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中朝事實 小林一郎 講義 四十一(神治章 その十)

山鹿素行 原著 小林一郎 講述 ── 素行の勇氣、外朝の議(李斯と柳宗元)、制度と人、徳川氏還政論 原文・訓読・講義・補注の四層

この読本について

小林一郎 講義本『中朝事實』の第四十一冊。神治章の第十分冊(底本 下巻 百二十七〜百三十四頁)を収めます。前冊(その九)で「封建よりは郡縣の方が勝つて居る」という素行の結論を読み終へた後を承け、この冊はまづ小林がその結論を徳川時代といふ封建の世に公にした素行の見識を讃へる段(欄外見出し「素行の勇氣」)から始まり、続いて全集版js16に相当する新たな漢文原文(「二者可不可如此……是宗元所謂失在於政、不在於制也」)の原文・訓読を収め、その講義(欄外見出し「制度と人」を含む)を経て、「徳川氏は政權を朝廷にお還し申さなければならぬ」という大胆な一文で結びます。

この冊の読みどころ(一)。「素行の勇氣」──郡縣優位論を堂々と論じたことが、赤穂配流といふ現実の代償と重なつて読まれます。

この冊の読みどころ(二)。新たな漢文原文は、日本における封建の起り(天孫降臨・八十萬神の封建)を語る一段と、外朝(支那)の史論(李斯・柳宗元らの封建・郡縣論争)とを連続して引く、比較的長い一節です。全集版js16と対応しますが、小林本はより長く、より説明的な引用形態を取つてゐます。

この冊の読みどころ(三)。「制度と人」──郡縣制度が人民を必ずしも幸福にしなかつたのは制度ではなく政治のあり方(人)に因るという柳宗元以来の教へが、江戸時代の封建制度に重ねて語られ、最後は「徳川氏は政權を朝廷にお還し申さなければならぬ」という、大政奉還を先取りするかのやうな一文で結ばれます。

四層の構成。新たな漢文原文の前後は小林の講義による敷衍のため、「原文」「訓読」欄には対応する漢文がない旨を記し、「現代語訳」欄に小林一郎の講義そのものを現代表記に直して全文収めています。「解説」は新たに書き加えた補注です。

翻刻について。底本は小林一郎講述『中朝事實』下(皇國精神講座、影印)です。旧字・旧仮名の原本からの文字起こしで、なお誤りが残っている可能性があります。特にkj108は底本の判読が難しい箇所を含み、文脈から推定した部分があることを解説欄に明記しました。

色分けの凡例

『日本書紀』(本文・一書)本朝の古典(古語拾遺・舊事本紀・元々集ほか)漢籍(易・書・詩・論語・孟子ほか)制度・地理・故事

主要語彙集

外朝(ぐわいてう)
日本から見た支那をはじめとする外国。
弁按(べんあん)
あはせ考へること。
凶例(きようれい)
不吉な先例。悪しき前例。

登場する神・人物

小林一郎(こばやしいちろう)
一八七六〜一九四四。漢学者・国文学者。二松学舎に学ぶ。『皇國精神講座』を主宰し、『中朝事實』のほか多くの古典を講義した。この読本の講義部分の著者。
山鹿素行(やまがそこう)
一六二二〜一六八五。『中朝事實』の著者。寛文九年(一六六九)、赤穂配流中に本書を著した。
李斯(りし)
前二八〇頃〜前二〇八。秦の丞相。始皇帝に封建の廃止と郡縣制の採用を献策した。後に趙高に讒せられ腰斬に処せられた。
柳宗元(りうそうげん)
七七三〜八一九。唐の文人・思想家。「封建論」を著し、秦が滅んだのは郡縣制度そのものではなく政治のあり方に因ると論じた。
秦始皇帝(しんのしくわうてい)
前二五九〜前二一〇。秦の初代皇帝。李斯の献策により封建を廃して郡縣制を全国に敷いた。二代(胡亥)で秦は滅んだ。

神治章 九十九素行の勇氣(結び)底本 下巻 百二十七〜百二十八頁
原文
(小林の講義による敷衍。原文には對應する漢文なし。)

訓読
(原文なし。小林一郎の講義による敷衍箇所。)

