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中朝事實 小林一郎 講義 二十八(神教章 その六)

山鹿素行 原著 小林一郎 講述 ── 王仁の系譜、中國が外國の經典を學ぶの始、修身治國、三韓との交通、和漢同一揆 原文・訓読・講義・補注の四層

この読本について

小林一郎 講義本『中朝事實』の第二十八冊。神教章の第六分冊(底本 下巻 五三〜六一頁前半)を収めます。前冊末尾の阿直岐・王仁の渡来記事を承けて、まず小林自身の言葉で菟道稚郎子が「太子」と呼ばれた事情、王仁の系譜、続日本紀に見える二つの異伝を丁寧に説き明かし、続けて山鹿素行の謹按「是れ中國が外國の經典を學ぶの始なり」(歴代天皇の徳行の列挙)と「符節を合せたるがごとし」(外朝の聖人と日本の神聖とは筋道を一つにする、という素行の外国学問観の核心)に入ります。

この冊の読みどころ(一)。「阿直岐の方は馬を貢する使ひに来たのが学者であるといふ所から菟道稚郎子がこれに学ばれた」のに対し、「王仁の方はわざゞ日本から使ひを遣はして招聘した」──小林は両者の違いを丁寧に腑分けし、なぜ王仁の方が後々まで重んじられたかを説きます。

この冊の読みどころ(二)。素行の謹按は、漢字を知る前から歴代天皇に修己治人の実があったことを列挙したうえで、「亦寬容ならずや」と続く次冊への布石を敷きます。ここでは特に、神武・綏靖・崇神・垂仁・景行・成務という歴代天皇の徳行を、小林が一人一人具体的なエピソードで説き直す件が読みどころです。

この冊の読みどころ(三)。『孟子』の「先聖後聖、其の揆一なり」を引いて、支那の聖人と日本の神々の教へとは「帰する所同じ」と説く一段は、次冊の「斟酌の必要」(外国の学問をどう取捨するか)へとつながる伏線になっています。

四層の構成。「原文」は小林本の漢文(山鹿素行全集版の対応節 中朝事実_5.html(sg20・sg21)と照合して確認しました)、「訓読」はその読み下しに総ルビを補ったもの、「現代語訳」の欄には小林一郎の講義そのものを現代表記に直して全文収めています。「解説」は新たに書き加えた補注です。

翻刻について。底本は小林一郎講述『中朝事實』下(皇國精神講座)の影印です。旧字・旧仮名の原本からの文字起こしで、なお誤りが残っている可能性があります。

色分けの凡例

『日本書紀』(本文・一書)本朝の古典(古語拾遺・舊事本紀・元々集ほか)漢籍(易・書・詩・論語・孟子ほか)制度・地理・故事

主要語彙集

兢惕(きようてき)
恐れ慎むこと。成務天皇の徳を形容する語として引かれる。
懇款(こんくわん)
誠心を持って親しむこと。三韓諸国が日本に対して示したという態度を形容する。
揆一(きいつ)
揆(はかりごとの筋道)を一つにすること。『孟子』離婁下「先聖後聖、其の揆一なり」に由来する語で、時代も土地も違う聖人が同じ筋道に至ることをいう。
三皇五帝(さんくわうごてい)
支那の伝説上の古代帝王の総称。禹・湯・文王・武王・周公・孔子とともに、支那の聖人の系譜として引かれる。

登場する神・人物

小林一郎(こばやしいちろう)
一八七六〜一九四四。漢学者・国文学者。二松学舎に学ぶ。『皇國精神講座』を主宰し、『中朝事實』のほか多くの古典を講義した。この読本の講義部分の著者。
山鹿素行(やまがそこう)
一六二二〜一六八五。『中朝事實』の著者。寛文九年(一六六九)、赤穂配流中に本書を著した。
應神天皇(おうじんてんわう)
第十五代天皇。譽田天皇とも申す。阿直岐・王仁を召して典籍を伝へさせたと伝はる。
神功皇后(じんぐうくわうごう)
仲哀天皇の后。仲哀天皇の崩御ののち、みづから三韓を征伐されたと伝はる。
桓武天皇(くわんむてんわう)
第五十代天皇。延暦の御代。百濟王眞道の上表、武生連眞象の上言は、いづれもこの御代に奏せられたと伝はる。

