祭祀章 一神衣を織りて齋服殿に居たまふ ── 天神を祭祀するの義
原文
天照大神方織神衣、居齋服殿、
謹按、是祭祀天神之義也、雖無祭祀之說、既曰神衣、既曰齋服殿、則神自織之、以供神明也、大神之靈、親運其機巧、事於天神、其至誠可稱矣、朝廷終有神衣祭、以參河赤引神調糸、織作神衣、以供伊勢大神宮、是乃往古以至誠事之遺則也、
訓読
天照大神方に神衣を織りたまうて、齋服殿に居たまふ。
謹みて按ずるに、是れ天神を祭祀するの義なり。祭祀の說なしと雖も、既に神衣と曰ひ、既に齋服殿と曰ふ。則ち神自らこれを織りて、以て神明に供したまふなり。大神の靈、親らその機巧を運らし、天神に事へたまふ。その至誠稱すべし。朝廷終に神衣祭あり、參河の赤引の神調の糸を以て、神衣を織り作り、以て伊勢大神宮に供す。是れ乃ち往古至誠を以てこれに事ふるの遺則なり。
現代語訳
天照大神がちょうど神衣を織っておられて、齋服殿にいらした。
つつしんで考えてみるに、これが天つ神を祭祀するということである。まだ祭祀という説き方はないけれども、すでに「神衣」といい、すでに「齋服殿」という。すなわち神がみずからこれを織って、神明に供えられたのである。大神の御霊が、みずから機を織る手を動かして、天つ神にお仕えになった。その至誠は称えるべきである。朝廷にはついに神衣祭ができて、三河の赤引の神調の糸で神衣を織り作り、伊勢大神宮に供える。これこそが、遠い昔に至誠をもってお仕えしたことの遺した則である。
解説
祭祀章の起点。素行はまだ祭祀の制度がなかった段階から始める。「祭祀の說なしと雖も、既に神衣と曰ひ、既に齋服殿と曰ふ」――名前がすでにある、ということは実がすでにあったということだ、という論法である。
眼目は「神自らこれを織りて、以て神明に供したまふ」。神みずからが、さらに上位の神に仕える。祭祀とは人が神に仕えることだけではない、という位置づけがここでなされる。
そして今日の神衣祭にまで話をつなぐ。「是れ乃ち往古至誠を以てこれに事ふるの遺則なり」――現に続いている祭が、神代の至誠の遺したかたちだ、という。禮儀章 下六十八節の「今樂府のこの歌を奏するは…此れ古の遺式なり」と同じ着眼である。
祭祀章 二寶鏡奉齋の神勅 ── 吾を視るがごとくすべし
原文
高皇産靈尊因勅曰、吾則起樹天津神籬及天津磐境、當爲吾孫奉齋矣、汝天兒屋命太玉命、宜持天津神籬、降於葦原中國、亦爲吾孫奉齋焉、乃使二神陪從天忍穗耳尊、以降之、是時天照大神手持寶鏡、授天忍穗耳尊、而祝之曰、吾兒視此寶鏡、當猶視吾、可與同床共殿、以爲齋鏡、復勅天兒屋命太玉命、惟爾二神亦同侍殿內、善爲防護、又勅曰、以吾高天原所御齋庭之穗、亦當御於吾兒、
訓読
高皇産靈尊因りて勅して曰はく、吾則ち天津神籬及び天津磐境を起こし樹てて、當に吾が孫の爲に齋ひ奉らん。汝天兒屋命太玉命、宜しく天津神籬を持ちて、葦原中國に降り、亦吾が孫の爲に齋ひ奉るべしと。乃ち二神をして天忍穗耳尊に陪從せしめて、以てこれを降す。この時天照大神手に寶鏡を持ちて、天忍穗耳尊に授けて、これを祝して曰はく、吾が兒、この寶鏡を視まさんこと、當に猶ほ吾を視るがごとくすべし。與に床を同じくし殿を共にして、以て齋鏡と爲すべしと。復た天兒屋命太玉命に勅したまはく、惟れ爾二神も亦同に殿內に侍して、善く防護を爲せと。又勅して曰はく、吾が高天原に御すところの齋庭の穗を以て、亦當に吾が兒に御さすべしと。
現代語訳
高皇産靈尊はそこで勅して言われた。「私は天津神籬と天津磐境とを起こし樹てて、わが孫のために斎き祀ろう。お前たち天兒屋命と太玉命とは、天津神籬を持って葦原中國に降り、そこでもわが孫のために斎き祀るがよい」。そこで二神を天忍穗耳尊に付き従わせて、これをお降しになった。このとき天照大神は手に寶鏡を持って、天忍穗耳尊にお授けになり、これを祝して言われた。「わが子よ、この寶鏡を見るときは、まさしく私を見るのと同じようにしなさい。ともに床を同じくし殿を共にして、斎きの鏡としなさい」。またあらためて天兒屋命と太玉命とに勅された。「お前たち二神もともに殿の内に侍って、よく守り護れ」。また勅して言われた。「わが高天原でお治めになっている斎庭の稲穂を、わが子にもお授けするがよい」。
解説
祭祀章の中心となる神勅。三つの内容が含まれている。①神籬と磐境を起こし樹てること(祭場)、②寶鏡を「吾を視るがごとく」すること(依代)、③齋庭の穗を授けること(稲)。
とくに「吾が兒、この寶鏡を視まさんこと、當に猶ほ吾を視るがごとくすべし」は、神器章でも引かれた一句である。あちらでは鏡を「知」の徳に配していたが、ここでは宗廟の神主(依代)として読む。同じ史料の読み分けが、最後の章でもまた現れている。
「同床共殿」――鏡を天皇と同じ殿舎に置くという定めが、第八節(崇神朝で殿外に移す)の伏線になっている。
祭祀章 三神籬は乃ち宗廟なり、寶鏡は乃ち宗廟の主なり
原文
謹按、是建宗廟、而宗祀於祖考之禮也、神籬者、乃宗廟也、寶鏡者、乃宗廟之主也、故曰齋鏡矣、夫天祖之靈、體物而不遺、然無宗廟之設神主之寄、汎乎不可定、故宗廟以率之、神主以寄之、而后神人之靈氣相集、至誠可通、齋戒可致、是天祖勅起樹神籬、以爲齋鏡也、夫天子以天地爲父母、故祭祀天神地祇、以報其本、建立宗廟、以貴其始者、人君之大禮也、況中國之生成、直在天神地祇也乎、
訓読
謹みて按ずるに、是れ宗廟を建てて、祖考に宗祀するの禮なり。神籬は、乃ち宗廟なり。寶鏡は、乃ち宗廟の主なり。故に齋鏡と曰ふ。夫れ天祖の靈は、物に體して遺さず。然れども宗廟の設、神主の寄るところなければ、汎乎として定むべからず。故に宗廟以てこれを率ゐ、神主以てこれを寄す。而して后に神人の靈氣相集まり、至誠通ずべく、齋戒致すべし。是れ天祖神籬を起こし樹てて、以て齋鏡と爲すことを勅したまふなり。夫れ天子は天地を以て父母と爲す。故に天神地祇を祭祀して、以てその本に報い、宗廟を建立して、以てその始を貴ぶは、人君の大禮なり。況んや中國の生成、直ちに天神地祇に在るをや。
現代語訳
つつしんで考えてみるに、これは宗廟を建てて祖先を宗として祀る禮である。神籬とは、すなわち宗廟である。寶鏡とは、すなわち宗廟の神主である。だから「斎きの鏡」というのだ。そもそも天なる祖の御霊は、万物に行きわたって残るところがない。しかし宗廟という設けや、神霊の寄るところがなければ、漠然として定まらない。だから宗廟によってこれを統べ、神主によってこれを寄せる。そうしてはじめて神と人との霊気が集まり、至誠が通じ、斎戒を尽くすことができる。これが天なる祖が、神籬を起こし樹てて斎きの鏡とせよと勅された理由である。そもそも天子は天地を父母とする。だから天つ神と地の神とを祭祀してその本に報い、宗廟を建立してその始めを貴ぶのは、君主の大いなる禮である。まして、この国の生成がじかに天つ神と地の神とにかかっているのだからなおさらである。
解説
本章の理論的な核。「神籬は乃ち宗廟なり、寶鏡は乃ち宗廟の主なり」――日本の祭祀を、中国の宗廟制度の語で言い換える。素行の常套である漢籍の枠組みで日本のものを説明する方法が、ここでも用いられている。
論の骨はなぜ形が要るかである。「天祖の靈は、物に體して遺さず。然れども宗廟の設、神主の寄るところなければ、汎乎として定むべからず。」――霊はどこにでもある。だがどこにでもあるだけでは、心の向けようがない。だから場所と依代とを定める。
禮儀章 上一節で「天地の形を人が写し取って禮と字づけた」と言ったのと同じ構えである。形は内容を限定するのではなく、内容に手がかりを与える。
