことなし。聖神稱美の嘆、豈虛ならんや。
昔大元の世宗外朝を奪つて、その勢に乘じ、本朝を瞰ふ。大兵悉く敗れて、彼の地に歸る者僅に三人のみ。その後元の主數、我が藩籬を覦窺ふことを得ず。況んや朝鮮・新羅・百濟は皆本朝の藩臣たるをや。聖神大虛に翔行きてこの郷を睨て降りたまふこと、最も宜なる哉。
以上は本朝の水土を論ず。
現代語訳
まして外朝は河や海が遠く、魚介のうまみも、水運の便も足りない。だから人と物とはその習俗をも異にする。牛や羊の肉をうまいとして食い、毛皮の衣を着、腰かけに坐るといったありさまを見ればわかる。まして朝鮮の小さいことはいうまでもない。ひとり本朝は天の正しい道すじにあたり、地の中國を得て、南面の位を正しくし、北の陰の険しさを背にしている。上手は西、下手は東、前にはいくつもの島を抱いて河海の利を得、後ろは切り立った山に拠って大洋を望み、どの地方にも水運のはたらきがある。だから四海の広さもなお一家のようにまとまり、万国の化育は天地の正しい位置を同じくしている。ついに長城を築く労もなく、異民族を討つこともない。まして鳥獣のうまみ、林木の材、布や糸をつむぐ巧み、金や木を扱う工まで、備わらないものはない。聖なる神がこの国を讃えられた嘆声は、どうして空言であろうか。
昔、元の世祖が外朝(中国)を奪い、その勢いに乗じて本朝をうかがった。大軍はことごとく敗れ、かの地へ帰りえた者はわずか三人だけであった。その後、元の歴代の主は、わが藩屏をうかがうことができなかった。まして朝鮮・新羅・百済はみな本朝の藩臣であったのだから、なおさらである。聖なる神が大空を翔けてこの郷を見下ろして降られたのは、まことにもっともなことである。
以上は本朝の水土について論じたものである。
解説
前節の「五失」と対をなす、本朝の利点の列挙で水土論が締めくくられる。ただしこの節には、当時の対外認識の限界がそのまま出ている。朝鮮・新羅・百済を「本朝の藩臣」とするのは古代の外交伝承をそのまま受け取ったもので、史実としては成り立たない。元寇の「帰りえた者わずか三人」も伝承上の誇張である。素行が江戸前期の日本でどのような知識と気分のなかで書いたか、その資料として読むべき箇所である。
中國章 十六四道將軍 ── 中國を四道に分つの始
原文
崇神帝十年七月、選群卿遣四方、同年十月、命四道將軍、以平戎夷之狀、
謹按、是中國分四道之始也、此時王化未洽、故有此命、
成務帝五年、秋九月、隔山河而分國縣、隨阡陌以定邑里、因以東西爲日縱、南北爲日橫、山陽曰影面、山陰曰背面、以是百姓安居、天下無事焉、
謹按、是中國分國境定諸道之始也、蓋景行帝五十五年、以彦狹嶋王拜東山道十五國之都督、則東山道等之名、既在前朝也、
訓読
崇神帝の十年七月、群卿を選びて四方に遣はす。同年十月、四道將軍に命ずるに、戎夷を平ぐるの狀を以てす。
謹みて按ずるに、是れ中國を四道に分かつの始なり。この時王化未だ洽からず、故にこの命あり。
成務帝の五年、秋九月、山河を隔てて國縣を分かち、阡陌に隨つて以て邑里を定む。因りて以て東西を日縱と爲し、南北を日橫と爲し、山陽を影面と曰ひ、山陰を背面と曰ふ。是を以て百姓安居して天下事なし。
謹みて按ずるに、是れ中國の國境を分かち諸道を定むるの始なり。蓋し景行帝の五十五年、彦狹嶋王を以て東山道十五國の都督に拜けたまふ。則ち東山道等の名は既に前朝に在るなり。
現代語訳
崇神天皇十年七月、群卿を選んで四方に遣わされた。同じ年の十月、四道将軍に命じて、戎夷を平定する方策を示された。
つつしんで考えてみるに、これが中國を四つの道に分けたはじめである。この時はまだ王の徳化がゆきわたっていなかったので、この命があったのである。
成務天皇五年、秋九月、山や川を境として国と県とを分け、あぜ道に従って邑と里とを定められた。それによって東西を日縦とし、南北を日横とし、山の南面を影面といい、山の北面を背面といった。これによって民は安んじて住み、天下は事なきを得た。
つつしんで考えてみるに、これが中國の国境を分かち諸道を定めたはじめである。思うに景行天皇五十五年に彦狹嶋王を東山道十五国の都督に任じられている。とすれば東山道などの名は、すでに前の御代からあったのである。
解説
ここから章の後半、制度論に入る。素行の関心は「いつ何が始まったか」という制度の起源にある。四道の分割は崇神朝、国県の境と邑里は成務朝、道の名は景行朝にすでにあった――と、行政区画の由来を古典から一つずつ拾い出す。前半の水土論が「天から与えられたもの」を語ったのに対し、後半は「人が営々と築いてきたもの」を語る。この二つがそろって、はじめて「中國」の名に実が伴う、という構えである。