神教章 四十三阿直岐と王仁 ── 学者としての重み底本 下巻 五十三頁(後半)〜五十四頁
原文
(小林の講義による敷衍。原文には對應する漢文なし。)

訓読
(原文なし。小林一郎の講義による敷衍箇所。)

現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
此の時に天皇が阿直岐の学問を伝へたことを非常にお喜びになつて、尚ほ阿直岐にお尋ねになりますには、お前が儒教を伝へたといふことは洵に善い事であるが、若しお前よりも学問の勝れた者があるならば其の者を招きたいと、斯ういふ仰せでありました。そこで阿直岐が、自分は一向学問が深くもない者であるけれども、自分の国に王仁といふ者があつて、これは勝れた学者でありますから、此の学者をお招きになつたら宜しからう。斯ういふお答へを申したので、そこで後世に至つて上毛野といふ姓の家となつたその祖先である所の荒田別と、巫別といふ人を百済にやつて、さうして王仁を招かせたのであります。又此の阿直岐は阿直岐史といふ姓の祖先になつて居ります。斯ういふ訳で阿直岐と王仁とは同じやうに学者として後世に伝へられて居るけれども、余ほどこれは段が異ふので、阿直岐の方は馬を貢する使ひに来たのが学者であるといふ所から菟道稚郎子がこれに物を学ばれたのであります。それから王仁の方はわざゞ日本から使ひを遣はして招聘したのでありますから、王仁といふ人の方が非常に重きをなして居つたに相違ないのであります。随つて王仁は後に至るまでも日本の学問の祖として、一般に尊重されて居つた訳であります。此のお使ひが参つたのに応じて、応神天皇の十六年の春に王仁が参りました。そこで菟道稚郎子は之を師として多くの書物をお習ひになつたのであります。此の時に王仁が論語を持つて参つたといふことは、よく誰も知つて居ることであります。又此の菟道稚郎子といふ方は非常に御聡明な方でありましたから、王仁に就いて学問をなされて、謂はゆる聖賢の道に深く達せられたのでありました。此の王仁は、書首といふ家の祖先として伝へられて居ります。

解説
前冊末尾(kg42)の続き。阿直岐は「馬の貢献のついでに学者だつた」偶然の出会いであるのに対し、王仁は「わざゞ招聘した」対象である──この違ひを小林が丁寧に説き分ける。後世に王仁の方が重んじられた理由がここに示される。

神教章 四十四百濟王眞道の上表底本 下巻 五十四頁
原文
(小林の講義による敷衍。原文には對應する漢文なし。)

訓読
(原文なし。小林一郎の講義による敷衍箇所。)

現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
斯ういふやうなことが初めとなつて、これより続々と書物も参りますし、また後に至つては朝鮮を経ないで直接支那から儒教が伝はつたものでありますから、儒教といふものが日本に於ける大きな力となつた訳であります。其の後桓武天皇の御時になつて、百済の王の眞道といふ者が上表して申しますには、自分達の家は一體百済の貴須王といふ王から出て居るので、此の貴須王といふのは百済の始めから数へると十六代目の王に営るのであります。百済の一番初めの王は都慕大王といふのでありますが、これはもと日本から参つた者で、日本の昔の神様の後たる者が百済に行つて此の国を開いて、これが天の護りを受けて其の地方の全体を統一することが出来て国王となつた。斯ういふ訳であるから百済と日本とはもとゝ其の王たる者の血統を同じうして居るので、此の百済が後に日本に帰服したといふことは、卽ち其の国の成り立ちから見て固より当然のことと申さなければならぬのであります。それからズット下つて近肖古王といふ王の時に、日本の国の非常に勝れた国であるといふことを慕うて、初めて此の国に参つて朝廷に事へたので、これが神功皇后の摂政をしてらしつた頃であります。此の時に一層百済との縁が近くなつたものでありますから、後に至つて応神天皇が荒田別といふ者を百済に使ひとして送つて、さうして学問のある者をお招きになつたのであります。それで国主の貴須王といふ者が、日本よりわざゞ学者を招かれたといふことを非常に光栄に存じます。其の一族の中から然るべき学者を選びまして、此の貴須王の孫に営る所の辰孫王といふ者を日本に遣はしました。応神天皇は此の辰孫王が来たといふことを大変にお喜びになつて、特にこれを重く御待遇になり、菟道稚郎子といふ皇子の師となされました。これからだんゞと書物も多く伝はり、また孔子の教へといふものも伝はつて、日本の風教といふものが盛んになつたのであります。