祭祀章 四人は未だ嘗てその父祖を忘れずんばあらず
原文
蓋人未嘗無念其父祖、既有念其父祖、則未嘗不念所其自出、故遠乃思其本始、近乃慕其父祖、而祭祀之禮起、況本始之有大功、父祖之有大敎乎、既有祭祀之禮、則其禮不不致之、祭必有時、祭必有地、祭必有祠部、祭必有器用奉物、祭必有齋戒、祭必有其事、以紀其禮、以盡其誠、是祭祀之道也、祭祀不致其禮、則神不可享之、禮儀不以其誠、則神不可格焉、禮致誠至、而后可得祭祀之實、
訓読
蓋し人は未だ嘗てその父祖を念ふことなくんばあらず。既にその父祖を念ふことあれば、則ち未だ嘗てその自りて出づるところを念はずんばあらず。故に遠くは乃ちその本始を思ひ、近くは乃ちその父祖を慕ふ。而して祭祀の禮起こる。況んや本始に大功あり、父祖に大敎あるをや。既に祭祀の禮あれば、則ちその禮これを致さずんばあらず。祭には必ず時あり、祭には必ず地あり、祭には必ず祠部あり、祭には必ず器用奉物あり、祭には必ず齋戒あり、祭には必ずその事あり。以てその禮を紀し、以てその誠を盡す。是れ祭祀の道なり。祭祀その禮を致さざれば、則ち神これを享くべからず。禮儀その誠を以てせざれば、則ち神格るべからず。禮致り誠至りて、而して后に祭祀の實を得べし。
現代語訳
思うに人は、その父祖を思わないということがない。すでにその父祖を思うことがあれば、その自分の出てきたもとを思わないということもない。だから遠くはその本のはじめを思い、近くはその父祖を慕う。そうして祭祀の禮が起こる。まして本のはじめに大きな功があり、父祖に大きな教えがあるのならばなおさらである。すでに祭祀の禮があれば、その禮を尽くさないわけにはいかない。祭には必ず時があり、祭には必ず場所があり、祭には必ず司る役があり、祭には必ず器物と供え物とがあり、祭には必ず斎戒があり、祭には必ずその作法がある。それによってその禮を記し、その誠を尽くす。これが祭祀の道である。祭祀がその禮を尽くさなければ、神はこれを享けることができない。禮儀がその誠によらなければ、神は降り来ることができない。禮が尽き誠が至って、はじめて祭祀の実を得ることができる。
解説
祭祀の必要を人情から導く一段。「人は未だ嘗てその父祖を念ふことなくんばあらず」――誰でも親を思う。親を思えば、その親を生んだものを思う。そうして遡っていけば「本始」に至る。祭祀は制度として上から与えられたものではなく、思いの遡行が形をとったものだ、という理解である。
賞罰章十三節の「賞するときは則ち勸み、罰するときは則ち懲るは、情の恆なり」とまったく同じ論法で、制度は人情の自然に基づくという素行の一貫した立場が、最後の章でも変わらない。
後半に並ぶ六つの「必ず」(時・地・祠部・器用奉物・齋戒・その事)は、祭祀の構成要素の整理である。形式と誠と、どちらか一方では足りない――ここでも二本立ての論法が働いている。
祭祀章 五人の誠、祭祀より大なるはなし ── 齋とは何ぞ
原文
凡人之誠莫大於祭祀、祭祀之大、莫如天地、萬物之生成歸於天地、子孫之綿續歸於祖宗、是所以天地祖宗一其本也、蓋人者、萬物之長也、人君者爲億兆之長、人君祭祀於天地、分萬類之散氣、咸歸諸於天、報本反始、以躬盡其至誠、莫大於祭祀也、齋者何、齊其不齊之謂也、祭祀之誠、以齋戒可交之、故天神詳勅其禮也、
訓読
凡そ人の誠は祭祀より大なるはなし。祭祀の大なるは、天地に如くはなし。萬物の生成は天地に歸し、子孫の綿續は祖宗に歸す。是れ天地祖宗その本を一にする所以なり。蓋し人は、萬物の長なり。人君は億兆の長たり。人君天地を祭祀して、萬類の散氣を分ち、咸くこれを天に歸す。本に報い始に反り、以て躬らその至誠を盡す。祭祀より大なるはなきなり。齋とは何ぞ。その齊しからざるを齊しくするの謂なり。祭祀の誠は、齋戒を以てこれに交はるべし。故に天神その禮を詳かに勅したまふなり。
現代語訳
そもそも人の誠は、祭祀よりも大きなものはない。祭祀の大いなるものは、天地に及ぶものがない。万物の生成は天地に帰し、子孫の連なりは祖宗に帰す。これが天地と祖宗とがその本を一つにする理由である。思うに人は万物の長である。君主は億兆の民の長である。君主が天地を祭祀して、あらゆる類の散った気を分けて、ことごとくこれを天に帰す。本に報い始めに返って、みずから至誠を尽くす。祭祀より大きなものはない。「齋」とは何か。斉しくないものを斉しくすることをいう。祭祀の誠は、斎戒によってこれに交わることができる。だから天つ神はその禮を詳しく勅されたのである。
解説
「人の誠は祭祀より大なるはなし」――本章でもっとも簡潔な要約である。
もう一つ押さえたいのが「齋とは何ぞ。その齊しからざるを齊しくするの謂なり」という定義。斎戒とは禁忌を守ることではなく、ばらばらな心を揃えることだという理解である。祭祀は誠を要する。だがその誠は自然には揃わない。だから齋がある――形式は誠を作り出すための手続きである、という位置づけになる。
聖政章四節の「神に交はるの道は誠に在り」、同十四節の「祭祀は誠を主とし、政事も亦た人君の誠に在り」がここに直結する。祭祀章は、聖政章で立てられた「誠」の主題を最後に受け直す章でもある。
祭祀章 六鳥見山中に靈畤を立つ ── 大孝を申ぶ
原文
神武帝四年、春二月壬戌朔、甲申詔曰、我皇祖之靈也、自天降鑒、光助朕躬、今諸虜已平、海內無事、可以郊祀天神、用申大孝者也、乃立靈畤於鳥見山中、其地號曰上小野榛原下小野榛原、用祭皇祖天神焉、
一書曰、神武天皇從皇天二祖之詔、建樹神籬、所謂高皇産靈、神皇産靈、魂留産靈、生産靈、足産靈、大宮賣神、事代主神、御膳神、櫛磐間戸神、豐磐間戸神也、日臣命帥來目部、衞護宮門、掌其開闔、櫛根日命帥内物部、建備矛盾、天富命率諸齋部、齎持天璽鏡劒、奉安正殿、幷懸瓊玉、陳其幣物、殿祭祝詞、次祭宮門、然後物部乃立矛盾、大伴來目建伎開門、令朝四方之國、以觀天位之貴、
訓読
神武帝の四年、春二月壬戌の朔、甲申、詔して曰はく、我が皇祖の靈、天より降り鑒みて、朕が躬を光らし助けたまふ。今諸の虜已に平らぎ、海內事なし。以て天神を郊祀し、用て大孝を申ぶべしと。乃ち靈畤を鳥見山の中に立つ。その地を號けて上小野榛原下小野榛原と曰ふ。用て皇祖天神を祭る。
一書に曰く、神武天皇皇天二祖の詔に從ひ、神籬を建て樹つ。所謂高皇産靈、神皇産靈、魂留産靈、生産靈、足産靈、大宮賣神、事代主神、御膳神、櫛磐間戸神、豐磐間戸神なり。日臣命來目部を帥ゐて、宮門を衞護し、その開闔を掌る。櫛根日命内物部を帥ゐて、矛盾を建て備ふ。天富命諸の齋部を率ゐて、天璽の鏡劒を齎ち持ち、正殿に奉安し、幷せて瓊玉を懸け、その幣物を陳ぶ。殿祭の祝詞、次いで宮門を祭る。然して後に物部乃ち矛盾を立て、大伴來目伎を建てて門を開き、四方の國を朝せしめて、以て天位の貴きを觀せしむ。
現代語訳
神武天皇の四年、春二月壬戌の朔、甲申の日、詔して言われた。「わが皇祖の御霊は、天から降り見て、朕の身を照らし助けてくださっている。いま諸々の敵はすでに平らぎ、天下に事がない。天つ神を郊で祀って、大いなる孝を述べるべきである」。そこで霊畤を鳥見山の中に立てられた。その地を上小野榛原・下小野榛原と名づけた。そこで皇祖と天つ神とを祭られた。