中國章 十七王畿は七道のこれを宗とする所以なり
原文
凡村里以統縣、縣以統郡、郡以統國、國以統道、是自一迄十、自十歸一也、猶身使臂、臂使指、元氣之周還四支百骸也、故天下之大、四海之遠、無王化之不通、無不受正朔也、王畿所以七道宗之也、畿內者王室之小天下也、畿內之制明、則七道隨風而正、是乃北辰居其所、而衆星共之也、聖帝詳水土之制、百姓安居、天下無事、萬世因之以損益、帝之功不亦大乎、
訓読
凡そ村里は以て縣に統べ、縣は以て郡に統べ、郡は以て國に統べ、國は以て道に統ぶ。是れ一より十に迄り、十より一に歸るなり。猶ほ身の臂を使ひ、臂の指を使ひ、元氣の四支百骸を周還するがごとし。故に天下の大、四海の遠き、王化の通ぜずといふことなく、正朔を受けずといふことなきなり。王畿は七道のこれを宗とする所以なり。畿內は王室の小天下なり。畿內の制明らかなるときは、則ち七道風に隨ひて正し。是れ乃ち北辰その所に居りて、衆星のこれに共ふなり。聖帝は水土の制を詳かにして、百姓安居し天下無事なり。萬世これに因りて以て損益す。帝の功亦大ならずや。
現代語訳
そもそも村里は県に統べられ、県は郡に統べられ、郡は国に統べられ、国は道に統べられる。これは一から十へ及び、十から一へ帰るということである。ちょうど身が腕を使い、腕が指を使い、元氣が四肢と全身をめぐるのと同じである。だから天下の広さ、四海の遠さにあっても、王の徳化の通じないところはなく、暦を受けないところもない。王畿こそ七道がこれを宗とする理由である。畿内とは王室の小さな天下である。畿内の制が明らかであれば、七道は風になびくように正しくなる。これこそ「北辰がその所にいて、衆星がこれに向かう」ということである。聖なる天皇は水土の制を明らかにして、民は安んじて住み、天下は無事であった。万世にわたってこれに拠りつつ増減してきた。天皇の功もまた大きいではないか。
解説
村里→県→郡→国→道→王畿という入れ子の統治構造を、身体の比喩(身が腕を、腕が指を使う)で説く。要点は最後の「畿内は王室の小天下なり」である。中心が正しければ周辺はおのずと正しくなる――『論語』為政篇の北辰の比喩がここで用いられる。天先章から一貫する「中を得れば全体が位を得る」という論理が、統治制度の説明として繰り返されている。
中國章 十八畝傍山東南橿原の地は、蓋し國の壞區か
原文
神武帝東征之己未年、下令曰、當披山林、經營宮室、而恭臨寶位、以鎭元元、上則答乾靈授國之德、下則弘皇孫養正之心、然後兼六合以開都、掩八紘而爲宇、不亦可乎、觀夫畝傍山東南橿原地者、蓋國之壞區乎、可治之、即命有司經始帝都、
先人曰、帝纘神代之迹、都日向國宮崎宮、
謹按、是中州營都之初也、壞區猶言最中、蓋帝以天下之蒼生爲大任、深思切謀、守天帝授命之重、開天孫悠久之業、
訓読
神武帝東征の己未の年、令を下して曰はく、當に山林を披き、宮室を經營りて、恭みて寶位に臨み、以て元元を鎭むべし。上は則ち乾靈の國を授けたまふの德に答へ、下は則ち皇孫正を養ひたまふの心を弘めん。然して後に六合を兼ねて以て都を開き、八紘を掩ひて宇と爲さんこと、亦可ならずや。觀れば夫の畝傍山東南橿原の地は、蓋し國の壞區か。治むべし。即ち有司に命じて帝都を經り始む。
先人曰く、帝神代の迹を纘ぎ、日向國宮崎宮に都したまふ。
謹みて按ずるに、是れ中州營都の初なり。壞區は猶ほ最中と言ふがごとし。蓋し帝は天下の蒼生を以て大任と爲したまうて、深く思ひ切に謀り、天帝授命の重きを守り、天孫悠久の業を開きたまふ。
現代語訳
神武天皇の東征、己未の年に令を下して言われた。「山林を切りひらき、宮室を営み、つつしんで宝位に即いて、民を安んじよう。上は天の神が国を授けられた徳に応え、下は皇孫が正しさを養われた心を広めよう。そうしたのちに六合を兼ねて都を開き、八紘を覆って一つの家とすることも、またよいことではないか」。見わたせば、あの畝傍山の東南、橿原の地こそ、国のまんなかであろうか。ここを治めよう。そこで役人に命じて帝都を営みはじめられた。
先人はいう、天皇は神代の事跡を継いで日向國宮崎宮に都された、と。
つつしんで考えてみるに、これが中州に都を営んだはじめである。壞區とは「もなか(最中)」というのと同じである。思うに天皇は天下の民を養うことをご自身の大任とされ、深く思い切に謀って、天帝から命を授かった重さを守り、天孫の悠久の御業を開かれたのである。
解説