解説
前冊(kg41)で漢文のまま引かれた続日本紀の百済王眞道の上表文を、小林が自分の言葉で説き直す一段。「都慕大王はもと日本から参つた者」という説明は、原漢文の「日神降靈奄扶餘而開國」を、日の神の霊が日本から下ったのだと日本中心に読み解いたもので、素行系の学統に特有の解釈である。

神教章 四十五武生連眞象の上言 ── 神武天皇の詔との類比底本 下巻 五十五頁
原文
(小林の講義による敷衍。原文には對應する漢文なし。)

訓読
(原文なし。小林一郎の講義による敷衍箇所。)

現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
仁徳天皇は其の後に至つて此の辰孫王の長子の阿育王といふ者を近侍となさつた。これも親の学問を伝へてなかなかの学者でありまして、始終仁徳天皇の御諮問に応じて様々な意見を申したのであります。斯ういふやうな訳で学問が朝鮮から伝はると共に、たゞ書物か伝はつたといふだけでなく、日本の国の政治を行ひ、法制制度を立てるといふやうなことにも自ら大きに役に立つた訳であります。斯ういふことを申上げました。其の後に至つて桓武天皇の御代に、武生連眞象といふ者がまた申上げるのには、漢の高祖の子孫に鸞といふ者があつて、鸞の子孫に王狗といふ者がありました。此の王狗といふ者が百済に参つたので、此の百済の久素王の時に日本から使ひをお遣はしになつて学者をお招きになつた場合に、久素王が此の王狗の孫に営る所の王仁を日本に遣はして、これに依つて聖賢の道が伝はつたのであるが、此の王狗といふ者が武生といふ家の祖先になるわけであります。それで日本と百済とは洵に斯ういふ縁の深い国であるといふことを申上げたといふことであります。これは古くから伝はつた所を一通り列ねたのでありますが、日本は非常に勝れた国でありますけれども、此の勝れた国を一層盛んにしたいといふ思召から、斯ういふやうに朝廷よりして学者をわざゞ外国にまでお求めになつたといふことは、実に尊いことなのでありまして、要するにこれは国民の為めであるといふ思召と存ぜられます。神武天皇の橿原に於て御即位の時の詔にも「苟くも民に利有らば、何ぞ聖造を妨げん」と仰せられてありまして、人民の為めならば天子様はどういふ事でもして下さるといふのであります。外国に学者を求められたのも全く「民に利有らば」といふ神武天皇の御精神を伝へられたことであらうと思はれます。

解説
前冊(kg41)の武生連眞象の上言(漢の高祖の後裔・王狗の孫を王仁とする異伝)を説き終へたのち、小林はこれを神武天皇の橿原奠都の詔「苟くも民に利有らば、何ぞ聖造を妨げん」に重ねる。外国に学者を求めたことも、この「民に利有らば」の御精神の延長として位置づけられる。天先章・皇統章で繰り返し引かれた「天下を私物にしない」という一貫した主張が、ここでも底流している。

神教章 四十六謹按 ── 是れ中國が外國の經典を學ぶの始なり底本 下巻 五十六〜五十七頁
原文
謹按。是中國學外國經典之始也。學者。修己治人之道也。夫天神之生知。無不通。無不誠。天祖之明敏。日愼一日。以得本。夫神武帝建洪基。綏靖帝至孝。安寧帝乾柴。垂仁帝爛而無飾。景行帝之雄謀。成務帝之競傷。皆是從乾靈之正德。以法人物之明敏。神功帝親征三韓。足法大神之明教也。是乃中州神聖之擧原。而萬世以法之也。逮仲哀帝。有住吉大神。賜軍國。自是三韓年年朝聘獻貢。寶物無不具。百濟王歡欣之餘。貢博士女工等。故外國諸器貢於外朝。以服從武德。中州始知漢字。