ある書にいう。神武天皇は皇天の二祖の詔に従って、神籬を建て樹てられた。いわゆる高皇産靈・神皇産靈・魂留産靈・生産靈・足産靈・大宮賣神・事代主神・御膳神・櫛磐間戸神・豐磐間戸神である。日臣命は來目部を率いて宮門を守り護り、その開け閉めを司った。櫛根日命は内物部を率いて矛と盾とを立て備えた。天富命は諸々の齋部を率いて、天のしるしの鏡と剣とを持ち、正殿に奉安し、あわせて瓊玉を懸け、幣物を陳べた。殿祭の祝詞を奏し、次いで宮門を祭った。そののち物部が矛と盾とを立て、大伴と來目とが技を演じて門を開き、四方の国を朝廷に参らせて、天位の貴さを見せた。
解説
祭祀が実際の儀式として現れる最初の記事。「今諸の虜已に平らぎ、海內事なし。以て天神を郊祀し、用て大孝を申ぶべし」――平定が終わってはじめて祭る、という順序が示されている。
「一書曰」の部分が資料として貴重で、職掌の分担が細かく記される。日臣命=宮門の警護、櫛根日命=矛盾の設置、天富命=神器の奉安と幣物。禮儀章 上二十二節の「事あれば則ちその職あり」が、祭祀の場面で具体化されている。
最後に門を開いて四方の国に天位の貴さを見せる――祭祀が同時に公開の儀式でもあったことが記されている。禮儀章 中二十六節の朝儀論に接続する。
祭祀章 七中州初めて平らぎ、先づ社稷宗廟を建つ
原文
謹按、是祭祀社稷宗廟之始也、中州初平、先建社稷宗廟、以率天地鬼神之靈、報其本始、其建其禮之盡然矣、夫人君出于神、而又爲神人之主、有人民社稷之寄、故郊祀以事天地宗廟、以祭鬼神、大臣司其禮、重臣相其事、至誠之道如此、以此臨天下、則人人豈有遺親後君之薄情乎、帝制天下先及此、其聖德之厚至哉、
訓読
謹みて按ずるに、是れ社稷宗廟を祭祀するの始なり。中州初めて平ぎ、先づ社稷宗廟を建て、以て天地鬼神の靈を率ゐ、その本始に報ゆ。その建つること、その禮の盡くること然り。夫れ人君は神より出でて、又神人の主たり。人民社稷の寄せあり。故に郊祀して以て天地宗廟に事へ、以て鬼神を祭る。大臣その禮を司り、重臣その事を相く。至誠の道かくの如し。此を以て天下に臨めば、則ち人人豈に親を遺れ君を後にするの薄情あらんや。帝天下を制して先づここに及ぶ。その聖德の厚きこと至れる哉。
現代語訳
つつしんで考えてみるに、これが社稷と宗廟とを祭祀することのはじめである。この国がはじめて平らいだとき、まず社稷と宗廟とを建て、天地と鬼神との霊を統べて、その本のはじめに報いた。その建て方も、その禮の尽くし方もそのようであった。そもそも君主は神から出て、また神と人との主である。人民と社稷とを託されている。だから郊で祀って天地と宗廟とに仕え、鬼神を祭る。大臣がその禮を司り、重臣がその事を助ける。至誠の道はこのようである。これによって天下に臨めば、人々のうちに、どうして親を忘れ君を後回しにするような薄情があろうか。天皇は天下を制してまずここに及ばれた。その聖なる徳の厚いことよ。
解説
「中州初めて平らぎ、先づ社稷宗廟を建つ」――平定の直後に真っ先にしたのが祭祀だった、という順序に素行は注目する。武德章の東征記事のあとに祭祀章が置かれている構成が、ここで意味を持つ。
そして効果を人心に見る。「此れを以て天下に臨めば、則ち人人豈に親を遺れ君を後にするの薄情あらんや」――君主が祖先を祀って見せることが、そのまま民の親への態度になる。第四節で「祭祀は父祖を思う心から起こる」と説いたことの、統治の側からの言い直しである。
『論語』學而篇の「終りを愼み遠きを追へば、民の德、厚きに歸す」がここに響いている。
祭祀章 八崇神帝六年 ── 別に神籬を建つるの始
原文
崇神帝六年、百姓流離、或有背叛、其勢難以德治之、是以晨興夕惕、請罪神祇、先是天照大神倭大國魂二神、並祭於天皇大殿之内、然畏其神勢、共住不安、故以天照大神託豐鍬入姫命、祭於倭笠縫邑、仍立磯堅城神籬、亦以日本大國魂神、託渟名城入姫命、祭之、然渟名城入姫髮落體痩、而不能祭、
一書曰、崇神帝六年乙丑、秋九月、倭國笠縫邑立磯城神籬、奉遷天照大神及草薙劒、令皇女豐鍬入姫奉齋、更令齋部氏率石凝姥神青天目一神裔二氏、更鑄鏡造劒、以爲護御璽、是今踐祚之日所獻神璽鏡劒也、
訓読
崇神帝の六年、百姓流離し、或は背叛するあり。その勢德を以てこれを治め難し。ここを以て晨に興き夕に惕れ、罪を神祇に請ふ。これより先、天照大神倭大國魂の二神を、並びに天皇の大殿の内に祭る。然れどもその神勢を畏れ、共に住むこと安からず。故に天照大神を以て豐鍬入姫命に託し、倭の笠縫邑に祭る。仍りて磯堅城の神籬を立つ。亦日本大國魂神を以て、渟名城入姫命に託してこれを祭る。然れども渟名城入姫髮落ち體痩せて、祭ること能はず。
一書に曰く、崇神帝の六年乙丑、秋九月、倭國笠縫邑に磯城の神籬を立て、天照大神及び草薙劒を奉遷し、皇女豐鍬入姫をして奉齋せしむ。更に齋部氏をして石凝姥神青天目一神の裔の二氏を率ゐしめ、更に鏡を鑄劒を造りて、以て護御璽と爲す。是れ今踐祚の日に獻ずるところの神璽の鏡劒なり。
現代語訳
崇神天皇の六年、民が流れ離れ、あるいは背き叛く者があった。その勢いは徳によって治めることが難しかった。そこで朝に起き夕べに恐れて、罪を神祇にお詫びになった。これより前、天照大神と倭大國魂との二神を、ともに天皇の大殿の内で祭っていた。しかしその神威を畏れ、ともに住むことが安らかでなかった。そこで天照大神を豐鍬入姫命に託して、倭の笠縫邑で祭った。そして磯堅城の神籬を立てた。また日本大國魂神を渟名城入姫命に託して祭らせた。しかし渟名城入姫は髪が落ち体が痩せて、祭ることができなかった。
ある書にいう。崇神天皇の六年乙丑、秋九月、倭国の笠縫邑に磯城の神籬を立て、天照大神と草薙剣とを遷し奉り、皇女の豐鍬入姫に斎き祀らせた。さらに齋部氏に石凝姥神と青天目一神との後裔の二氏を率いさせ、あらためて鏡を鋳、剣を造って、護りの御璽とした。これが今日、践祚の日に献ずる神璽の鏡と剣とである。
解説
第二節の神勅では「同床共殿」と定められていた鏡が、ここで宮中の外に出される。素行が「別に神籬を建つるの始」とする転換点である。
理由が興味深い。「その神勢を畏れ、共に住むこと安からず」――神威が強すぎて同居できなくなった、というのである。
「一書曰」に、このときあらためて鏡と剣とを鋳造して「護御璽」としたとあり、それが今日の践祚に用いる神璽だと記す。神器章で「持っているだけでは足りない」と説いた素行が、ここでは本体と分身とを分けた制度の起源を確認していることになる。
祭祀章 九別に八十萬神を祭る ── 大社・國社・神地・神戸
原文
七年冬十一月、別祭八十萬神、仍定大社國社及神地神戸、
謹按、是祭群神之始也、大社者、社稷宗廟之名、國社者、郡國之名山大川、所其由祭之神社也、神地神戸者、事神之祠官、奉祭祀之田園也、國家有事、則徧告群神、以致其誠、是禮之恆也、
訓読
七年冬十一月、別に八十萬神を祭る。仍りて大社國社及び神地神戸を定む。
謹みて按ずるに、是れ群神を祭るの始なり。大社は、社稷宗廟の名なり。國社は、郡國の名山大川、その由りて祭るところの神社なり。神地神戸は、神に事ふるの祠官、祭祀を奉ずるの田園なり。國家に事あれば、則ち徧く群神に告げて、以てその誠を致す。是れ禮の恆なり。
現代語訳
七年の冬十一月、別に八十万の神々を祭られた。そして大社・国社および神地・神戸を定められた。
つつしんで考えてみるに、これが群神を祭ることのはじめである。大社とは社稷宗廟の名である。国社とは、郡国の名高い山や大きな川、それによって祭る神社である。神地・神戸とは、神に仕える祠官と、祭祀を支える田園とである。国家に事があれば、あまねく群神に告げて、その誠を尽くす。これが禮の常である。
解説
祭祀の制度化を記す短い節。大社(国家の宗廟)・國社(地方の山川の神)・神地(財源となる田園)・神戸(奉仕する民戸)――祀る対象・場所・財源・人手の四つが、ここで一度に定まる。
