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中朝事實 小林一郎 講義 七(中國章 その六)

山鹿素行 原著 小林一郎 講述 ── 遷都と明德 原文・訓読・講義・補注の四層

この読本について

小林一郎 講義本『中朝事實』の第七冊。中國章の続き(底本 上巻 二三九〜二四四頁)を収めます。

その五で神武天皇の橿原の帝都まで来ました。この冊はその続き――元明天皇の平城遷都、桓武天皇の平安遷都を扱います。

この冊の読みどころ。素行が遷都をどう見ているかが要点です。都が移ることを、皇統の連続を説くこの書はどう位置づけるのか。素行の答えは「形は異うけれども御精神に於ては同じ」――場所が変わっても、拠って立つ心は変わらない、というものです。

附録「或疑」二十節の「禮に一定の則ありて、一定の事なし」――変わらない原理と変わってよい形――が、遷都という具体的な事柄で語られていることになります。

あわせて「惟れ卜以て食ひ、惟れ民以て與にす」――占いが吉と出て、民も心を合わせた――という一句が引かれます。小林はこれを「天の護りもあり、人の和も得られた」と説きます。天意と民意の両方を要件とする、素行らしい二本立ての論法です。

後半では「遷都する君は振るわない」という中国の通説(周の平王の東遷が典拠)に、素行が正面から反論します。外敵に追われて遷るのと、人が増えて土地が足りなくなって遷るのとは違う――同じ現象でも原因が違えば意味も違う、という論法です。

そして「中」の最終的な定義が示されます。「中と言っても、ただ地形の上から真ん中という意味ではなくて、精秀の気――最も其の性質の上に於て優秀な所でなければならぬ」。位置ではなく質。この読み替えが、中國章全体の主張を支えています。

読むときの注意。末尾に「やがては他の國々をも指導して行くという理想が、既に此の『中』という言葉の中に現われて居る」という一句が出てきます。素行の按語は名の由緒を述べるにとどまり、これは講義者の敷衍です。この読本で繰り返し確認してきた転回で、そのつど補注にことわりを入れました。

四層の構成。「原文」は小林本の漢文、「訓読」はその読み下しに総ルビを補ったもの、「現代語訳」の欄には小林一郎の講義そのものを現代表記に直して全文収めています。「解説」は新たに書き加えた補注です。

翻刻について。底本は小林一郎講述『中朝事實』上(皇國精神講座)の影印です。旧字・旧仮名の原本からの文字起こしで、なお誤りが残っている可能性があります。

色分けの凡例

『日本書紀』(本文・一書)本朝の古典(古語拾遺・舊事本紀・元々集ほか)漢籍(易・書・詩・論語・孟子ほか)制度・地理・故事

主要語彙集

平城(へいぜい)
奈良の都。和銅三年(七一〇)元明天皇が藤原京から遷す。以後七代の天皇の都となる。
平安城(へいあんじょう)
京都の都。延暦十三年(七九四)桓武天皇が長岡京から遷す。素行は「山州平安城」と記す。
土中(どちゅう)
国土の中央。「土の中に服く」=国の中心の地に都を置くこと。
惟卜以食(これぼくもってくらう)
占いが吉と出ること。「食」は亀卜の兆が現れることをいう。『書經』洛誥の「我れ卜して食に休あり」による。
明德(めいとく)
『大學』冒頭「大學の道は明德を明らかにするに在り」。曇りのない本来の徳。
青丹よし(あおによし)
「奈良」にかかる枕詞。小野老の歌「あをによし寧樂の京師は咲く花のにほふがごとく今盛りなり」(万葉集巻三)。

登場する神・人物

小林一郎(こばやしいちろう)
一八七六〜一九四四。漢学者・国文学者。二松学舎に学ぶ。『皇國精神講座』を主宰し、『中朝事實』のほか多くの古典を講義した。この読本の講義部分の著者。
山鹿素行(やまがそこう)
一六二二〜一六八五。『中朝事實』の著者。寛文九年(一六六九)、赤穂配流中に本書を著した。
元明天皇(げんめいてんのう)
第四十三代天皇。和銅三年(七一〇)、都を平城京に遷す。
桓武天皇(かんむてんのう)
第五十代天皇。延暦十三年(七九四)、都を平安京に遷す。