「八紘を掩ひて宇と爲す」の出典として名高い一節である(この語が近代に持ち出された経緯とは切り離して、まずは『日本書紀』の文脈で読みたい)。素行がここで注目するのは「壞區」の二字で、これを「最中(もなか)」――国土のまんなか――と解する。天御中主尊の「中」、國中の柱の「中」に続いて、都もまた「中」に置かれた。神・国土・都という三つの層で「中」が一貫しているというのが素行の主張である。
中國章 十九遷都の君は皆振はず、か
原文
遂東征以制中州、始議都宮之地、建後世之規、以永祚於萬萬世、此後國勢富庶、人物日盛、代代有遷都、至元明帝遷都於平城、以揚七代之聖風、格桓武帝、欲纘先聖之成烈、安億民之所止、敬天之休、致人之順、詔而覩新都之地、大命庶官、以服土中、還都於山州平安城、振明德於萬億世、是乃神武帝壞區之實也、
日本古人曰、遷都之君皆不復振矣、中州之遷都豈其然乎、非遠夷狄之害、非畏盜劫之難、唯富庶充世、而土壤不給、故遷都而日振、國勢彌張、夫京師爲四方之極、猶如樞宮之爲周天之極也、其選都邑非其中、乃不得其實、所謂中者精秀之義也、
訓読
遂に東征して以て中州を制し、始めて都宮の地を議り、後世の規を建て、以て祚を萬萬世に永くす。この後國勢富庶、人物日に盛にして、代代遷都あり。元明帝に至りて都を平城に遷して、以て七代の聖風を揚ぐ。格りて桓武帝、先聖の成烈を纘ぎ、億民の止まるところを安くし、天の休を敬み人の順を致さんと欲して、詔して新都の地を覩たまふ。大いに庶官に命じて以て土の中に服き、都を山州平安城に還し、明德を萬億世に振ひたまふ。是れ乃ち神武帝壞區の實なり。
日本の古人曰く、遷都の君は皆復た振はずと。中州の遷都は豈それ然らんや。夷狄の害を遠ざくるにあらず、盜劫の難を畏るるにあらず。唯だ富庶世に充ちて、土壤給らず。故に遷都して日に振ひ、國勢彌張れり。夫れ京師が四方の極たることは、猶ほ樞宮の周天の極たるがごときなり。その都邑を選ぶことはその中にあらざれば、乃ちその實を得ず。所謂中は精秀の義なり。
現代語訳
ついに東征して中州を平定し、はじめて都の地をはかり、後世の規範を立てて、皇位の祚を万々世に永くされた。この後、国は富み栄え、人と物とは日ごとに盛んになって、代々に遷都があった。元明天皇に至って都を平城に遷し、それによって七代の聖なる風を揚げた。さらに桓武天皇に至り、先の聖帝たちが成しとげた事業を継ぎ、億民の落ち着き先を安んじ、天の恵みをつつしみ人の従順を致そうとして、詔して新しい都の地を視察された。大いに諸官に命じて「土の中に服き」、都を山城の平安城に還して、明徳を万億世に振るわれた。これこそ神武天皇のいう壞區の実である。
日本の昔の人はいう、遷都をした君はみな二度と振るわない、と。中州の遷都はどうしてそうであろうか。異民族の害を遠ざけるためでもなく、盗賊の難を恐れてでもない。ただ富み栄える人が世に満ちて、土地が足りなくなったからである。だから遷都しても日ごとに振るい、国の勢いはいよいよ張った。そもそも都が四方の極であるのは、ちょうど天の枢が周天の極であるのと同じである。都邑を選ぶのに「中」でなければ、その実を得られない。いわゆる「中」とは、精秀という意味である。
解説
「遷都した君は振るわない」という当時のことわざに、素行は正面から反論する。大陸の遷都は外圧や治安からの逃避だが、日本の遷都は人口と富の増加によるものだ――だから遷都のたびに国勢はかえって張った、と。ここでも「中」が判定基準になる。都は「中」でなければ実を得ない。そして素行は「中」を単なる地理的中央ではなく「精秀の義」と定義しなおす。天先章以来の「中」の議論が、都城論としてここに着地する。
中國章 二十中州・中華の名實相齊しく
原文
天地以位、四時不違、陰陽惟中、寒暑不過、人民以止、萬物以聚、禮義惟立、武德以行、而後可稱壞區、可謂土中、
本朝始有中柱中國之號、況神武帝制中州、都壞區乎、共皆得其精秀、及平安城、遷之極、中之至、一歸神聖建國之道、故時序正、而寒暑不過、土壤膏沃、而人物文章、中州中華之名實相齊、建都之制大備、是乃壞區之生成也、
訓読
天地以て位し、四時違はず、陰陽惟れ中し、寒暑過ぎず、人民以て止まり、萬物以て聚まり、禮義惟れ立ち、武德以て行はる。而して後に壞區と稱すべく、土中と謂ふべし。
本朝は始より中柱・中國の號あり。況んや神武帝中州を制し壞區に都するをや。共に皆その精秀を得たり。平安城に及びては、遷の極、中の至り、一に神聖建國の道に歸す。故に時序正しくして寒暑過ぎず、土壤膏沃にして人物文章あり。中州・中華の名と實と相齊しく、建都の制大いに備はる。是れ乃ち壞區の生成なり。
現代語訳
天地が位を得、四季がたがわず、陰陽が中を保ち、寒暑が度を越さず、人民が落ち着いて住み、万物が集まり、礼義が立ち、武徳が行われる。そうしてはじめて壞區と称してよく、「土の中」といってよいのである。