禮儀章 上二十二節の「事あれば則ちその職あり、職あれば則ちその官あり、官あれば則ちその位あり」と同じ考え方が、祭祀の側で働いている。祭りもまた制度である――信仰と経営とを切り離さない見方が、素行らしいところである。
祭祀章 十神風の伊勢國 ── 伊勢内宮鎭坐の始
原文
垂仁帝二十五年、三月丁亥朔、丙申、離天照大神於豐鍬入姫命、託于倭姫命、爰倭姫命求鎭坐大神之處、而詣菟田筱幡、更還之入近江國、東廻美濃、到伊勢國、時天照大神誨倭姫命曰、是神風伊勢國、則常世之浪重浪歸國也、傍國可怜國也、欲居是國、故隨大神敎、其祠立於伊勢國、因興齋宮于五十鈴川上、是謂磯宮、則天照大神始自天降之處也、
訓読
垂仁帝の二十五年、三月丁亥の朔、丙申、天照大神を豐鍬入姫命より離ちて、倭姫命に託す。爰に倭姫命大神を鎭坐せしむるの處を求めて、菟田の筱幡に詣る。更に還りて近江國に入り、東のかた美濃を廻りて、伊勢國に到る。時に天照大神倭姫命に誨へて曰はく、是の神風の伊勢國は、則ち常世の浪の重浪歸する國なり。傍國の可怜國なり。是の國に居らんと欲ふと。故に大神の敎に隨ひ、その祠を伊勢國に立つ。因りて齋宮を五十鈴川上に興す。是を磯宮と謂ふ。則ち天照大神の始めて天より降りたまふ處なり。
現代語訳
垂仁天皇の二十五年、三月丁亥の朔、丙申の日、天照大神を豐鍬入姫命から離して、倭姫命に託された。そこで倭姫命は大神を鎮座させる場所を求めて、菟田の筱幡に至られた。さらに引き返して近江国に入り、東のかた美濃をめぐって、伊勢国に到られた。そのとき天照大神が倭姫命に教えて言われた。「この神風の伊勢国は、常世の浪が幾重にも寄せ返る国である。都から傍らの、うるわしい国である。この国にいようと思う」。そこで大神の教えに従って、その社を伊勢国に立てた。そして齋宮を五十鈴川の上流に興した。これを磯宮という。すなわち天照大神がはじめて天から降られた処である。
解説
伊勢神宮の起源譚。「是の神風の伊勢國は、則ち常世の浪の重浪歸する國なり。傍國の可怜國なり」――『日本書紀』のなかでもとりわけ美しい一句として知られる。
注目したいのは、鎮座地が探し歩いた末に決まったという筋である。菟田から近江へ、美濃をめぐって伊勢へ。最初から決まっていたのではない。第八節で宮中を出てから、ここに落ち着くまでに二代を要している。
素行はこの過程をそのまま引く。制度は一度に完成するのではなく、試行を経て定まる――禮儀章 中二十五節「朝儀は一ならず」と同じ見方が、ここでも背後にある。
祭祀章 十一神は天下を以て體と爲す ── 茅屋の大廟
原文
謹按、是伊勢國內宮鎭坐之始也、蓋神者、以天下爲體、以萬物爲末、天之覆而明、地之載而厚、人物之爲人物、神皆體之不遺、移其靈於神鏡、以照皇統之化、奉其述於渡遇、以存億世之敬、茅屋乎大廟、不擧乎粢食、以示至德、朝廷既建內侍所、天子旦暮拜恭、不改往古之道矣、禁僧尼、絕梵釋、顯聖敎之在人倫、昭著明示其道之在知德、其洋洋乎彌高、崇彌一靈有、
訓読
謹みて按ずるに、是れ伊勢國內宮鎭坐の始なり。蓋し神は、天下を以て體と爲し、萬物を以て末と爲す。天の覆ひて明らかなる、地の載せて厚き、人物の人物たる、神皆これに體して遺さず。その靈を神鏡に移して、以て皇統の化を照らし、その述を渡遇に奉じて、以て億世の敬を存す。茅屋の大廟、粢食を擧げず、以て至德を示す。朝廷既に內侍所を建て、天子旦暮に拜恭し、往古の道を改めず。僧尼を禁じ、梵釋を絕ち、聖敎の人倫に在ることを顯はし、その道の知德に在ることを昭らかに著はし明らかに示す。その洋洋として彌いよ高く、崇むこと彌いよ一なる靈あり。
現代語訳
つつしんで考えてみるに、これが伊勢国の内宮が鎮座することのはじめである。思うに神は、天下をその体とし、万物をその末とする。天が覆って明るいこと、地が載せて厚いこと、人が人であること――神はみなそこに行きわたって残るところがない。その霊を神鏡に移して皇統の感化を照らし、そのお言葉を度会に奉じて、億万年の敬いを保つ。茅葺きの社殿に、飾らない供え物で、至れる徳を示す。朝廷はすでに内侍所を建て、天子は朝夕に拝み恭しくして、昔からの道を改めない。僧尼を禁じ、仏教の関与を絶って、聖なる教えが人倫にあることを明らかにし、その道が知と徳とにあることをはっきりと示している。その広々としていよいよ高く、尊ぶことがいよいよ一つに定まる霊威がある。
解説
伊勢神宮論。「神は、天下を以て體と爲し、萬物を以て末と爲す」――神は世界そのものである、という大きな把握から始まる。第三節の「天祖の靈は物に體して遺さず」がここで繰り返される。
もっとも印象的なのは「茅屋の大廟、粢食を擧げず、以て至德を示す」――茅葺きの社殿と質素な供物。飾らないことによって徳を示すという美学である。壮大な廟を建てることが敬いではない、という。
「僧尼を禁じ、梵釋を絕つ」は伊勢神宮の仏教忌避(僧尼の参拝を認めない)を指す。素行はこれを「聖敎の人倫に在ることを顯はす」――教えは人と人との関係のうちにある、という主張の証として読む。禮儀章 下五十四節の『論語』引用「未だ人に事ふること能はず、焉んぞ能く鬼に事へん」と同じ立場である。
祭祀章 十二外宮鎭坐の始 ── 豐受大神を丹波より迎ふ
原文
雄略帝二十一年丁巳、冬十月伊勢皇大神敎大倭姫命、令迎豐受大神於丹波國與佐眞井原、大倭姫命奏之、明年戊午秋九月差勅使奉迎之、九月鎭坐于度會郡山田原新宮、
一書曰、外宮者、傳天祖天御中主神也、皇大神託宣、先祭此神、先拜此神、且皇孫瓊瓊杵尊在此宮相殿、故天兒屋根命天太玉命亦同在焉、因號三所大神宮、
謹按、是外宮鎭坐之始也、
訓読
雄略帝の二十一年丁巳、冬十月、伊勢の皇大神大倭姫命に敎へて、豐受大神を丹波國與佐の眞井原より迎へしむ。大倭姫命これを奏す。明年戊午秋九月、勅使を差してこれを奉迎す。九月、度會郡山田原の新宮に鎭坐す。
一書に曰く、外宮は、天祖天御中主神を傳ふるなり。皇大神の託宣に、先づこの神を祭れ、先づこの神を拜せよと。且つ皇孫瓊瓊杵尊この宮の相殿に在す。故に天兒屋根命天太玉命も亦同に在す。因りて三所大神宮と號く。
謹みて按ずるに、是れ外宮鎭坐の始なり。
現代語訳
雄略天皇の二十一年丁巳、冬十月、伊勢の皇大神が大倭姫命に教えて、豐受大神を丹波国の與佐の眞井原からお迎えさせられた。大倭姫命はこれを奏上した。翌年戊午の秋九月、勅使を遣わしてこれをお迎えした。九月、度會郡の山田原の新宮に鎮座された。
ある書にいう。外宮は、天なる祖の天御中主神を伝えるものである。皇大神の託宣に、まずこの神を祭れ、まずこの神を拝せよ、とある。そのうえ皇孫の瓊瓊杵尊がこの宮の相殿にいらっしゃる。だから天兒屋根命と天太玉命とも同じくいらっしゃる。それで三所大神宮と称する。
つつしんで考えてみるに、これが外宮の鎮座のはじめである。
解説
外宮の鎮座を記す。この記事は『日本書紀』本文には見えず、伊勢側に伝わる縁起(『止由氣宮儀式帳』など)によるものである。
「一書曰」に引かれる外宮=天御中主神説、「先づこの神を祭れ、先づこの神を拜せよ」という託宣は、外宮の側が内宮に対する自らの位置を主張したもので、中世の伊勢神道(度会神道)の主張に連なる。素行はこれを疑わずに引いているが、神宮内部の由緒争いを反映した記述であることは押さえておきたい。
按語がわずか一行なのも、素行がここでは事実の確認にとどめていることを示している。
祭祀章 十三八幡鎭坐の始 ── 唯だ内侍所に在り