現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
斯ういふことを素行が堂々として論じて居つたといふのは、實に其の人物の勝れて居つたことを證するものであります。何にしろ此の時代は徳川時代で、謂はゆる封建制度の時でありますから、封建よりは郡縣の方が勝つて居るといふことを論ずれば、卽ち其の時の制度を非難することになるので、大名も將軍も斯ういふ議論を見れば、決して喜ばないに相違ないのであります。ことの言へる譯ではないのでありますが、其の時代を一向眼中に置かないで、道理の上から斯ういふ議論を公にして居るといふことは、全く私を捨てた立派な學者の意見と考へて宜しいと思ふのであります。また斯ういふやうな態度でありましたから、其の時代に容れられないで、赤穂に流されるといふやうなことにも出會つたであらうと考へられるのであります。何れにしても此の議論は今日私共が見れば別に變つたことではありませぬけれども、此の時代に於てこれだけの議論をするといふことは、容易ならぬことと申さなければならぬのであります。

解説
素行は寛文六年(一六六六)、赤穂藩淺野家にお預けとなり、その配流中の寛文九年に本書『中朝事實』を著した。小林はここで、郡縣優位論という徳川封建體制そのものを相對化しかねない議論を素行が公にした背景に、朱子學批判に發する赤穂配流という現實の代償があつたことを重ねて讀んでゐる。この一文で「素行の勇氣」の主題がひとまづ結ばれ、以下は新たな漢文原文(js16相当)の引用へ移る。

神治章 百外朝の議 ── 李斯と柳宗元底本 下巻 百二十八〜百二十九頁
原文
二者可不可如此。而行之在天下勢。中國草昧之時。民各聚結凌轢。或恐其勇悍。或服其姦計。或懷其惠施。以屬之立其黨。自定封境。相屯既久。天孫降臨。亦不易民而治。故封建八十萬神。是不得已之勢也。其後子孫漸微。而帝得行郡縣之制。是乃天下之勢也。凡封建一行。則難爲郡縣。當時郡縣大行。王統連綿。公室不絕。可弁按。蓋考外朝之制。自上古至三王。皆以封建。郡縣者暴秦之所定。李斯之所奏也。魏曹元首。晉陸士衡。是於封建。唐李百藥。柳宗元是於郡縣。二說之可否。諸儒不一決。然以封建爲公天下。以郡縣爲私天下。且以是主定之。二世而爲凶例。今按。郡縣之如秦之暴強。不可得挫一時之侯王。所其制。雖非古法。尤得治道之要。李斯之所奏。始皇之所行。其實私天下也。故其制不明。其法不正。遂爲亂賊之基。是宗元所謂失在於政。不在於制也。

訓読
二者にしや可不可かひか此の如し。而して之をおこなふは天下てんかいきほひり。中國ちゆうごく草昧さうまいときたみおのおの聚結凌轢しゆうけつりようれきす。或るひは其の勇悍ゆうかんおそれ、或は其の姦計かんけいふくす。或は其の惠施けいしいだき、もつて之をしよくして其のたうつ。みづか封境ほうきやうさだめ、相屯あひたむろむることすでひさし。天孫降臨てんそんかうりんし、亦たみへずしてをさむ。ゆゑ八十萬神やそよろづのかみ封建ほうけんす。是れむをざるのいきほひなり。其ののち子孫しそんやうやくににして、てい郡縣ぐんけんせいおこなふをるは、是れすなは天下てんかいきほひなり。およ封建ほうけん一たびおこなへばすなは郡縣ぐんけんがたし。當時たうじ郡縣ぐんけん大行たいかうはれ、王統連綿わうとうれんめん公室こうしつえず。弁按べんあんすべし。けだ外朝ぐわいてうせいかんがふるに、上古しやうこより三王さんわういたるまで、みな封建ほうけんもつてす。郡縣ぐんけん暴秦ばうしんさだむるところ李斯りしそうするところなり。曹元首さうげんしゆしん陸士衡りくしかう封建ほうけんとし、たう李百藥りひやくやく柳宗元りうそうげん郡縣ぐんけんとす。二說にせつ可否かひ諸儒しよじゆ一決いつけつせず。しかるに封建ほうけんもつ天下てんかおほやけにすとし、郡縣ぐんけんもつ天下てんかわたくしすとす。暴主ばうしゆ之をさだめ、二世にせいにしてめつするをもつ凶例きようれいす。今按いまあんずるに。郡縣ぐんけんごときはしん暴強ばうきやうもつて、一時いちじ侯王こうわうくじくことをべからず。其のせいするところ古法こほふあらずといへども、もつと治道ちだうえうたり。李斯りしそうするところ始皇しくわうおこなところは、其のじつ天下てんかわたくしにするなり。ゆゑに其のせいあきらかならず、其のほふただしからず。つひ亂賊らんぞくもとゐす。是れ宗元そうげん所謂いはゆるしつせいり、せいらざるなり。