本朝には初めから「中柱」「中國」という呼び名があった。まして神武天皇が中州を平定し、壞區に都されたのであるからなおさらである。どちらもみなその精秀を得ている。平安城に至っては、遷都のきわみ、中のきわみであって、ひとえに神聖の建国の道に帰した。だから季節のめぐりは正しく寒暑は度を越さず、土地は肥え、人には文章がある。中州・中華という名とその実とがぴたりと等しく、都を建てる制度も大いに整った。これこそ壞區の生成である。
解説
「名實相齊しく」――この四字が中國章前半の結論である。素行の議論は一貫して「名」と「実」の照合であった。国号(名)に対して水土(実)があり、「中」の称(名)に対して気候・地味・人物(実)がある。名だけを主張するのは「誣ひて稱する」ことになるが、日本は実がそれに応じている、というのが彼の言い分である。平安京をもって「遷の極、中の至り」と評するのは、素行が生きた時代から見た都城史の到達点としての評価である。
中國章 二十一天神宮殿の始 ── 八尋の殿
原文
伊弉諾尊伊弉冊尊降居磤馭慮嶋、化作八尋之殿、又化竪天柱、
謹按、是天神宮殿之始也、今其制不可言、八者四方四隅之數、天者人物之所法也、能詳其實、則萬世之規制、又始于此也、
訓読
伊弉諾尊・伊弉冊尊、磤馭慮嶋に降り居りて、八尋の殿を化作る。又天柱を化竪つ。
謹みて按ずるに、是れ天神宮殿の始なり。今その制は言ふべからず。八は四方四隅の數にして、天は人物の法るところなり。能くその實を詳かにせば、則ち萬世の規制、又ここに始まらん。
現代語訳
伊弉諾尊・伊弉冊尊は磤馭慮嶋に降り住まわれ、八尋の殿を造られた。また天の御柱を立てられた。
つつしんで考えてみるに、これが天神の宮殿のはじめである。今となってはその造りを詳しくいうことはできない。「八」とは四方と四隅の数であり、「天」とは人と物とがのっとるべきものである。よくその実際を明らかにすれば、万世の規範もまたここに始まるといえよう。
解説
ここから宮殿の由来を三節にわたってたどる。素行の関心は建築様式そのものではなく、「八尋」「天柱」という語のうちに規範の原型を読むことにある。八=四方四隅、つまり全方位。天柱=人がのっとるべき垂直の軸。神話の記述を、後世の都城・宮室が従うべき原理として読みかえている。
中國章 二十二人皇宮殿の始 ── 橿原の宮
原文
神武帝辛酉、於畝傍之橿原、太立宮柱於底磐之根、峻峙搏風於高天之原、
一書曰、神武帝建都橿原、經營帝宅、仍令天富命率手置帆負彦狹知二神之孫、以齋斧齋鉏、始採山材、而構立正殿、所謂太立宮柱於底磐之根、峻峙搏風於高天之原、而奉仕造御殿、故其裔今在紀伊國名草郡御木・麁香之郷、採材齋部所居謂之御木、造殿齋部所居謂之麁香、
謹按、是人皇宮殿之始也、此時去荒蕪之世未遠、唯構正殿、以象神代之天柱、始高世之洪基也、凡宮者、室也、殿者、堂之高大、而屋之嚴正也、人必有居、有居時未嘗無宮殿、況人君乎、況帝居乎、既有宮殿、則不無制度、故經始之營、上正天時、以象文明、下隨水土、以量禮約、中考百世、以模聖賢、不樸不斷、去泰去甚、折中而以儀形當時、垂示萬代、是乃天神天柱之實乎、蓋中州代代之經營、專簡樸而盡力於溝洫、唯有大極殿・大安殿之名、是乃宮殿之實也、
訓読
神武帝の辛酉、畝傍の橿原に、底磐之根に宮柱太しき立て、高天之原に搏風峻峙りて。
一書に曰く、神武帝、都を橿原に建て、帝宅を經營る。仍つて天富命をして手置帆負・彦狹知二神の孫を率て、齋斧・齋鉏を以て、始めて山の材を採りて正殿を構立てしむ。所謂底磐之根に宮柱太しき立て、高天の原に搏風峻峙りて、御殿を造り奉仕れり。故にその裔は今紀伊國名草郡御木・麁香の郷に在り。材を採る齋部の居るところはこれを御木と謂ひ、殿を造る齋部の居るところはこれを麁香と謂ふ。
謹みて按ずるに、是れ人皇宮殿の始なり。この時荒蕪の世を去ること未だ遠からず、唯だ正殿を構へて以て神代の天柱に象り、高世の洪基を始むるなり。凡そ宮は室なり、殿は堂の高大にして屋の嚴正なるなり。人は必ず居あり、居あるときは未だ嘗て宮殿なくんばあらず。況んや人君をや、況んや帝居をや。既に宮殿あるときは則ち制度なくんばあらず。故に經始の營は、上は天時を正して以て文明に象り、下は水土に隨つて以て禮約を量り、中は百世を考へて以て聖賢に模し、樸にあらず斷にあらず、泰を去り甚だしきを去り、折中して以て當時に儀形し萬代に垂示す。是れ乃ち天神天柱の實か。蓋し中州代代の經營は、專ら簡樸にして力を溝洫に盡くし、唯だ大極殿・大安殿の名あり。是れ乃ち宮殿の實なり。
現代語訳
神武天皇の辛酉の年、畝傍の橿原に、地の底の岩根に宮柱を太く立て、高天の原に千木を高くそびやかされた。