原文
欽明天皇三十一年、冬、肥後國菱形池邊、民家見、甫三歲神託曰、我是人皇第十六代譽田八幡麻呂也、諸州垂跡于神明、今又顯于此、其後差勅使、移而鎭坐於豐前國宇佐宮、
謹按、是八幡鎭坐之始也、蓋外宮八幡共後世所崇敬也、朝廷立神宮、以致其慕之敬、唯在内侍所、是因往古之神勅也、蓋天祖、乃宗廟也、天地也、聖主、內嚴內侍所之設、外仰內宮之鎭坐、以崇祀社稷宗廟、其餘者在群祀之列、
訓読
欽明天皇の三十一年、冬、肥後國菱形池の邊、民家に見はる。甫めて三歲の神託して曰はく、我は是れ人皇第十六代譽田八幡麻呂なり。諸州に跡を神明に垂れ、今又ここに顯はると。その後勅使を差し、移して豐前國宇佐宮に鎭坐す。
謹みて按ずるに、是れ八幡鎭坐の始なり。蓋し外宮八幡は共に後世崇敬するところなり。朝廷神宮を立てて、以てその慕ふの敬を致すは、唯だ内侍所に在り。是れ往古の神勅に因ればなり。蓋し天祖は、乃ち宗廟なり、天地なり。聖主は、內には内侍所の設を嚴にし、外には內宮の鎭坐を仰ぎ、以て社稷宗廟を崇祀す。その餘は群祀の列に在り。
現代語訳
欽明天皇の三十一年、冬、肥後国の菱形池のほとり、民家に現れた。三歳になったばかりの神が託宣して言った。「我は人皇第十六代の譽田八幡麻呂である。諸国に神明として跡を垂れ、いままたここに現れた」。その後、勅使を遣わして、移して豐前国の宇佐宮に鎮座された。
つつしんで考えてみるに、これが八幡鎮座のはじめである。思うに外宮と八幡とは、ともに後の世に崇敬されるものである。朝廷が神宮を立てて、慕う敬いを尽くすのは、ただ内侍所にある。これは遠い昔の神勅によるからである。思うに天なる祖は、すなわち宗廟であり、天地である。聖なる君主は、内には内侍所の設けを厳かにし、外には内宮の鎮座を仰いで、社稷と宗廟とを崇め祀る。その他は群祀の列にある。
解説
八幡の鎮座を記して、祭祀の記事は終わる。
素行の整理が明快である。「外宮八幡は共に後世崇敬するところなり」――外宮も八幡も後の世に加わったものだ、と時期を区別する。そのうえで朝廷の祭祀の中心はあくまで内侍所と内宮であって、それは「往古の神勅に因ればなり」――第二節の寶鏡奉齋の勅にさかのぼる、と位置づける。
「その餘は群祀の列に在り」。八幡神は武德章 下二十五節で「天下の武神」「武家殊にこれを崇敬す」と記された神である。素行自身が武家の学者でありながら、制度上の序列としては群祀に置く――この筋の通し方に、彼の史学の性格がよく出ている。
祭祀章 十四以上、祭祀の誠を論ず ── 延喜式の神位三千一百三十二座
原文
以上論祭祀之誠、謹按、延喜式所載、中朝大小神位、三千一百三十二座、其外石淸水吉田祇園北野、號式外之神、後朱雀帝長曆三年秋八月、定二十二社之式、每歲勅神祇官、以奉幣帛、祈新年穀、伊勢大神宮、八幡宮、謂之宗廟、賀茂松尾平野吉田大和龍田等、謂之社稷、又祖神之祠、謂之苗裔、
訓読
以上、祭祀の誠を論ず。謹みて按ずるに、延喜式に載するところ、中朝の大小の神位、三千一百三十二座なり。その外石淸水吉田祇園北野は、式外の神と號く。後朱雀帝の長曆三年秋八月、二十二社の式を定む。每歲神祇官に勅して、以て幣帛を奉り、新年の穀を祈る。伊勢大神宮、八幡宮、これを宗廟と謂ふ。賀茂松尾平野吉田大和龍田等、これを社稷と謂ふ。又祖神の祠、これを苗裔と謂ふ。
現代語訳
以上、祭祀の誠を論じた。つつしんで考えてみるに、『延喜式』に載せるところ、この国の大小の神位は三千一百三十二座である。そのほか石清水・吉田・祇園・北野は、式外の神と呼ぶ。後朱雀天皇の長暦三年秋八月、二十二社の式を定めた。毎年、神祇官に勅して幣帛を奉り、新しい年の穀物を祈る。伊勢大神宮と八幡宮、これを宗廟という。賀茂・松尾・平野・吉田・大和・龍田などを、社稷という。また祖神の祠を、苗裔という。
解説
祭祀の総括に入る。まず現に行われている制度の全体像が数字で示される。『延喜式』神名帳の三千一百三十二座――今日「式内社」と呼ばれる社の総数である。
そのうえで素行は、日本の神社を中国の語で三つに分類する。宗廟(伊勢・八幡)、社稷(賀茂以下)、苗裔(祖神の祠)。第三節の「神籬は乃ち宗廟なり」と同じやり方で、漢籍の枠組みに日本の実態を収める。
数字を挙げてから論に入るのが素行の癖で、中國章以来くり返されてきた実証への志向である。
祭祀章 十五禮は祭より大なるはなし ── 祭祀の禮は至誠にあらざれば致すべからず
原文
蓋祭祀之禮有郊祀天地、有宗廟饗祀、有國家常祀、有內外群祀、而祭祀之道、有祭告、有祈禱、有齋戒之敬、有奉幣之物、有神官、有神地、有神戸、夫禮莫大於祭、祭祀之禮非至誠、則不可致之、至誠之格不以其道、則不可得、凡自天子以至庶人、祭祀必有分、人君爲天下求福報功、天下之鬼神悉御之、故大祭祀天地、親饗宗廟、小徧告群神、疎及群靈、
訓読
蓋し祭祀の禮には、天地を郊祀するあり、宗廟を饗祀するあり、國家の常祀あり、內外の群祀あり。而して祭祀の道には、祭告あり、祈禱あり、齋戒の敬あり、奉幣の物あり、神官あり、神地あり、神戸あり。夫れ禮は祭より大なるはなし。祭祀の禮は至誠にあらざれば、則ちこれを致すべからず。至誠の格るは、その道を以てせざれば、則ち得べからず。凡そ天子より以て庶人に至るまで、祭祀には必ず分あり。人君は天下の爲に福を求め功に報ゆ。天下の鬼神悉くこれを御す。故に大にしては天地を祭祀し、親ら宗廟を饗し、小にしては徧く群神に告げ、疎にしては群靈に及ぶ。
現代語訳
思うに祭祀の禮には、天地を郊で祀るものがあり、宗廟を饗するものがあり、国家の常の祀りがあり、内外の群祀がある。そして祭祀の道には、祭りを告げることがあり、祈禱があり、斎戒の敬いがあり、幣帛を奉る物があり、神官があり、神地があり、神戸がある。そもそも禮は祭より大きなものはない。祭祀の禮は、至誠でなければ尽くすことができない。至誠が至るのは、その道によらなければ得られない。そもそも天子から庶人に至るまで、祭祀には必ず分限がある。君主は天下のために福を求め功に報いる。天下の鬼神をことごとく統べる。だから大きくは天地を祭祀し、みずから宗廟を饗し、小さくはあまねく群神に告げ、疎いところでは群霊にまで及ぶ。
解説
祭祀の全体を四つの類(郊祀天地・宗廟饗祀・國家常祀・内外群祀)と七つの要素(祭告・祈禱・齋戒・奉幣・神官・神地・神戸)に整理する。禮儀章 中二十四節の朝儀の一覧と同じ書きぶりで、まず全体を数え上げてから論に入るのが素行のやり方である。
そして「禮は祭より大なるはなし」。禮儀章で「治平の要、その本禮に在り」と言った素行が、その禮の頂点に祭を置く。
結びの「大にしては天地を祭祀し…疎にしては群靈に及ぶ」――君主の祭祀は、大から小へ、近から疎へと段階をなす。第九節の大社・國社の区分がここで理屈づけられている。
祭祀章 十六或は疑ふ、中朝の祭る所の神位甚だ多し ── 淫祠の謂か
原文
或疑、中朝所祭之神位、甚多、殆淫祠之謂乎、愚謂、淫祀者不可祀而祀之也、凡祭祀之制、或有功於民、或有功於事、或始祖于其事物、或當難拜患、或致忠孝於君父、或其鬼無所歸而爲厲、皆祀之、是乃八十萬神也、如外朝四方百物無不祭、貓虎昆蟲亦與焉、況吾神國之靈乎、
訓読
或は疑ふ、中朝の祭るところの神位、甚だ多し。殆ど淫祠の謂かと。愚謂へらく、淫祀とは、祀るべからずしてこれを祀るなり。凡そ祭祀の制は、或は民に功あり、或は事に功あり、或はその事物に始祖たり、或は難に當り患ひを拜ぎ、或は忠孝を君父に致し、或はその鬼歸するところなくして厲と爲る。皆これを祀る。是れ乃ち八十萬神なり。外朝の四方百物祭らざるなく、貓虎昆蟲も亦與るがごとし。況んや吾が神國の靈をや。