中國章 十(承)代代遷都あり ── 民を大御寶と思召す底本 二三五〜二三九頁
原文
此後國勢富庶。人物日盛。而代代有遷都。至元明帝。遷都於平城。以揚七代之聖風。

訓読
のち國勢こくせい富庶ふしよ人物じんぶつさかんにして、しかして代代よよ遷都せんとあり。元明帝げんめいていいたりて、みやこ平城へいぜいうつし、もつ七代しちだい聖風せいふうぐ。

現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
それでこれより以後、万々世に至るまで神武天皇の御子孫が代々天皇の御位にお即きになりまして、此の國を御統治になって参ったのであります。
それで天皇は何れも徳の高い方々であり、また人民を大御宝というように思召されて、みなの幸福をお図りなさるという此の思召が國内に徹底致しましたから、國はますます富み、人物も続々と出て参りまして、其の多勢の人の努力に依って、発展の勢いというものはますます著しくなって参ったのであります。

解説
第十段の続き。神武天皇の橿原から、歴代の遷都へと話が移る。
ここで前段の「おほみたから」がそのまま受け継がれていることに注意したい。国が富み人物が出るのは、民を宝と思う心が行き渡ったからだ、というのが小林の説明である。
制度や地形ではなく上の者の心持ちを発展の原因に置く――聖政章十八節の「修身+制度」、天先章第二段の「上の誠心が下を感化する」と同じ考え方である(『中朝事實』八・聖政章 十八節)。

中國章 十(承)奈良の都 ── 青丹よし寧樂の京師は底本 二三九頁
原文
至元明帝。遷都於平城。以揚七代之聖風。

訓読
元明帝げんめいていいたりて、みやこ平城へいぜいうつし、もつ七代しちだい聖風せいふうぐ。

現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
其の後も、同じ都の中に於て天皇の御代が変る毎に都をお遷しになりましたが、元明帝の時に至って到頭都を奈良にお遷しになって、謂わゆる奈良朝というものがこれから続いて、此の奈良の時代というものは非常に御盛んでありました。
奈良には御一代ではなく、光仁天皇まで七代も天皇が続いて在らしったものでありますから、大和にある所の都の中に於て、此の奈良ほど盛んな所はないという位でありました。
 青丹よし寧樂の都は咲く花の 匂うが如く今盛りなり
というような歌もありまして、当時の盛んであった有様は、此の一首の歌に依ってもよく解るのであります。

解説
平城京(和銅三年=七一〇、元明天皇)。素行の「七代の聖風を揚ぐ」を受けて、小林は元明から光仁まで七代と数える。
ここで小野老の歌(『万葉集』巻三)が引かれるのが、この講義らしい。
「あをによし寧樂の京師は咲く花のにほふがごとく今盛りなり」――理屈ではなく、当時の人の実感を一首で示す。
『中朝事實』本編で素行は和歌をほとんど引かないが(禮儀章 下六十九節「三百篇の詩は中國の謠歌なり」で和歌論を展開する程度)、小林は講義の中で自在に補っている。

中國章 十(承)平安の都 ── 交通に不便である、もう少し便利な所に底本 二三九〜二四〇頁
原文
終桓武帝。欲篤先聖之威烈。安億民之所止。故大命庶官。以服于土中。遷都於山州平安城。

訓読
つひ桓武帝くわんむてい先聖せんせい威烈ゐれつあつくし、億民おくみんとどまるところやすんぜんとほつす。ゆゑおほい庶官しよくわんめいじ、もつつちなかき、みやこ山州さんしう平安城へいあんじやううつす。

現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
斯様に國は栄えて参りましたが、桓武天皇は、また此の國を一層盛んにしなければならぬということを思召され、それには國の都が此の大和というような山に囲まれた所であっては交通に不便である、もう少し便利な所に都を遷さなければならぬという思召で、此の都を京都にお遷しになりました。
これは決して桓武天皇が御自分で御先祖の御精神と異ったことをなさろうというのではない。此の國を何処までも盛んにするということが、神武天皇以来御歴代の天皇の御精神であるのであるから、此の御精神に基いて、更に此の國を盛んにすべく計画をお立てになったのであります。
それで國が盛んになれば人民もみな幸福になるのでありますから、御先祖以来のお心持に基き、また人民の一層満足するようにしたいというお心持から、都をお遷しになったのであります。