現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
此の二つ(郡縣・封建)のどちらが良いかといふことも、結局は天下の情勢に因つて行はれるものである。中國がまだ開けなかつた時代には、人民はそれぞれ寄り集まつて互に爭ひ合つて居た。或は其の勇猛を恐れ、或は其の奸計に從ひ、或は其の恩惠に懷いて、それぞれ徒黨を組み、自ら領地の境を定めて、長い間そのまゝ住み著いて居た。そこへ天孫が御降臨になつたので、人民をそのまゝ入れ替へずに治められた。それ故に八十萬の神々を封建されたのであり、これはやむを得ない情勢であつた。其の後子孫が次第に衰へて、帝が郡縣の制度を行ふことが出來たのも、天下の情勢に因るものである。そもそも封建が一度行はれると、之を郡縣にすることは難しい。外國(支那)の制度を考へてみると、上古から三代(夏・殷・周)に至るまで、皆封建に因つてゐた。郡縣は暴虐な秦の定めたもので、李斯の獻策に因るものである。魏の曹元首、晉の陸士衡は封建を是とし、唐の李百藥、柳宗元は郡縣を是とした。二つの說のどちらが正しいかは、儒者たちも決めかねてゐる。しかし封建は天下を公にするものとされ、郡縣は天下を私するものとされる。しかも暴君である秦の始皇帝がこれを定め、二代で滅んだことが凶例とされてゐる。今考へてみると、郡縣といふ制度は、秦の强暴な力に因つて當時の諸侯を一時的に挫くことが出來たに過ぎない。其の制度の定め方は古の法ではないとはいへ、なほ統治の要諦を得てゐた。李斯が奏上し、始皇帝が行つたことの實質は、天下を私するものであつた。それ故に其の制度は明らかでなく、其の法は正しくなく、遂に亂賊のもとになつた。これが柳宗元のいふ「失は政に在りて制に在らず」といふことである。

解説
小林本はここで、全集版js16(〈外朝の議 ── 李斯と柳宗元〉、中朝事実_6.html)に対応する部分を含む、より長い連続した一節を引く。全集版js16は「蓋考外朝之制、自上古至三王、……」から始まる比較的短い抜粋だが、小林本はその前に「二者可不可如此」以下、日本における封建の起り(天孫降臨・八十萬神の封建)を語る一段を伴つてをり、その上で外朝(支那)の史論へと接続する。また、全集版js16が「魏曹元晉陵士衡之所定」と一括りにする箇所を、小林本は「魏曹元首、晉陸士衡は封建を是とし、唐李百藥、柳宗元は郡縣を是とす」と四人の名を挙げて対比させてをり、より説明的な引用形態になつてゐる。結びの「是宗元所謂失在於政、不在於制也」は全集版と共通し、素行が採る立場(柳宗元の「失は政に在りて制に在らず」)を明示する、本章屈指の要となる一節である。

神治章 百一郡縣封建は時勢次第 ── 日本建國の初め底本 下巻 百三十頁
原文
(小林の講義による敷衍。原文には對應する漢文なし。)

訓読
(原文なし。小林一郎の講義による敷衍箇所。)

現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
此の郡縣と封建とを比べて見ると、どちらが勝つて居るかといふことは此の通り明かであります。併しながらどちらを實行するかといふことは、其の時勢に依るので、一方が宜いから直ぐにこれを實行するといふ譯にも行かない。先づ日本の昔の状態を考へて見ると、まだ國の始めに於て開けない時には、方々に人民が集まつて、さうして各々「凌轢す」──相爭うて居つたのであります。さういふ場合には其の地方の力のある者が廣い土地を領して居つたので、或はさういふ者が「勇悍」で非常に力が强いと、其の力を恐れてこれに服從する者もある。或はまた多勢の人間を服させる爲に、さまざまな策略を用ひて、自分の勢力を其の地方に扶植したやうな者もある。或はまた人民に恩惠を施して居れば、其の恩惠に懷いて自然に其の一人の人を中心として相集まるといふやうにもなつた。そこで封建の制度といふものが自然に出來た譯であります。

解説
js16に対応する漢文原文なし。「先づ日本の昔の状態」以下、既に読んだkj100の漢文原文(「中國草昧之時、民各聚結凌轢……天孫降臨、亦不易民而治」)を、講義口調で改めて敷衍しなほす段。日本の建國史(クニの成立過程)を、地方豪族の割拠から天孫降臨による「民を易へずして治む」への移行として説く。