現代語訳
ある人は疑って言う。「この国が祭る神の位は、はなはだ多い。ほとんど淫祠というものではないか」。私はこう考える。淫祀とは、祀るべきでないものを祀ることである。そもそも祭祀の制度は、あるいは民に功があり、あるいは事に功があり、あるいはその事物の始祖であり、あるいは難に当たり憂いをしのぎ、あるいは忠孝を君父に尽くし、あるいはその霊が帰るところがなくて祟りとなる――みなこれを祀る。これがすなわち八十万の神である。外国でも四方の百物すべてを祭り、猫も虎も昆虫までも与かっているようなものだ。まして我が神国の霊においてはなおさらである。
解説
「神が多すぎるのは淫祠ではないか」という問いに、素行は語の定義から答える。「淫祀とは、祀るべからずしてこれを祀るなり」――『禮記』の定義に立ち返れば、問題は数ではなく資格だ、というわけである。
そのうえで祀られる六つの資格を数え上げる。①民に功がある ②事に功がある ③その事物の始祖である ④難に当たり憂いをしのいだ ⑤忠孝を尽くした ⑥霊が帰る所を失って祟りとなっている。いずれも理由がある、だから淫祠ではない、と。
⑥が興味深い。祟る霊を祀るのも祭祀の制度のうちだとする――御霊信仰を、迷信としてではなく制度として位置づけている。聖政章十節で「妖神を殺すは夷狄の習俗なり」と言った素行が、ここでは祟りへの対処を合理として認めているわけで、祀るか殺すかという対比で読むと面白い。
祭祀章 十七或は疑ふ、外朝に七廟あり ── 中朝また中朝の禮あり
原文
或疑、外朝有七廟、而我國不然、何也、愚謂、郊祀天神、祭祀內侍所、是乃祭祀社稷宗廟也、如七廟者、外朝之禮也、中朝又有中朝之禮、況神祭之義、天子自盡其誠、重臣相其事、祠官守往古之法、則更無可擬議之、
訓読
或は疑ふ、外朝に七廟ありて、我が國は然らず、何ぞやと。愚謂へらく、天神を郊祀し、内侍所を祭祀す。是れ乃ち社稷宗廟を祭祀するなり。七廟のごときは、外朝の禮なり。中朝又中朝の禮あり。況んや神祭の義は、天子自らその誠を盡し、重臣その事を相け、祠官往古の法を守る。則ち更にこれを擬議すべきなし。
現代語訳
ある人は疑って言う。「外国には七廟の制があるのに、我が国はそうでない。なぜか」。私はこう考える。天つ神を郊で祀り、内侍所を祭祀する。これがすなわち社稷と宗廟とを祭祀することである。七廟のようなものは、外国の禮である。この国にはまた、この国の禮がある。まして神を祭る道理は、天子がみずからその誠を尽くし、重臣がその事を助け、祠官が昔からの法を守っている。それならこれ以上、あれこれ論ずべきことはない。
解説
「中朝また中朝の禮あり」――この一句が本節の要である。
問いは「中国にあるものが日本にないのはなぜか」。素行の答えは欠けているのではなく、形が違うだけだというもの。七廟に相当するものは、日本では郊祀と内侍所である、と対応をつけたうえで、「七廟のごときは、外朝の禮なり」と切り離す。
禮儀章 中二十六節の「後世外朝の例を必とし、以て中國の禮に附會するは、尤も不正の至りなり」とまったく同じ主張である。他国の制度を基準にして自国を測るな――この立場が、本編の最後の章でもう一度確認されている。
祭祀章 十八祖考を祭るの禮 ── 近世浮屠の法を雜へ、大いに上古の制を變ず
原文
或疑、社稷之祭祀、得聞之、如祭其祖考、未與聞之、愚謂、伊弉冉尊神退去葬於紀伊國熊野之有馬村焉、土俗祭此神之魂、是上古祭魂之始也、夫祖高皇産靈尊曰、當爲吾孫奉齋矣、是子孫祀宗廟之敎也、祭其祖考之禮、豈外于此乎、後世修飾其節文、明于舊紀、其不一於外朝者、因水土國俗之殊、是乃天地之勢也、近世雜浮屠之法、大變上古之制、惜可歎也矣、
訓読
或は疑ふ、社稷の祭祀は、これを聞くを得たり。その祖考を祭るがごときは、未だこれを聞くを與にせずと。愚謂へらく、伊弉冉尊神退り去りて紀伊國熊野の有馬村に葬る。土俗この神の魂を祭る。是れ上古魂を祭るの始なり。夫れ祖高皇産靈尊曰はく、當に吾が孫の爲に齋ひ奉らんと。是れ子孫の宗廟を祀るの敎なり。その祖考を祭るの禮、豈にここに外ならんや。後世その節文を修飾すること、舊紀に明らかなり。その外朝に一ならざるは、水土國俗の殊なるに因る。是れ乃ち天地の勢なり。近世浮屠の法を雜へ、大いに上古の制を變ず。惜しみ歎ずべきなり。
現代語訳
ある人は疑って言う。「社稷の祭祀については聞くことができた。しかしその祖先を祭ることについては、まだ聞いていない」。私はこう考える。伊弉冉尊が神去られて紀伊国熊野の有馬村に葬られた。土地の人はこの神の魂を祭っている。これが上古において魂を祭ることのはじめである。そもそも祖である高皇産靈尊が「わが孫のために斎き祀ろう」と言われた。これが子孫が宗廟を祀るという教えである。その祖先を祭る禮が、どうしてここから外れることがあろうか。後の世にその作法を整えたことは、古い記録に明らかである。それが外国と同じでないのは、風土と国の習俗とが異なることによる。これこそが天地のなりゆきである。近ごろは仏教の法を混ぜて、大いに上古の制度を変えてしまった。惜しみ嘆くべきことである。
解説
祭祀章の結び。三つ目の問いは「祖先を祭る禮についてはどうか」。素行は伊弉冉尊の葬地の伝承を引いて、「是れ上古魂を祭るの始なり」と答える。
そして前節の主張を繰り返す。「その外朝に一ならざるは、水土國俗の殊なるに因る。是れ乃ち天地の勢なり。」――違いは風土から来るのであって、優劣ではない。比較して足りないと嘆くのではなく、違う条件から違う形が出ることを当然とする――聖政章十三節の「その水土を知りて以て風俗を考へ」がここに戻ってくる。
最後の一句「近世浮屠の法を雜へ、大いに上古の制を變ず。惜しみ歎ずべきなり」は葬祭仏教への批判である。禮儀章 上十九節の「皆有司に事とし、異敎を貴び」と同じ趣旨で、喪と祭とを他人任せにするなという一貫した主張である。
化功章 一蘇那曷叱知を遣はして朝貢せしむ ── 日本國に聖皇あり
原文
崇神帝六十五年、秋七月、任那國遣蘇那曷叱知、令朝貢也、任那者去筑紫國二千餘里、北阻海、以在雞林之西南、
一書曰、崇神朝額有角人、乘一舶、泊于越國笥飯浦、故號其處曰角鹿也、問之曰、何國人也、對曰、意富加羅國王之子、名都怒我阿羅斯等、亦名曰于斯岐阿利叱智干岐、傳聞日本國有聖皇、以歸化之、到于穴門時、其國有人、名伊都都比古、謂臣曰、吾則是國主也、除吾復無二王、故勿往他處、然臣究見其爲人、必知非王也、卽更還之、不知道路、留連嶋浦、自北海廻之經出雲國、至於此間也、
訓読
崇神帝の六十五年、秋七月、任那國蘇那曷叱知を遣はして、朝貢せしむ。任那は筑紫國を去ること二千餘里、北は海を阻て、以て雞林の西南に在り。
一書に曰く、崇神の朝、額に角ある人、一つの舶に乘りて、越國の笥飯浦に泊る。故にその處を號けて角鹿と曰ふ。これに問ひて曰はく、何れの國の人ぞと。對へて曰はく、意富加羅國王の子、名は都怒我阿羅斯等、亦の名は于斯岐阿利叱智干岐と曰ふ。傳へ聞く日本國に聖皇ありと。以てこれに歸化す。穴門に到るの時、その國に人あり、名は伊都都比古。臣に謂ひて曰はく、吾は則ちこの國の主なり。吾を除きて復た二王なし。故に他處に往くことなかれと。然れども臣究めてその爲人を見るに、必ず王に非ざるを知る。卽ち更にこれを還る。道路を知らず、嶋浦に留連す。北海より廻りて出雲國を經て、ここに至るなり。
現代語訳