解説
平安京(延暦十三年=七九四、桓武天皇)。
注目すべきは遷都の理由である。小林は「交通に不便である、もう少し便利な所に」という、きわめて実際的な説明をする。神意でも吉凶でもなく、利便性である。
そのうえで「決して御先祖の御精神と異ったことをなさろうというのではない」と急いで断る。変えることと、変わらないこととをどう両立させるか――この書が繰り返し取り組んできた問題が、ここでも顔を出す。
答えは次段の「形は異うけれども御精神に於ては同じ」である。

中國章 十(承)惟れ卜以て食ひ、惟れ民以て與にす ── 天の護りと人の和と底本 二四〇頁
原文
惟卜以食。惟民以與。敬天之休。致人之順。

訓読
ぼくもつくらひ、たみもつともにす。てんきううやまひ、ひとじゆんいたす。

現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
即ち天の徳を敬い、また人の心持もよくお測りになって、天地の自然の道に基き、人民の幸福を念とされたことでありますから、此の都を山城に遷されて、謂わゆる平安の都というものを建てられたということは、洵に多くの人民の満足する所であったのであります。
そこで土地も、本当に日本の中央というのに背かない土地であるし、また其の時占いをして見た所が、占いにも吉が出ました。また都を山城に奠めるということに就いては人民も満足致して、みな心を協せて努力致しました。
謂わゆる天の護りもあり、人の和も得られたのでありまして、此の大和の都が山城に遷って以後、ますます國の勢いというものは隆盛に趨いたのであります。

解説
「惟れ卜以て食ひ、惟れ民以て與にす」――『書經』洛誥に見える言い回しで、周公が洛邑を営むときの故事を踏まえる。占いが吉と出て、民も心を合わせた。
小林の言い換えが要点を突いている。「天の護りもあり、人の和も得られた」
これは素行に一貫した二本立ての論法である。天意だけでも民意だけでも足りない。両方が揃って初めて事が成る。祭祀章四節「禮+誠」、聖政章十八節「修身+制度」と同じ形である。
遷都という大事業を、天と人の合意として説明する――天先章第六段の「天地に參す」(人が天地の化育を助ける)と同じ枠組みでもある。

中國章 十(結)形は異ふけれども御精神に於ては同じ底本 二四〇頁
原文
詔達視新都之地。振明德於萬億世。是乃神武帝墺區之實也。

訓読
みことのりして新都しんと達視たつしせしめ、明德めいとく萬億世ばんおくせいふるふ。すなは神武帝じんむてい墺區あうくじつなり。

現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
そこで斯ういう御趣意であるから、多勢の臣下に命じて國の中央である所の平安の地に都を奠められて、そうしてズット後の後までも國の栄えて行くべき所の土台をお建てになりました、其のお徳というものは実に勝れたものと申さなければならぬのであります。
即ち神武天皇が國の中央であると仰せられて橿原に都されたのも、桓武天皇が更に都を平安にお遷しになったのも、形は異うけれども御精神に於ては同じなのであります。即ち其の御精神を全うする為め、また更に遠く遡って申しますれば、天照大神が此の國に皇孫をお遣わしになったという其の御趣意から、斯ういうことを御断行になったのであります。

解説
この冊の要となる一句。「形は異うけれども御精神に於ては同じ」――橿原と平安京、場所は違うが心は同じ。
これは附録「或疑」二十節「禮に一定の則ありて、一定の事なし」そのものである(『中朝事實』十五・或疑 二十節)。変わらない原理(則)と、変わってよい形(事)。遷都という具体的な事柄で、この原則が語られている。
その五の ck81「萬世之に因りて以て損益す」とも一続きで、受け継ぎながら変えるという制度観がここでも働いている。
皇統の連続を説く書が、都の移動をどう扱うか――その答えがこの一句である。連続とは同じ場所に留まることではなく、同じ心を継ぐことだ、と。