訓読
つつしみてあんずるに、中國ちうごく外國ぐわいこく經典けいてんまなぶのはじめなり。がくおのれをさひとをさむるのみちなり。天神てんじん生知せいちなる、つうぜざるなく、まことならざるなし。天祖てんそ明敏めいびん一日いちにちよりもつつしみてもつもとたり。神武帝じんむてい洪基こうきて、綏靖帝すゐぜいてい至孝しかうにして、安寧帝あんねいてい乾柴けんさいなる、垂仁帝すゐにんていらんとしてかざることなく、景行帝けいかうてい雄謀ゆうぼうなる、成務帝せいむてい競傷きやうしやうせる、みな乾靈けんれい正德せいとくしたがふ。神功帝じんぐうていみづか三韓さんかんちたまふ。大神おほかみ明教めいけうのつとるにれり。すなは中州ちうしう神聖しんせい擧原きよげんにして、萬世ばんせいもつてこれをのつとるなり。仲哀帝ちうあいていおよびて、住吉大神すみのえのおほかみあり、軍國ぐんこくたまふ。これより三韓さんかん年年ねんねん朝聘てうへい獻貢けんこうして、寶物はうもつそなはらずといふことなし。百濟王くだらわう歡欣くわんきんあまり博士はかせ女工ぢよこうたてまつる。ゆゑ外國ぐわいこく諸器しよきたてまつりて、もつ武德ぶとく服從ふくじゆうす。中州ちうしうはじめて漢字かんじる。

現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
つつしんで考えてみるに、これが中國(日本)が外国の経典を学んだはじめである。学問とは、自分を修め人を治める道である。そもそも天神は生まれながらに知る方であって、通じないところがなく、誠でないところがない。天祖の明敏さは、日ごとに前の日よりもつつしんで根本を得られた。神武天皇は大いなる基を建て、綏靖天皇は至って孝であり、安寧天皇はかざりけがなく、垂仁天皇は輝いて飾ることなく、景行天皇の雄大な謀、成務天皇の励み傷むほどの心づかい、いずれも天の神の正しい徳に従ったものである。神功皇后はみずから三韓を征された。大神の明らかな教えにのっとるに十分である。これこそ中州の神聖なる事業のはじめであって、万世これにのっとるのである。仲哀天皇の代に至って住吉大神があり、軍国を賜った。これより三韓は年ごとに朝聘し貢献して、宝物は備わらないものがなかった。百済王は喜びのあまり博士や女工らを貢った。こうして外国の諸々の器物を貢り、武徳に服従した。中州ははじめて漢字を知ったのである。

解説
「學は己れを修め人を治むるの道なり」──学問の定義がここで置かれる。『大學』の修己治人がそのまま用ゐられている。そのうえで素行は、日本には漢字を知る前からすでに歴代天皇の徳行があった、と列挙する。漢字を知らなかった時代にも学(修己治人)はあったという主張であり、次段の「符節を合せたるがごとし」への布石になっている。全集版の対応節はsg20。なお三韓征討の記事は伝承に基づくもので、史実としては検証に堪えない。

神教章 四十七符節を合せたるがごとし底本 下巻 五十六〜五十七頁
原文
應神帝聖武而聰達。欲博通外國之事。徵王仁。令讀典籍。太子師之。以能通達漢籍。
凡外朝之三皇五帝。禹湯文武。周公孔子之大聖。亦與中州往古之神聖其揆一也。故讀其書。則通於義。無所閒隔。其趣向猶如合符節。探賾櫽括。則足以補翼王化。

訓読
應神帝おうじんてい聖武せいぶにして聰達そうたつなり。ひろ外國ぐわいこくことつうぜんことをほつして、王仁わに典籍てんじやくましめ、太子たいしこれをとして、もつ漢籍かんせき通達つうたつす。
およ外朝ぐわいてう三皇五帝さんくわうごていたうぶん周公しうこう孔子こうし大聖たいせいなる、また中州ちうしう往古わうこ神聖しんせいとそのいつにするなり。ゆゑにそのしよむときは、つうじて閒隔かんかくするところなく、その趣向しゆかう符節ふせつはせたるがごとく、探賾たんさく櫽括いんくわつするときは、もつ王化わうくわ補翼ほよくするにる。