また一書にはこうある。神武天皇は都を橿原に建て、帝の宮を営まれた。そこで天富命に命じ、手置帆負・彦狹知の二神の孫を率いて、清めた斧と鋤とをもって、はじめて山の木を伐り出し正殿を建てさせた。いわゆる「底つ岩根に宮柱太しき立て、高天の原に千木高しりて」御殿を造り仕えたのである。だからその子孫は今も紀伊國名草郡の御木・麁香の郷にいる。材を採る斎部の住むところを御木といい、殿を造る斎部の住むところを麁香という。
つつしんで考えてみるに、これが人皇の宮殿のはじめである。この時はまだ荒れた世を去ってさほど遠くなく、ただ正殿だけを構えて神代の天柱にかたどり、後の世の大きな基をはじめられたのである。そもそも「宮」とは部屋であり、「殿」とは堂の高大なもの、屋の厳正なものである。人には必ず住まいがある。住まいがあれば宮殿がなかったためしはない。まして君主においては、まして帝の居においてはなおさらである。宮殿がある以上は制度がなくてはならない。だから造営にあたっては、上は天の時を正して文明にかたどり、下は水土に従って礼の程度をはかり、中は百世を考えて聖賢にならい、粗末にすぎず切りつめすぎず、度を越したものを避け、折り合いをつけて当時の模範とし万代に示すのである。これこそ天神の天柱の実であろうか。思うに中州の代々の造営は、もっぱら簡素で、力を用水路に尽くし、ただ大極殿・大安殿の名があるだけであった。これこそ宮殿の実である。
解説
宮殿造営の原則を上・下・中の三つに整理するのが眼目である。上は天の時にかたどり(暦・方位)、下は水土に従って程度をはかり(風土と分相応)、中は百世の聖賢にならう(歴史)。そのうえで「樸にあらず斷にあらず」「泰を去り甚だしきを去る」――粗末すぎず華美すぎない中庸を説く。日本の宮殿が簡素で、むしろ溝洫(用水路)に力を尽くしてきたという指摘は、次節の平安宮の華麗さと対照させたうえで、素行が本当に価値を置くのがどちらかを示している。
中國章 二十三平安城の宮 ── 固陋と紛奢と
原文
桓武帝遷都於平安城、牢籠先王、睥睨異域、大張規模、造新門、營新宮、名其門曰金枅、題以嘉言、前殿曰紫宸、其制傚外朝之明堂、乃饗萬國朝諸侯之所也、又曰南殿、天子負斧扆、南面以聽政之義也、中殿曰清涼、常之燕居所也、又曰御殿、平生宴遊之所也、後殿曰貞觀、乃后宮也、此外宮殿・堂樓・院閣・丹墀・金鋪・玉戺・井幹・綺窓、無不盡善盡美、圖之以河洛之賢聖、法之以大舜之古人之象、像乾坤之儀形、以立聖皇宮柱之太、守九重之深遠、嚴九條之廣路、披十二之通門、十七之寶殿珠聯、是以宸儀仰彌高、法座則彌正、如彼固陋之事與紛奢之愛、不可同日而語之也、
訓読
桓武帝は都を平安城に遷して、先王を牢籠し、異域を睥睨して、大いに規模を張る。新門を造り新宮を營み、その門に名づけて金枅と曰ひ、題するに嘉言を以てす。前殿を紫宸と曰ひ、その制は外朝の明堂に傚へり。乃ち萬國を饗し諸侯を朝するの所なり。又南殿と曰ふ。天子斧扆を負ひ、南面して以て政を聽くの義なり。中殿を清涼と曰ふ。常の燕居の所なり。又御殿と曰ふ。平生宴遊の所なり。後殿を貞觀と曰ふ。乃ち后宮なり。この外宮殿・堂樓・院閣・丹墀・金鋪・玉戺・井幹・綺窓、善を盡くし美を盡くさずといふことなし。これを圖くに河洛の賢聖を以てし、これを法るに大舜の古人の象を以てす。乾坤の儀形に像りて、以て聖皇宮柱の太きを立て、九重の深遠を守り、九條の廣路を嚴にし、十二の通門を披き、十七の寶殿珠のごとく聯る。ここを以て宸儀仰げば彌高く、法座則ち彌正し。彼の固陋を事とすると紛奢を愛するとの如きは、日を同じくしてこれを語るべからざるなり。
現代語訳
桓武天皇は都を平安城に遷し、先の王たちを包みこみ、異国を睥睨して、大いに規模を張られた。新しい門を造り新しい宮を営み、その門を金枅と名づけ、めでたい言葉を掲げた。前殿を紫宸といい、その造りは外朝の明堂にならった。すなわち万国をもてなし諸侯を朝せしめる所である。また南殿ともいう。天子が斧扆を背にし、南に面して政を聴くという意味である。中殿を清涼という。ふだんのくつろぎの場である。また御殿ともいう。平生の宴遊の場である。後殿を貞觀という。すなわち后の宮である。このほか宮殿・堂楼・院閣・朱塗りの階・金の飾り金具・玉の敷居・組み井桁・綾模様の窓に至るまで、善美を尽くさないものはない。そこに河洛の賢聖を描き、大舜の時代の古人の像にならった。天地のかたちにかたどって聖なる天皇の宮柱の太さを立て、九重の奥深さを守り、九条の大路を厳しく整え、十二の通門をひらき、十七の宝殿が珠のように連なった。こうして天子のみ姿は仰げばいよいよ高く、その座はいよいよ正しい。かの粗野に固執することと、けばけばしい奢りを愛することとは、同日に論じることができないのである。