中國章 十一遷都の君は皆復た振はず ── 中州の遷都豈夫れ然らんや底本 二四一〜二四二頁
原文
古人云。遷都之君。皆不復振。中州之遷都。豈夫然乎。非違夷狄之害。非畏盜劫之難。唯富庶世充。土壤不給。故遷都日振。國勢彌張矣。
夫京師爲四方之極。猶紫宮爲四方之極也。其當選都邑。非其中乃不得其實。所謂中者精秀之氣。天地以位。四時不違。陰陽惟中。寒暑不過。人民以止。萬物以聚。禮義惟立。武德以行。然後可稱墺區。可謂土中。

訓読
古人こじんふ、遷都せんときみみなふるはずと。中州ちうしう遷都せんとしからんや。夷狄いてきがいくるにあらず、盜劫たうがふなんおそるゝにあらず。富庶ふしよち、土壤どじやうらず。ゆゑ遷都せんとふるひ、國勢こくせいいよいよる。
京師けいし四方しはうきよくたり。紫宮しきゆう四方しはうきよくたるがごときなり。都邑といふえらぶにあたつては、ちゆうあらざればすなはじつず。所謂いはゆるちゆう精秀せいしう天地てんちもつくらゐし、四時しいじたがはず、陰陽いんやうちゆうし、寒暑かんしよぎず、人民じんみんもつとどまり、萬物ばんぶつもつあつまる。禮義れいぎち、武德ぶとくもつおこなはれ、しかのち墺區あうくしようすべく、つちなかふべし。

現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
國の都がしばしば遷ったということは、我が國では発展を意味するのでありますけれども、併し支那の学者の中には、支那の都の遷ったのは大概他國から迫害を受けた場合であるから、それに基いて都を遷した君主という者は詰り徳が足りないで、其の元の都を守ることの出来なかった者である、其の都を遷した後には國の勢いが振わないのが常であると、斯ういうことを言って居る。これは周の平王が都を遷した事などを本にして言ったのであります。

解説
第十一段。「遷都する君は振るわない」という中国の通説に、素行が正面から反論する段である。
この通説の典拠は周の平王の東遷(前七七〇年)。犬戎に攻められて鎬京を捨て、洛邑に遷った。以後、周王室は衰え、春秋時代が始まる。遷都=衰退の始まりという見方は、この一例が強く効いている。
素行の反論は遷都の理由を区別することである。外敵に追われて遷るのと、人が増えて土地が足りなくなって遷るのとは違う。
その二の ck22「一地方の名が國全體の名となる…是れは何処の國でも同じこと」と同じで、同じ現象でも原因が違えば意味も違うという、素行のよく使う論法である。

中國章 十一(承)遷都の意義 ── 我が國では發展を意味する底本 二四二頁
原文
非違夷狄之害。非畏盜劫之難。唯富庶世充。土壤不給。故遷都日振。國勢彌張矣。

訓読
夷狄いてきがいくるにあらず、盜劫たうがふなんおそるゝにあらず。富庶ふしよち、土壤どじやうらず。ゆゑ遷都せんとふるひ、國勢こくせいいよいよる。

現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
併しながら、それは支那のことで、我が國で都を遷したということは支那とは全く違うので、決して外國の迫害を受けて都を遷された訳でもないのであるから、これを同等に視ることは出来ない。
即ち夷狄の害を避けて外國の侵略を畏れる為めという訳でもなければ、或は「盗劫の難」――即ち國に叛逆を起す者が出て、其の為めに都を維持するのが困難になったという訳でもない。
ただ次第々々に人民の数も多くなり、また事業も興って、モウ其の土地が元のままでは足りなくなったから、そこで更に広い土地を選んで都を遷されたということであります。