現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
応神天皇は聖にして武、聡明で通達しておられた。広く外国の事に通じようとして、王仁を召して典籍を読ませ、太子はこれを師として、よく漢籍に通達した。そもそも外朝の三皇五帝、禹・湯・文王・武王、周公・孔子といった大聖も、中州(日本)の往古の神聖とその筋道を一つにしている。だからその書を読めば、意味において通じて隔たるところがなく、その向かうところはちょうど割符を合わせたようであり、奥深いところを探り、たわみを正すようにして読めば、王の徳化を助けるのに十分である。

解説
「その揆一なり」──『孟子』のこの一句が、素行の外国学問観の核心である。中国の聖人と日本の神聖とは、時代も土地も違うが道筋は同じ。だから漢籍を読めば「符節を合せたるがごとく」通じ合う。日本と中国を優劣ではなく並列で捉えるこの見方があるからこそ、次冊の「斟酌の必要」も、排外ではなく対等の主張として読める。全集版の対応節はsg21

神教章 四十八修身治國 ── 歴代天皇の徳行底本 下巻 五十八頁
原文
(小林の講義による敷衍。原文には對應する漢文なし。)

訓読
(原文なし。小林一郎の講義による敷衍箇所。)

現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
体学問をするといふのは、自分の身を修めることが根本で、自分の身を修めれば人を治めることも出来る。自分の実行し得ないことは人に教へても、人はこれを守らない。それであるから己を修めるといふことが人を治むるの本となるのであります。然らばどうして己れを修め人を治むることが出来るかと言へば、世の中の一切の事に通じなければならないので、自分一人で考へて居つても、一人で考へただけで本当の道を知り尽し、究め尽すといふことの出来るものではありませぬ。それで日本は固より神のお開きになつた国でありまして、殊に天照大神は非常に智慧の勝れた、また徳の勝れた方でいらつしやるのですから、天照大神のお教へといふものは本当に人間の道を尽したものと申して宜しいのであります。それで此のお教へに基いて神武天皇が大和に都をお定めになつて、日本の国の中心をこゝにお建てになつた。それから代々勝れた天子様が続いてお出になつて、綏靖天皇といふ天子様は非常に孝心の深い方で、能く神武天皇の御精神を伝へて、国を治めることに力をお尽しになりました。また崇神天皇といふ方は一日々々の行ひを慎しんで、御祖先の神々の思召に違はないやうにといふことを常に深く心に掛けていらしつたのであります。それから垂仁天皇といふ天子様は非常に徳の高い方でありましたけれども、其の時分にいろゝ国に災難があつたのを、全く自分の徳が足らぬ為めであると思召して、少しも己れを飾るといふことなく、御先祖の神様に懺悔をなさつて、国の安らかになることをお祈りになつた。其のお蔭を以ていろゝな災難が悉く除かれたのであります。其の後に至つて景行天皇は四方に皇子の日本武尊其の他の方々をお遣はしになつて、国を盛んにする為に大いに力をお尽しになりました。其の後を受けになつた成務天皇は、「兢惕」といふのは恐れ慎むといふことで、卽ち景行天皇の御事業を受け継いで少しも過ちのないやうにといつて、常に深く自ら戒められたのであります。

解説
前段(kg46)の謹按「神武帝建洪基。綏靖帝至孝。安寧帝乾柴。垂仁帝爛而無飾。景行帝之雄謀。成務帝之競傷」を、小林が一人一人具体的なエピソードで説き直す。安寧天皇の代はりに崇神天皇の逸話(災難と懺悔)が挟まれる点、順序が原漢文と少し異なる点など、小林の語りには独自の掘り下げが見える。

神教章 四十九三韓との交通底本 下巻 五十九頁
原文
(小林の講義による敷衍。原文には對應する漢文なし。)