崇神天皇の六十五年、秋七月、任那国が蘇那曷叱知を遣わして朝貢させた。任那は筑紫国から二千余里を隔て、北は海を隔てて、鶏林(新羅)の西南にある。
ある書にいう。崇神の朝、額に角のある人が、一艘の船に乗って越国の笥飯浦に泊まった。だからその地を角鹿と名づけた。これに問うて言った。「どこの国の人か」。答えて言った。「意富加羅国王の子、名は都怒我阿羅斯等、またの名を于斯岐阿利叱智干岐と申します。伝え聞くところ、日本国に聖なる皇がおられるとのこと。それでお慕いして参りました。穴門に到りましたとき、その国に人がおりまして、名を伊都都比古といいます。私に言うには、私こそがこの国の主である、私のほかに二人の王はない、だからほかへ行くな、と。しかし私がよくよくその人となりを見ますに、必ず王ではないと分かりました。そこで引き返しました。道が分からず、島や浦をさまよいました。北の海から回って出雲国を経て、ここに至ったのです」。
解説
本編最後の章、化功章の冒頭。徳の感化によって外から人が来たという記録を集める章である。
「一書曰」に引かれる都怒我阿羅斯等の話が面白い。「傳へ聞く日本國に聖皇ありと。以てこれに歸化す」――評判を聞いて来た、という筋になっている。途中で穴門の伊都都比古に「私が王だ」と言われ、「究めてその爲人を見るに、必ず王に非ざるを知る」と見抜いて引き返す。人を見る目の話にもなっているところが、神知章を書いた素行の関心と重なる。
敦賀(角鹿)の地名の由来としても知られる伝承である。
化功章 二外夷投化の始 ── 御肇國天皇
原文
謹按、是外夷投化之始也、帝小心明德、國內漸盛、五穀旣熟、敎化大行、天下稱謂御肇國天皇、故外夷亦投化、聖德之陸、可以見之也、
訓読
謹みて按ずるに、是れ外夷投化の始なり。帝心を小にし德を明らかにす。國內漸く盛に、五穀旣に熟し、敎化大いに行はる。天下稱して御肇國天皇と謂ひたてまつる。故に外夷も亦投化す。聖德の陸なる、以てこれを見るべきなり。
現代語訳
つつしんで考えてみるに、これが外の民が来て服属することのはじめである。天皇は心を慎み徳を明らかにされた。国内はしだいに盛んになり、五穀はすでに実り、教化は大いに行われた。天下は称えて御肇國天皇と申し上げた。だから外の民もまた来て服属した。聖なる徳の厚いことは、これによって見てとれる。
解説
素行の読みの筋がここで示される。内が治まった結果として外から人が来る――だから来訪は徳の証拠だ、という論法である。
「帝心を小にし德を明らかにす。國內漸く盛に、五穀旣に熟し、敎化大いに行はる。故に外夷も亦た投化す。」――因果の順序が明確で、まず内政、次に外である。この順序は第二十七節(章の総括)でもう一度、原則として述べられる。
ただし「投化」という枠づけには留保が要る。渡来はさまざまな事情による移動であって、必ずしも一方的な帰服ではない。素行が用いる「外夷」「投化」という語は、中巻以来の華夷観念に立つものである。史実としての渡来と、それを「徳への帰服」と解釈する枠組みとは、分けて読む必要がある。
化功章 三天日槍、七物を獻ず ── 日本國に聖皇ありと聞きて
原文
垂仁帝三年、春三月、新羅王子天日槍來歸焉、將來物羽太玉一箇、足高玉一箇、鵜鹿鹿赤石玉一箇、出石小刀一口、出石桙一枝、日鏡一面、熊神籬一具、幷七物、則藏于但馬國、常爲神物也、
一書曰、初天日槍乘艇泊于播磨國、在於完栗邑、時天皇遣三輪君祖大友主與倭直祖長尾市於播磨、而問天日槍曰、汝也誰人、且何國人也、天日槍對曰、僕新羅國主之子也、然聞日本國有聖皇、則以己國授弟知古、而化歸之、仍貢獻八物、
訓読
垂仁帝の三年、春三月、新羅の王子天日槍來歸す。將ち來る物は、羽太玉一箇、足高玉一箇、鵜鹿鹿赤石玉一箇、出石の小刀一口、出石の桙一枝、日鏡一面、熊神籬一具、幷せて七物。則ち但馬國に藏めて、常に神物と爲すなり。
一書に曰く、初め天日槍艇に乘りて播磨國に泊り、完栗邑に在り。時に天皇三輪君の祖大友主と倭直の祖長尾市とを播磨に遣はして、天日槍に問はしめて曰はく、汝は誰人ぞ、且つ何れの國の人ぞと。天日槍對へて曰はく、僕は新羅國主の子なり。然れども日本國に聖皇ありと聞く。則ち己が國を以て弟知古に授けて、化して歸すと。仍りて八物を貢獻す。
現代語訳
垂仁天皇の三年、春三月、新羅の王子である天日槍が来帰した。持って来た物は、羽太玉一箇、足高玉一箇、鵜鹿鹿赤石玉一箇、出石の小刀一口、出石の桙一枝、日鏡一面、熊神籬一具、あわせて七つの物である。これを但馬国に納めて、常に神の物とした。
ある書にいう。はじめ天日槍は船に乗って播磨国に泊まり、完栗邑にいた。そのとき天皇は三輪君の祖である大友主と、倭直の祖である長尾市とを播磨に遣わして、天日槍に問わせて言った。「お前は誰か、また、どこの国の人か」。天日槍は答えて言った。「私は新羅国の主の子です。しかし日本国に聖なる皇がおられると聞きました。そこで自分の国を弟の知古に授けて、教化を慕って参りました」。そこで八つの物を献じた。
解説
天日槍の渡来。持参した七つの宝物が名を挙げて記され、それが但馬国に「神物」として納められたという。実際に但馬の出石神社は天日槍を祭神とする。渡来した人が神として祀られている――第十六節で数えた「祀られる六つの資格」の実例でもある。
ここでも動機は「日本國に聖皇ありと聞く」とされ、前節と同じ枠づけになっている。この定型は記紀の編纂意図を反映したものであって、実際の渡来の事情(政変、通商、技術者集団の移動など)とは分けて考える必要がある。
とはいえ、渡来がもたらしたものの具体性――玉、刀、桙、鏡、そして神籬――は史料として貴重である。祭祀の道具まで一緒に渡ってきたことが記録されている点は、祭祀章のあとに置かれた章として意味深い。
化功章 四遠人譯を重ねて來朝貢獻す ── 崇神・垂仁二帝の德化
原文
謹按、崇神垂仁二帝之德化、及外夷、遠人重譯來朝貢獻、聖德治敎之餘、仁風遠揚之至、其柔懷盛哉、
訓読
謹みて按ずるに、崇神垂仁二帝の德化、外夷に及ぶ。遠人譯を重ねて來朝し貢獻す。聖德治敎の餘、仁風遠く揚がるの至り、その柔懷盛なる哉。
現代語訳
つつしんで考えてみるに、崇神・垂仁の二帝の徳による感化が、外の民にまで及んだ。遠い国の人が何度も通訳を重ねて来朝し、貢を献じた。聖なる徳と治教との余波であり、仁の風が遠くまで揚がったきわみである。その和らげなつける力の盛んなことよ。
解説
短い按語。「遠人譯を重ねて來朝し貢獻す」――「重譯」は何段階も通訳を介するほど遠い、という常套の表現で、『尚書大傳』などに見える。
素行の関心は一貫して「柔懷」――武力によらずに従わせること――にある。武德章 下十七節の「兵甲を煩はさずして、自ら臣隷たらしめよ」、同二十六節の「柔懷するや、子弟を質とし」がここに戻ってくる。武德章と化功章とは、同じ主題の裏表として置かれているわけである。
ただし「貢獻」という枠づけには、前節までと同じ留保が要る。
化功章 五弓月君と阿知使主 ── 己が民を率ゐて來歸す
原文
應神帝十四年、弓月君自百濟來歸、因以奏之曰、以領己國之人夫百二十縣、而歸化、然因新羅人之拒、皆留加羅國、爰遣葛城襲津彦、而召之、十六年乃率弓月之人夫來、
二十年、秋九月倭漢直祖、阿知使主共子都加使主、並率己之黨類十七縣、而來歸、
一書曰、至輕嶋豐明朝、秦公祖、弓月率百廿縣民而歸化矣、漢直祖阿知使主、率十七縣民而來朝焉、秦漢百濟內附之民、各以萬計、
訓読