解説
「唯だ富庶世よ充ち、土壤給らず」――人が増え、豊かになって、土地が足りなくなった。だから遷った。
この説明は、遷都を衰退の兆しではなく成長の結果として読み替えるものである。素行の議論としては明快で、平城京・平安京の造営が人口と経済の拡大期に行われたことは、おおむね事実に即している。
読むときの注意。ただし日本の遷都の理由も一様ではない。桓武天皇の長岡・平安遷都には、寺院勢力からの脱却や、藤原種継暗殺・早良親王の怨霊という政治的・宗教的な事情も絡む。「唯だ」と一因に絞るのは、素行の側の整理である。
また前段の中国の遷都も、すべてが外敵によるわけではない(北魏の洛陽遷都は漢化政策による)。比較の両側が単純化されている点は、その四 ck61 と同じ構造である。

中國章 十一(承)都は四方の極 ── 紫宮の四方の極たるがごとし底本 二四三頁
原文
夫京師爲四方之極。猶紫宮爲四方之極也。

訓読
京師けいし四方しはうきよくたり。紫宮しきゆう四方しはうきよくたるがごときなり。

現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
これは京都に都を遷された時ばかりを言うのではなくして、神武天皇以来、大和の國中に於て屢々都を遷されたことがあるのでありますが、何れも皆今のような事情でありまして、以前の都では狭くなったから都を遷されたということであります。
殊に奈良にお遷りになった時などは、非常に國が盛んでありましたから、そこで更めて奈良という、大和の中では比較的土地も広く交通も便利な所を選ばれたのであります。ところが此の奈良でもまだ土地が足りなくなったから、桓武天皇の時に至って京都にお遷りになったのでありますから、支那の遷都とは其の事情がチョウド反対になって居るのであります。それ故に、遷都以後に於ては國が益々振うて、発展の勢いがいよいよ何事にも現われるようになった訳であります。
一体都というものは「四方の極」で、即ち四方の國々の者が其処に集まって来るのであり、また都の制度というものが各地方の模範となるというような訳でありますから、都が盛んになるということは、即ち國が盛んになることを表わすのであります。

解説
「京師は四方の極」――都は四方が集まる極点である。
素行はこれを紫宮(天の北極付近の星座、天帝の居所とされる)になぞらえる。その五の ck77・ck81 で引かれた「北辰其の所に居りて衆星之に共ふ」と同じ発想である。
小林の説明は二方向で捉えている。四方から人が集まってくる/都の制度が各地の模範となる。集まる中心であり、広がる中心でもある。その五の ck79「一より十に及び、十より一に歸す」と同じ、循環の捉え方である。

中國章 十一(承)中とは地形の眞ん中ではない ── 精秀の氣底本 二四三頁
原文
其當選都邑。非其中乃不得其實。所謂中者精秀之氣。

訓読
都邑といふえらぶにあたつては、ちゆうあらざればすなはじつず。所謂いはゆるちゆう精秀せいしうなり。

現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
チョウド空の星の在る場所を「宮」と申すのですが、其の中で「紫宮」というのは、謂わゆる太白星という一番大きな星の在る場所で、此処が天の中央というように考えられて、他の星は此の太白星を中心として動いて行くのだというように言われるのでありますが、都がチョウドそれに当るのであります。
それであるから、都を選ぶに当っては、どうしても四方の地方の手本となるべき場所――ただ地形の上に於て其処が中央であるというだけでなく、四方を導く所の中心の地というものを選ばなければならない。それであるから、都を遷すということは軽々しくは出来ない。よく心を用いて選んで、本当に都たる所の実を具えた所を選ぶべきであります。
それであるから「中」と言っても、ただ地形の上から真ん中という意味ではなくて、即ち其処は「精秀の気」――最も其の性質の上に於て優秀な所でなければならぬ。

解説
「中」とは地形の真ん中ではない――この章の中心語がここで最終的に定義し直される。
その一の ck11「國中は中國なり」、その二の ck26「中には四つの中あり」、その三 ck29「四方を安らかにする根本の國」と、繰り返し語られてきた「中」が、ここで「精秀の氣」=性質の優秀さに落ち着く。
位置ではなく。この読み替えが、中國章全体の主張を支えている。
「都を遷すということは軽々しくは出来ない」――中であるかどうかは、測って決まるものではなく、見きわめて選ぶものだ、ということでもある。