解説
平安宮の壮麗さを詳細に描いたうえで、素行は最後に一句、「固陋」と「紛奢」のどちらとも違うと念を押す。前節で説いた「樸にあらず斷にあらず、泰を去り甚だしきを去る」がここで具体化されている。粗末すぎることも華美すぎることも退け、その中間に「儀」を立てる――これが素行の建築観であり、同時に彼の礼楽観でもある。
中國章 二十四四道將軍發す ── 邊要のはじめ
原文
崇神帝十年、冬十月乙卯朔、詔群臣曰、今返者悉伏誅、畿內無事、唯海外荒俗騷動未止、其四道將軍等今忽發、丙子將軍等共發路、十一年夏四月壬子朔、己卯、四道將軍以平戎夷之狀奏之、是歲異俗多歸、國內安寧、
謹按、二神定守之境之後、又未弘化德、帝識性聰敏、尤有雄謀、故大開四方以規邊要、下無逸民、教化流行、終正蒼生之課役、利船舶之運轉、天下大平也、
訓読
崇神帝の十年、冬十月乙卯の朔、群臣に詔して曰はく、今返者悉く誅に伏し、畿內事なし。唯だ海外の荒俗騷動未だ止まず。その四道將軍等今忽に發てと。丙子、將軍等共に路に發つ。十一年夏四月壬子の朔、己卯、四道將軍戎夷を平げたるの狀を以てこれを奏す。この歲異俗多く歸して、國內安寧なり。
謹みて按ずるに、二神守るべきの境を定めたまふの後、又未だ化德を弘めず。帝は識性聰敏、尤も雄謀あり。故に大いに四方を開きて以て邊要を規る。下に逸民なく、教化流行し、終に蒼生の課役を正しくし、船舶の運轉を利して、天下大いに平かなり。
現代語訳
崇神天皇十年、冬十月乙卯の朔、群臣に詔して言われた。「今、そむく者はことごとく誅に服し、畿内は事なきを得た。ただ海の外の荒々しい民の騒ぎがまだ止まない。かの四道将軍たちは今すみやかに発て」。丙子の日、将軍たちはともに道に発った。十一年夏四月壬子の朔、己卯の日、四道将軍は戎夷を平定したありさまを奏上した。この年、異なる習俗の民が多く帰服し、国内は安寧であった。
つつしんで考えてみるに、二神が守るべき境を定められたのち、まだ徳化は広まっていなかった。この天皇は生まれつき聡明で、とりわけ雄大な謀があった。だから大いに四方をひらいて国境の要害をはかられた。下に世を捨てて隠れる民はなくなり、教化は行きわたり、ついに民の課役を正しくし、船舶の運送を便利にして、天下は大いに平らかになった。
解説
素行はここで、四道将軍の派遣を単なる軍事行動ではなく「邊要を規る」=国境政策の起点として位置づける。そして注目すべきは、その成果として挙げられるのが軍事的勝利ではなく「課役を正しくし、船舶の運転を利す」――税制と物流だという点である。兵学者素行の眼が、征討そのものより征討後の統治に向いていることがよく分かる。
中國章 二十五四方の邊境を定めて王室の藩屏と爲す
原文
景行帝二十五年、秋七月庚辰朔、壬午、遣武內宿禰、令察北陸及東方諸國之地形、且百姓之消息也、二十七年、春二月辛酉朔、壬子、武內宿禰自東國還、奏言、東夷之中、有日高見國、其國人男女並椎結、文身、爲人勇悍、是總曰蝦夷、四十年、夏六月、東夷多叛、邊境騷動、冬十月、命日本武尊、征之、蝦夷服罪、五十三年、巡狩東海、
謹按、帝自征西州、巡狩東方、封建七十餘子、各令知其國、是乃定四方之邊境、爲王室之藩屏也、
訓読
景行帝の二十五年、秋七月庚辰の朔、壬午、武內宿禰を遣はして、北陸及び東方諸國の地形、且つ百姓の消息を察せしむ。二十七年、春二月辛酉の朔、壬子、武內宿禰東國より還り、奏して言さく、東夷の中に日高見國あり。その國人男女並びに椎結げ、身を文げて、人と爲り勇悍なり。これを總べて蝦夷と曰ふ。四十年、夏六月、東夷多く叛きて、邊境騷動ぐ。冬十月、日本武尊に命じてこれを征たしむ。蝦夷罪に服す。五十三年、東海を巡狩したまふ。
謹みて按ずるに、帝、西州を征ちてより、東方に巡狩して、七十餘子を封建し、各その國を知らしむ。是れ乃ち四方の邊境を定めて王室の藩屏と爲すなり。
現代語訳
景行天皇二十五年、秋七月庚辰の朔、壬午の日、武内宿禰を遣わして、北陸および東方諸国の地形と、民のありさまとを調べさせられた。二十七年、春二月辛酉の朔、壬子の日、武内宿禰は東国から帰り、奏上して言った。「東夷のなかに日高見国があります。その国の人は男女ともに髪を椎の形に結い、身に入れ墨をして、人となりは勇猛です。これらを総称して蝦夷といいます」。四十年、夏六月、東夷が多く叛き、国境が騒がしくなった。冬十月、日本武尊に命じてこれを征討させられた。蝦夷は罪に服した。五十三年、東海を巡狩された。