訓読
(原文なし。小林一郎の講義による敷衍箇所。)

現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
それで此等の御歴代の天子様のお徳が現はれて国の発展となりまして、国内の秩序といふものも立つし、人民も各々其の処を得て、多くの事業も興つて参りました。それでありますから外国から物を学ばないでも、日本の神代以来のお教へに依つて、国といふものは立派に栄えて行けるのであります。此の神代から伝はつた御精神を本にするといふことが何より大切なことで、万世の後に至るまでこの趣意を守つて参るべきであります。それでもまだ充分でないといふ思召から、外国の学問までもお取り入れになつたといふのは、全く上に於かせられて、此の国のますゝ盛んになることを理想とせられるといふ有難い思召から出たものと申さなければならぬのであります。其の後仲哀天皇の御代になつて住吉の神様が現はれて、これより西の方に寳のある国があるといふことをお示しになつた。これは即ち朝鮮のことであります。然るに此のお示しがあつたにも拘らず、仲哀天皇は御病気で崩御になつて、朝鮮を征するといふことが出来ませぬでしたから、それで神功皇后が其のお志をお継ぎになりまして、親ら三韓を御征伐になり、三韓の者はみな降参致しまして、日本の武徳が外国に輝き、これより朝鮮と日本との間に交通が開けて、いろゝな物も豊富に参りましたし、また学問も伝はり、また技藝や何かもみな伝はつた訳であります。

解説
前段(kg46)の「神功帝親征三韓」「逮仲哀帝、有住吉大神、賜軍國」を、小林が住吉の神のお告げから神功皇后の親征に至る経緯として詳しく語り直す一段。三韓との交通が開けたことが、単なる武威の誇示ではなく、日本の発展そのものを促した、と位置づけられる。

神教章 五十和漢同一揆底本 下巻 六十〜六十一頁(前半)
原文
(小林の講義による敷衍。原文には對應する漢文なし。)

訓読
(原文なし。小林一郎の講義による敷衍箇所。)

現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
それで此よりは毎年向ふから貢が参りましたので、船の桿の乾く違もなかつたといふことが伝はつて居るのであります。単に日本の国の武威が外国に輝いたといふばかりでなく、これに依つて日本の国の発展といふことを促した訳でありまして、大変に三韓との交通が開かれたといふことは結構なことでありました。斯くしてだんゞに交通が開けましたから、外国のいろゝな器も伝はりますし、それから前に申すやうに論語其の他の書物に依つて聖賢の教へといふものも伝はつたのであります。また三韓諸国の王は日本を非常に尊敬致しまして、「懇款」といふのは誠心を以て親しむといふ意味でありますが、其の誠心を以て親しむといふ心持から、学者をも日本に遣はしましたし、それから織物をしたり、染物をしたりする所の婦人達をも日本に遣はしまして、これに依つて日本の工業などが開けたのであります。又此の時まで我が国に文字といふものはなかつたのでありますが、百済から学者が参つたので文字を伝へ、これより一般に文字を用ひるといふ道が開けたといふことも日本の文化の進む上に於ては大きな力でありました。殊に応神天皇といふ天子様は非常に勝れた天子様であつて、外国の事をも充分明かにして日本をますゝ盛んにしようといふ思召で、王仁を召して謂はゆる聖賢の書を読ましめ、また菟道稚郎子はこれを師として聖賢の道を学ばれたのであります。一体外国の聖賢の道といふものを調べて見ると、向ふには三皇五帝、それから堯舜禹湯文武周公孔子といふやうな、謂はゆる聖人と言ふべき者が続いて出たのでありますが、此の聖人達の考へと、日本の昔の神々のお考へといふものは帰する所同じなのであります。此の「其の揆一なり」といふ言葉は孟子の中にあるのですが、「先聖後聖、其の揆一なり」とあります。

解説
前段(kg47)の「其の揆一なり」を、小林が『孟子』離婁下の原句「先聖後聖、其の揆一なり」を挙げて説き明かす一段。支那の聖人と日本の神々の教へとは「帰する所同じ」──この一致の確認が、次冊の「斟酌の必要」(外国の学問をどう選んで取り入れるか)へとつながる。