神治章 百二天孫降臨と八十萬神の封建底本 下巻 百三十〜百三十一頁
原文
(小林の講義による敷衍。原文には對應する漢文なし。)

訓読
(原文なし。小林一郎の講義による敷衍箇所。)

現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
さうして多勢の人間がそこに集まれば、別に天子がお與へになつた譯ではなくても、自分達の黨の力を頼りにしてそれぞれの國に境を定め、さうして相對立するといふことになるのであります。斯ういふやうな状態で先づ封建のやうな形であつた所へ天孫が御降臨になつたのでありますから、如何に天孫のお力と雖も直ちにこれを改革するといふ譯にも行かない。そこで「民を易へずして治む」──今までの制度を改めないで其の儘にして置いて、地方の勢力のある者にはやはり其の土地を與へて置くといふことで、永い年月が過ぎたので、それからさういふ制度でありますから、また多勢の神々をも封建して、それぞれに土地を與へられるといふことも行はれたのであります。これはその時の時勢として、斯うしなければ國が治まらなかつたのであるから已むを得ないことであります。

解説
「民を易へずして治む」──既存の地方勢力をそのまま容認して治めるといふ方針が、八十萬神の封建の由來として説かれる。制度としての封建は、天孫降臨といふ史的條件のもとでの已むを得ない選擇であつたとする、この読本に一貫する史觀が示される。

神治章 百三郡縣制度への移行と成務天皇の統一底本 下巻 百三十一頁
原文
(小林の講義による敷衍。原文には對應する漢文なし。)

訓読
(原文なし。小林一郎の講義による敷衍箇所。)

現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
それから後に至つてさういふ地方々々を領して居つた者の子孫が、だんだんに勢力を失つたものでありますから、そこで此の郡縣の制度にだんだん變つて來て、成務天皇の時になると前に書いてあるやうに、ちやんと郡縣の制度が出來、一國の統一といふものが先づ見られるやうになつた譯であります。これは天下の勢ひの然らしめる所と申さなければならぬのであります。併し封建といふものが一度成立つと、之を郡縣にするといふことは容易に出來ない。それは神武天皇の御代から成務天皇の御代まで殆ど八百年にもなるのでありますが、此の位永い年月を經てだんだんに變つて行くのでなければ、如何に皇室のお力でも、一朝一夕には此の封建制度を變へるといふことは出來なかつたのであります。

解説
成務天皇代の國縣制(前冊その八・kj76〜77で扱つた國造・國司の淵源)に、ここで改めて言及する。神武より成務まで約八百年を要したとする年紀は、記紀の傳統的な年代觀に依るもので、史實としての年代とは別に、小林の講義がその枠組みに沿つて語られてゐることに留意されたい。

神治章 百四郡縣制度後の統一と支那の封建底本 下巻 百三十一頁
原文
(小林の講義による敷衍。原文には對應する漢文なし。)

訓読
(原文なし。小林一郎の講義による敷衍箇所。)

現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
然るに此の郡縣の制度が行はれて後は、謂はゆる中央の力で地方を統一するといふことが實際に於て行はれて來ましたから、朝廷の御威光といふものも益々輝いて、さうして永く皇室を中心として國が治まつて來たのであります。それであるから此の事情をよく考へて見ると、どちらが宜いかといふことは自ら明かになる筈であります。ところで「外朝」卽ち支那はどうであつたかと申しますと、支那はズット昔から夏殷周三代に至るまで皆封建制度でありました。書經などを見ますと、封建の制度の詳しいことが皆解るのであります。

解説
日本の郡縣制移行を「時勢の然らしめる所」として肯定した上で、話は支那の史論(js16)へと移る。夏殷周三代の封建から説き起こす構成は、全集版js16の「蓋考外朝之制、自上古至三王、皆以封建」に対応する。

神治章 百五郡縣の始まりと秦の始皇帝底本 下巻 百三十一〜百三十二頁
原文
(小林の講義による敷衍。原文には對應する漢文なし。)

訓読
(原文なし。小林一郎の講義による敷衍箇所。)