つつしんで考えてみるに、この天皇は西州を討ってのち、東方を巡狩し、七十余人の皇子を封建して、それぞれにその国を治めさせた。これこそ四方の国境を定めて王室の藩屏とすることである。
解説
「藩屏」――王室を囲む垣根としての地方。素行はここで、征討(日本武尊)と封建(七十余子)とをひと続きの政策として読む。討つだけでは境は保てず、そこに人を置いてはじめて藩屏になる、という理解である。次節の「邊要」論はこの延長線上にある。
中國章 二十六邊要を愼む
原文
成務帝四年、春二月丙寅朔、立國郡之長、置縣邑之首、取當國之幹了者、任其國郡之首長、是爲中區之藩屏也、五年、秋九月、隔山河而分國縣、隨阡陌以定邑里、因以東西爲日縱、南北爲日橫、山陽曰影面、山陰曰背面、
謹按、天下之邊要、逮帝而其制相成、蓋邊要者天下之藩屏也、四邊唯以陸奧・出羽・佐渡・對馬・多褹爲邊要之國、以太宰府・鎭守府爲藩鎭之所、鎭西府備異域之襲來、鎭守府征蝦夷之跋扈、異域竟不得侵邊境、而蝦夷數冠東藩、故有國守、有將軍、有兩國按察使府・秋田城介、以信夫郡以南之租稅充國府之公廨、以苅田以北之稻穀充鎭府之兵粮、常置五千人之兵、運送許多之兵器、是愼邊要也、
訓読
成務帝の四年、春二月丙寅の朔、國郡の長を立て、縣邑の首を置き、當國の幹了の者を取りて、その國郡の首長に任けよと。これを中區の藩屏と爲す。五年、秋九月、山河を隔てて國縣を分かち、阡陌に隨つて以て邑里を定む。因りて以て東西を日縱と爲し、南北を日橫と爲し、山陽を影面と曰ひ、山陰を背面と曰ふ。
謹みて按ずるに、天下の邊要は、帝に逮びてその制相成る。蓋し邊要は天下の藩屏なり。四邊は唯だ陸奧・出羽・佐渡・對馬・多褹を以て邊要の國と稱し、太宰府・鎭守府を以て藩鎭の所と爲す。鎭西府は異域の襲來に備へ、鎭守府は蝦夷の跋扈を征つ。異域竟に邊境を侵すことを得ずして、蝦夷數東藩に冠す。故に國守あり將軍あり、兩國按察使府・秋田城介あり。信夫郡以南の租稅を以て國府の公廨に充て、苅田以北の稻穀を以て鎭府の兵粮に充て、常に五千人の兵を置き、許多の兵器を運送す。是れ邊要を愼めばなり。
現代語訳
成務天皇四年、春二月丙寅の朔、「国郡の長を立て、県邑の首を置き、その国の実務に長けた者を選んでその国郡の首長に任じよ」と命じられた。これを中央の藩屏とする。五年、秋九月、山や川を境として国と県とを分け、あぜ道に従って邑と里とを定められた。それによって東西を日縦とし、南北を日横とし、山の南面を影面といい、北面を背面といった。
つつしんで考えてみるに、天下の邊要(国境の要害)は、この天皇の代に至ってその制度が整った。思うに邊要とは天下の藩屏である。四方の辺境では、ただ陸奥・出羽・佐渡・対馬・多褹を邊要の国と称し、太宰府・鎮守府を藩鎮の所とした。鎮西府は異国の襲来に備え、鎮守府は蝦夷の跋扈を討った。異国はついに国境を侵すことができず、蝦夷はたびたび東の藩を侵した。だから国守があり将軍があり、両国の按察使府・秋田城介があった。信夫郡以南の租税を国府の経費に充て、苅田以北の稲穀を鎮府の兵粮に充て、常に五千人の兵を置き、多くの兵器を運送した。これは邊要を慎んだからである。
解説
国境防衛の具体的な仕組み――どの国を要地とし、どこに府を置き、どこの税をどの経費に充てるか――が数字を伴って記される。兵学者としての素行がもっとも生き生きと筆を運ぶ箇所である。「邊要を愼む」の一句が結論で、前節の外朝五失(守備兵が疲弊し裏切る)との対比が意識されている。
中國章 二十七吏幹の才を擇び、巡察の使を詳にす
原文
凡承平之治、無王化之不浹、而邊境之廣、遠人之俗必異教殊風、故其弊或盜賊劫竊、入山據險、或因吏務之奸謀、邊民含恨之事、未嘗無之、故擇吏幹之才、詳巡察之使、以安邊彊、是上古之聖戒也、豈可忽乎、
訓読
凡そ承平の治は、王化の浹からずといふことなくして、而も邊境の廣きにより、遠人の俗は必ず教を異にし風を殊にす。故にその弊、或は盜賊劫竊し山に入り險に據り、或は吏務の奸謀に因りて邊民恨みを含むの事、未だ嘗てこれなくんばあらず。故に吏幹の才を擇び、巡察の使を詳かにして、以て邊彊を安んず。是れ上古の聖戒なり。豈忽せにすべけんや。
現代語訳
そもそも太平の世の治まりというのは、王の徳化がゆきわたらないところはないのだが、それでも国境が広いために、遠くの人々の習俗はどうしても教えを異にし風俗を異にする。だからその弊害として、あるいは盗賊が略奪して山に入り険しい地に拠り、あるいは役人の悪だくみによって辺境の民が恨みを抱く、ということがなかったためしはない。だから実務に長けた才を選び、巡察の使をこまやかに立てて、国境を安んずるのである。これこそ上古の聖なる戒めである。どうしてゆるがせにできようか。