應神帝の十四年、弓月君百濟より來歸す。因りて以てこれを奏して曰さく、己が國の人夫百二十縣を領して、歸化せんとす。然るに新羅人の拒むに因り、皆加羅國に留まると。爰に葛城襲津彦を遣はして、これを召す。十六年、乃ち弓月の人夫を率ゐて來る。
二十年、秋九月、倭漢直の祖、阿知使主子の都加使主と共に、並びに己が黨類十七縣を率ゐて、來歸す。
一書に曰く、輕嶋の豐明の朝に至り、秦公の祖、弓月百廿縣の民を率ゐて歸化す。漢直の祖阿知使主、十七縣の民を率ゐて來朝す。秦漢百濟內附の民、各萬を以て計ふ。
現代語訳
応神天皇の十四年、弓月君が百済から来帰した。そこで奏上して言った。「自分の国の人夫百二十県を率いて帰化しようとしました。しかし新羅人が拒んだため、みな加羅国に留まっております」。そこで葛城襲津彦を遣わしてこれを召された。十六年、そこで弓月の人夫を率いて来た。
二十年、秋九月、倭漢直の祖である阿知使主が、子の都加使主とともに、自分たちの一族十七県を率いて来帰した。
ある書にいう。輕嶋の豐明の朝に至って、秦公の祖である弓月が百二十県の民を率いて帰化した。漢直の祖である阿知使主は、十七県の民を率いて来朝した。秦・漢・百済から内属した民は、それぞれ万を数えた。
解説
秦氏と漢氏の渡来を記す、日本古代史上きわめて重要な記事である。「百二十縣」「十七縣」という規模、そして「秦漢百濟内附の民、各〻萬を以て計ふ」――万単位の人の移動が記録されている。
この渡来がもたらしたものは、養蚕・機織・製鉄・土木・文筆など多岐にわたり、古代日本の技術と行政の基盤を形づくった。素行はそれを「徳化」の証として読むが、実態としては技術と人材の大規模な流入であって、日本側が一方的に与える立場にあったのではない。禮儀章 中三十五節で素行自身が「外朝の經典、廣く世に布き…大いに中國の治平を補ふ」と認めていたことと、あわせて読みたい。
新羅に阻まれて加羅に留まったという経緯も記されており、渡来が政治のただ中にあったことを本文自身が示している。
化功章 六遠人の來化、ここにおいて最も盛んなり
原文
謹按、遠人之來化、於此最盛也、秦漢二氏者、外朝之封彊也、皆來歸之、況三韓之來服乎、故置國置美人、立其郡、以安之柔之、其後吳王朝貢、渤海武事奉表、獻土宜、皆中朝治敎休明之化也、
訓読
謹みて按ずるに、遠人の來化、ここにおいて最も盛なり。秦漢の二氏は、外朝の封彊なり。皆來りてこれに歸す。況んや三韓の來服をや。故に國を置き美人を置き、その郡を立て、以てこれを安んじこれを柔ぐ。その後吳王朝貢し、渤海武事表を奉り、土宜を獻ず。皆中朝治敎休明の化なり。
現代語訳
つつしんで考えてみるに、遠い国の人が来て教化に浴することは、ここにおいてもっとも盛んであった。秦・漢の二氏は、外国の領域の者である。みな来てこれに帰した。まして三韓が来て服したことは言うまでもない。だから国を置き、美人を置き、その郡を立てて、これを安んじこれを和らげた。その後、呉の王が朝貢し、渤海が武の事について上表し、土地の産物を献じた。みなこの国の治教が美しく明らかであることの感化である。
解説
渡来の記事の総括。素行は秦・漢・三韓・呉・渤海と並べ、いずれも「中朝治敎休明の化なり」――統治と教化が優れていたからだ、と結論づける。
この因果づけは成り立たない。渤海が日本に使節を送ったのは八世紀以降、唐や新羅との緊張のなかで同盟相手を求めた外交上の判断であり、感化とは無関係である。秦氏・漢氏の渡来も、朝鮮半島の政治情勢と技術者集団の移動として理解されるべきものである。
とはいえ、素行がここで外から人が来ることを一貫して肯定的に見ている点は押さえておきたい。禮儀章 中三十五節の隣好論と同じで、閉じることを良しとしないのが彼の立場である。枠づけの偏りと、その底にある開かれた態度とを、あわせて読みたい。
化功章 七以上、功化の極を論ず ── 内より外に及び、近を先にして遠を後にす
原文
以上論功化之極、謹按、地有內外、勢有遠近、人有華夷、故治敎之道、自內而及外、先近而後遠、親華而柔夷、夫朝廷之上、國都之內、何預四夷之遠疎乎、然內之和、近之治、華之溢、知之明也、德之充也、
訓読
以上、功化の極を論ず。謹みて按ずるに、地に內外あり、勢に遠近あり、人に華夷あり。故に治敎の道は、內より外に及び、近きを先にして遠きを後にし、華を親しみて夷を柔ぐ。夫れ朝廷の上、國都の內、何ぞ四夷の遠疎に預らんや。然れども內の和するや、近きの治まるや、華の溢るるや、知の明らかなるなり、德の充つるなり。
現代語訳
以上、功による感化のきわみを論じた。つつしんで考えてみるに、地には内と外とがあり、勢いには遠いと近いとがあり、人には華と夷とがある。だから治めと教えとの道は、内から外に及び、近いところを先にして遠いところを後にし、華を親しんで夷を和らげる。そもそも朝廷の上、国都の内において、どうして四方の遠く疎い者たちのことに関わろうか。しかし内が和らぎ、近いところが治まり、華が満ちあふれるのは、知が明らかであり、徳が満ちているからである。
解説
化功章の総括、そして本編全体の結論部にあたる。「治敎の道は、内より外に及び、近きを先にして遠きを後にし、華を親しみて夷を柔ぐ」――外交や対外的な威信は、内政の結果としてついてくる、という順序の主張である。
これは『大學』の八条目(修身・齊家・治國・平天下)と同じ構造で、素行の一貫した方法――漢籍の枠組みで日本を語る――がここでも働いている。
「華」「夷」という語の使い方には留保が要る。ただし素行の「華」は地でも血でもなく禮によるかどうかで決まる(禮儀章 上七節)ので、この序列は固定的なものではない。それでも序列そのものは残っており、対等の思想と序列の思想とが両立しているという禮儀章 中で指摘した構造は、最後まで変わらない。
化功章 八期せずして然るは、實に過化の極功なり ── 本編の結び
原文
無不通無不感者、道之精妙也、四夷不遠千里之險、萬頃之渺、歸仰投化、畢獻方物、不期其然而然者、中華之文明、聖王之治敎、天以授之、人以與之、實過化之極功也、
訓読
通ぜざるなく感ぜざるなき者は、道の精妙なり。四夷千里の險、萬頃の渺たるを遠しとせず、歸仰投化して、畢く方物を獻ず。その然るを期せずして然る者は、中華の文明、聖王の治敎、天以てこれを授け、人以てこれを與す。實に過化の極功なり。
現代語訳
通じないところがなく感じないところがないのは、道の精妙さである。四方の民は千里の険しさも、万頃の果てしなさも遠いとせず、慕い仰いで来て服し、ことごとく土地の産物を献じた。そうなることを期していないのにそうなるのは、この国の文明、聖なる王の治めと教えとが、天がこれを授け、人がこれに与したからである。まことに過化のきわみの功である。
解説
『中朝事實』本編の最後の一節である。
結論は「その然るを期せずして然る」――狙わずにそうなる、という一点にある。前節の「内より外に及ぶ」を承けて、感化とは意図して起こすものではないと締めくくる。『孟子』の「過化」――聖人が通り過ぎたところは、おのずと化する――が、その根拠として引かれる。
本編全体を振り返ると、素行は一貫して制度・禮・賞罰・武備という「形」の必要を説いてきた。その最後に置かれたのが、「期せずして然る」という、形を超えたところへの言及である。形を尽くしたうえで、なお形では届かないものがある――そこまで言って本編は閉じられる。聖政章十八節の「舟と水」、禮儀章 下七十節の「天と云ふときは則ち地その中に在るなり」と並ぶ、素行の締めくくり方の妙といえる。
この後に附録「或疑」が続きます。次の第十五分冊が最終巻です。