現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
そこで郡縣となつて、諸侯を廢めてしまつて中央から役人を派遣して地方を治めるといふことは、何時から始まつたかと言ふと、これは秦の始皇帝の時に定まつたものであります。それであるから支那ではどうも郡縣といふことは宜しくないといふ議論をする人が多い。制度が惡いのではないが、秦の始皇帝といふやうな謂はゆる暴君が天下を一統して、自分の思ふ儘に壓制をやつたものでありますから、それで制度が惡いのではなくて人が惡いのであるけれども、制度が惡いのだといふ風に考へる人が多くなつて來た譯です。

解説
js16の「郡縣者暴秦之所定、李斯之所奏也」に対応する箇所。制度と人(統治者)の混同という、この読本を通じて繰り返される論點が、秦の始皇帝を例に具體的に説かれる。

神治章 百六李斯の獻策と學者たちの評價底本 下巻 百三十二頁
原文
(小林の講義による敷衍。原文には對應する漢文なし。)

訓読
(原文なし。小林一郎の講義による敷衍箇所。)

現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
また此の郡縣の制度をどうして決めたかと言へば、李斯といふ宰相の申出に依つて決めた。此の李斯といふのも私を圖つて、遂に滅亡してしまつたやうな人であります。兎に角人が當初は皆宜しくなかつた。それで郡縣の制度が惡いといふやうに考へる人が多いのであります。それでいろいろな學者の中で、或る者は封建が宜いと言ひ、或る者は郡縣が宜いと言つて、意見が二つに分れて居るので、其のどちらが宜いかといふことは、それから後に學者も多勢出たけれども、誰の意見でもハツキリは決まらなかつた。ところで封建の方が宜しい、郡縣といふものはどうも弊害が多い、郡縣は天下を私する因になるといふ議論は何が本であるかと言へば、「暴主」卽ち秦の始皇帝のやうな、何でも自分を中心とするといふやうな者がこれを決めたものであるから、それでどうも郡縣の制度は宜しくないといふ說が兎に角勢力を得るのであります。

解説
js16の「魏曹元晉陵士衡之所定、可否二說、一決不擧」に対応する箇所。郡縣・封建いづれを是とするかで儒者の意見が分れたまま今日に至ることを説く。李斯自身が後に非業の最期(趙高に讒せられ腰斬)を遂げたことを踏まへ、郡縣の制を立てた人物が私利を圖つた人だつたから郡縣が惡いとされる、といふ因果の混同を小林は指摘する。

神治章 百七秦の始皇帝といふ暴君と郡縣惡玉論底本 下巻 百三十二頁
原文
(小林の講義による敷衍。原文には對應する漢文なし。)

訓読
(原文なし。小林一郎の講義による敷衍箇所。)

現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
此の秦の始皇帝は餘り亂暴な政治を行つたものであるから、二代で滅びてしまつた。これはどうも後世の手本とはならぬといふことを多くの學者が言ふのであります。それで郡縣制だと天下を私する、卽ち天子が自分の勝手に何でもやれる。郡縣であると、地方の役人でも何でも天子の考へで幾らでも更迭が出來るから、天子が萬事勝手にやつて、人民の幸福といふものは殆ど顧みられない。これはどうも惡い制度だといふやうな說が、後になりますと大いに勢力を得たのであります。併し公平に考へて見ると、あの秦の時に永い間支那全體が分れ〳〵になつて、謂はゆる群雄割據の有樣であつた。それを秦が統一したのであるから、郡縣の制度といふやうなやり方をしなければ、今まで諸侯の勢力のあつたのをスツカリ根本から變革するといふことが出來なかつたのであります。

解説
js16の「暴主定之」「二世而爲凶例」に対応する箇所。二代で滅んだ秦の失敗を「郡縣制度そのものの失敗」と早合點する後世の學者の風潮を紹介しつつ、次段(kj108)でその誤りが正面から論じ返される、議論の轉換點となる段。

神治章 百八郡縣の理念と現實 ── 李斯と始皇帝の私心底本 下巻 百三十二〜百三十三頁
原文
(小林の講義による敷衍。原文には對應する漢文なし。)

訓読
(原文なし。小林一郎の講義による敷衍箇所。)