解説
短いが実務的で、しかも素行の政治感覚がよく出ている一節。辺境の不安定は、外からの脅威だけでなく「吏務の奸謀」=役人の不正からも生じると、はっきり内側の問題を指摘している。だから対策は兵ではなく「吏幹の才」と「巡察の使」――人選と監察である。理想論ではなく統治の現場を見ている。
中國章 二十八以上は水土の規制を論ず
原文
以上論水土之規制、謹按、地在天之中、中又無四邊、而得其中之謂中國、言者、得天地之中也、天地之中何、四時行、寒暑順、水土人物其美、而無過不及之差、是也、萬邦之衆、唯中州及外朝得天地之中、故人物事義大不異、建其極、以致聖教、殆如合節也、蓋有土地時有國郡、有國郡時有都鄙、有王畿、建都宮、制道路、四方以通、四務以齊、故其規也、其制也、未嘗不盡其道也、凡法天之象、下詳地之勢、校人物之計會、察治亂之機、以裁其體用、以盡其至誠時、遠近都鄙內外同其俗、無不通其利、天下之大、國郡之匡、雖不可一擧、自朝廷及邦畿、自王畿及四方、自四方至四彊、猶如一元氣之周流管衛四支百骸、以統之於一胸臆、然乃朝廷王畿者天下之規範、而兆民之所共瞻也、豈縱一人之私、伐當時之治、而不戢其規制乎、
訓読
以上は水土の規制を論ず。謹みて按ずるに、地は天の中に在り、中又四邊なくんばあらず。而してその中を得るを中國と曰ふ。言ふところは、天地の中を得ればなり。天地の中は何ぞ。四時行はれ寒暑順ひて、水土人物それ美にして過不及の差なき、是れなり。萬邦の衆き、唯だ中州及び外朝のみ天地の中を得、故に人物事義大いに異ならず。その極を建てて以て聖教を致すこと、殆ど節を合はせたるが如し。蓋し土地あるときは國郡あり、國郡あるときは都鄙あり、王畿あり、都宮を建て、道路を制し、四方以て通じ、四務以て齊ふ。故にその規や、その制や、未だ嘗てその道を盡くさずんばあらず。凡そ天の象に法り、下は地の勢を詳かにし、人物の計會を校へ、治亂の機を察して、以てその體用を裁め、以てその至誠を盡くすときは、遠近都鄙內外その俗を同じくし、その利を通ぜざるなし。天下の大いなる、國郡の匡しき、一擧すべからずと雖も、朝廷より邦畿に及び、王畿より四方に及び、四方より四彊に至ること、猶ほ一元氣の四支百骸を周流管衛して以てこれを一の胸臆に統ぶるがごとし。然らば乃ち朝廷王畿は天下の規範にして、兆民の共に瞻るところなり。豈一人の私を縱にし當時の治に伐つて、その規制を戢めざらんや。
現代語訳
以上は水土の規制について論じたものである。つつしんで考えてみるに、大地は天のまんなかにあり、そのまんなかにはまた四方の縁がなければならない。そしてその中を得ているものを中國という。何をいうのかといえば、天地の中を得ているということである。天地の中とは何か。四季がめぐり寒暑が順序よく、水土も人物も美しくて、過ぎたところも足りないところもない――これである。数多い国々のうち、ただ中州(日本)と外朝(中国)だけが天地の中を得ている。だから人物も事のすじも大きくは違わない。その極を立てて聖なる教えを行うありさまは、ほとんど割符を合わせたようである。思うに、土地があれば国郡があり、国郡があれば都と鄙があり、王畿があり、都宮を建て、道路を定め、四方に通じ、四つの務めが整う。だからその規範も制度も、その道を尽くさなかったことはない。そもそも天の象にのっとり、下は地の勢いを明らかにし、人と物との集計をはかり、治乱の機微を察して、その本体とはたらきとを定め、その至誠を尽くすなら、遠近も都鄙も内外もその習俗を同じくし、その利が通じないところはない。天下の広さ、国郡の正しさは、一度にすべてを挙げることはできないけれども、朝廷から邦畿に及び、王畿から四方に及び、四方から四方のはてに至ることは、ちょうど一つの元氣が四肢と全身をめぐり守って、それを一つの胸に統べるのと同じである。とすれば朝廷と王畿とは天下の規範であって、億兆の民がともに仰ぎ見るところである。どうして一人の私意をほしいままにし、その時の治まりを誇って、その規制を引き締めずにいられようか。
解説
中國章の結語である。ここで素行は「中國」の定義を最終的に言い切る――四季がめぐり寒暑が順で、水土人物に過不及の差がないこと。そのうえで、日本と外朝の二つがともに「中」であることを認めたまま、章を閉じる。前半の激しい外朝批判を思うと意外なほど抑制された結びだが、素行の狙いは大陸を貶めることではなく、日本もまた「中」の資格を持つと認めさせることにあったと分かる。最後の一句、朝廷と王畿は天下の規範であるから、一人の私意で緩めてはならない、という戒めは、配所にあってなお為政者に向けて書かれた言葉である。