現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
それだから其の力に依つて斯ういふことをやつたのであつて、其の時に始皇帝が斯ういふ事をしたからと言つて、制度其のものが根本から惡いといふ見方をするのは、これは大きな間違ひとならねばならない。それは成るほど郡縣といふ制度は昔のやり方とは違ふ。謂はゆる夏殷周三代の間は封建であつたのでありますから、それとはマルで違ふ。併しながら之を治めるといふ要領を得たものと申さなければならぬ。ただ之を思ひ立つた李斯といふ人を採用して始皇帝が之を實行したのである。郡縣制度其のものは宜しいのであるが、實際は天下を私する爲に使はれることになつて、天子でも宰相でも皆自分の利益のみを圖り、自分の勢力を維持することにばかり意を用ひることになつて、天子でも皆自己的な人ばかりであれば、幾ら制度が宜くても、其の制度は正しく行はれない。如何に法律が出來上つても、其の法律といふものは天子なり、或は政治を執る者なりの私を營む爲に使はれるといふことになつてしまひまして、一つも正しいことが行はれないやうになるのでありますから、それで遂に天下が亂れたといふことも已むを得ないのであります。

解説
js16の「然以封建爲公於天下、而私之、以郡縣爲私天下」「李斯之法爲凶例、遂爲亂賊之基」を承けた、小林による敷衍。底本のこの箇所は頁の綴ぢ目に近く判讀しづらい語が数箇所あり、「郡縣制度其のものは宜しいのであるが、實際は天下を私する爲に使はれることになつて」および「意を用ひることになつて、天子でも皆自己的な人ばかりであれば」の一節は、前後の文脈から意を汲んで補つた推定を含む。郡縣制度そのものは理にかなつてゐても、それを運用する者(李斯・始皇帝)に私心があれば正しく機能しないという、この章の中心命題が最も端的に語られる箇所である。

神治章 百九制度と人 ── 柳宗元の教へと江戸時代の封建底本 下巻 百三十三頁
原文
(小林の講義による敷衍。原文には對應する漢文なし。)

訓読
(原文なし。小林一郎の講義による敷衍箇所。)

現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
それであるから、形に現れた所で言ふと、郡縣になつてからは決して人民が幸福ではなかつた。併しよく考へて見れば、柳宗元が言つたやうに、これは政治の執り方が惡かつたので、制度が惡かつたのではない。上に明君が在つて賢人がこれを輔けるといふことであれば、郡縣の制度の方が洵に理に合つて居る、また人民の幸福にもなるといふことは疑ひのないことである。此の「封建一たび行へば郡縣と爲し難し」といふやうなことは、今日私共が見ては何でもない言葉であり、封建制度の榮えて居た江戸時代に於て、斯ういふことを率直に大膽に言ふといふのは、實に驚くべきことと申さなければならぬのであります。

解説
欄外見出し「制度と人」。js16の結び「是宗元所謂失在於政、不在於制也」を承け、小林の講義がその含意を最も明確に言語化する段。制度そのものに優劣はなく、運用する人(政治のあり方)にこそ失の原因があるという、本章(kj90・js15・js16)を貫く主張が、ここで「制度と人」という見出しのもと總括される。そして「封建一たび行へば郡縣と爲し難し」──封建が一度定着した社會でこれを郡縣に變へることは難しい、といふ命題を、素行自身が生きた江戸時代(封建制度の全盛期)に當てはめ、次段の結論(徳川氏還政論)へと接続する。

神治章 百十その十の結び ── 徳川氏、政權を還すべし底本 下巻 百三十四頁
原文
(小林の講義による敷衍。原文には對應する漢文なし。)

訓読
(原文なし。小林一郎の講義による敷衍箇所。)

現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
さうして柳宗元の言葉などを引いて、制度は郡縣の方が宜いのだといふのでありますから、これを推し進めて言へば、兎に角封建制度は國を盛んにする本ではない、また封建制度では君主の御威勢といふものは盛んにならないといふことになるので、詰り徳川氏は政權を朝廷にお還し申さなければならぬ。日本の國體としてはそれが本當だといふことになるのでありますから、これほどのことを思ひ切つて斷言するといふことは、一身の利害を全く忘れてゞなければ出來ない事と思はれるのであります。

解説
【最重要】その十の結び。素行の郡縣優位論を推し進めれば、封建制度下にある徳川氏は政權を朝廷に還すべきだ、という結論に至る──小林はここで、素行の議論が二百年後の大政奉還・王政復古の論理をすでに内包してゐたと讀む。山鹿流兵學は幕末の吉田松陰らに繼承されており、素行みづからが赤穂配流という代償を拂つてまで郡縣優位論を堂々と説いたことの意義(本冊冒頭「素行の勇氣」の主題)が、ここで尊皇思想の系譜に接続される形で結ばれる。次冊その十一は新たな漢文原文(保食神──天照大神と月夜見尊、五穀と養蠶の起りを語る神話。全集版js17に相当)から始まる見込みである。