中國章 十一(承)土の中 ── 禮義惟れ立ち、武德以て行はる底本 二四三〜二四四頁
原文
天地以位。四時不違。陰陽惟中。寒暑不過。人民以止。萬物以聚。禮義惟立。武德以行。然後可稱墺區。可謂土中。

訓読
天地てんちもつくらゐし、四時しいじたがはず、陰陽いんやうちゆうし、寒暑かんしよぎず、人民じんみんもつとどまり、萬物ばんぶつもつあつまる。禮義れいぎち、武德ぶとくもつおこなはれ、しかのち墺區あうくしようすべく、つちなかふべし。

現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
其処に都を建てて政治を行えば、天地も其の地位に安んじ、春夏秋冬の四季も違わず、陰陽の調和もよく行われて暑さ寒さも狂わぬというようなことも考えられる。
また其の都が中心となって全國がよく治まれば、人民も其の処に安んじて行けるし、万物も聚まって、謂わゆる殖産興業というようなことも盛んになり、随って上下の間の禮儀も立ち、また其の都を中心として國を発展せしむる時に於て、若し妨げとなるものがあれば、武力を以てこれを懲すということも出来るので、即ち武徳というものも立つ。
斯ういうような凡ての条件が具わってこそ、國の中央ということが出来るので、昔から言う「土の中」というのは此の意味であります。
それであるから、都を遷すということは詰り國の発展を目的とするものであるということを考えなければならぬので、其の都を遷されるということは、即ち國が愈々発展する時期に向ったものであると解釈しなければならぬのであります。

解説
「土の中」の条件が八つ並ぶ。天地が位し、四時が違わず、陰陽が中し、寒暑が過ぎず、人民が止まり、万物が聚まり、禮義が立ち、武徳が行われる。
並べ方に注意したい。前半四つは自然、後半四つは人事である。気候風土が整うことと、人が集まり秩序ができることとを、同じ条件として数える。
そして最後が「禮義惟れ立ち、武德以て行はる」――その一の ck05「恩威並び行はる」(天瓊戈=文武併せ具う)が、ここでもう一度、都の条件として現れる。徳だけでも力だけでも足りないという二本立ての論法が、この章を最初から最後まで貫いている。

中國章 十一(承)「中」といふ言葉に旣に理想が現はれて居る底本 二四四頁
原文
本朝者。始有中柱中國之號。況神武帝制中州。都墺區。共皆得其精秀。

訓読
本朝ほんてうはじ中柱なかばしら中國ちゆうごくがうあり。いはんや神武帝じんむてい中州ちうしうせいし、墺區あうくみやこし、ともみな精秀せいしうたり。

現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
吾が日本ではズット昔から、伊弉諾・伊弉册尊が國の真ん中の柱を旋られたというようなこともあるし、また中ツ國を治められたということも言われて居る。即ち此の日本が中心となって、やがては他の國々をも指導して行くという理想が、既に此の「中」という言葉の中に現われて居るのであります。
また神武天皇が大和を御平定になって、其の中央である所の橿原に都をお奠めになったという場合にも、やはり此の橿原という所が地形上中央であるというのみでなくて、最も勝れた所である。山や川の景色を見ても、また其処に住んで居る人々の様子を見ても、洵に國の中央として此処に都を建てたならば、國中を平定するのに最も宜しきを得た所であるというお考えで、其処を都とされたのであります。

解説
中國章の主題が、ここでもう一度まとめられる。磤馭盧島の「國中の柱」→「葦原中國」→神武天皇の「墺區」――「中」の一語が神代から人皇の世まで貫いている、と。
読むときの注意。「やがては他の國々をも指導して行くという理想が、既に此の『中』という言葉の中に現われて居る」は、素行の原文にない小林の敷衍である。素行の按語は「本朝は始め中柱、中國の號あり」と、名の由緒を述べるにとどまる。
その一の ck15、その二の ck29・ck34、その四の ck68 と同じ転回で、由緒の話が使命の話に置き換わる。この講義に一貫した癖として、繰り返し確認しておきたい。
後半の橿原についての説明――地形だけでなく景色も人も見て選んだ――は、その五 ck87「時機をも考え、各地の様子も充分調べて」と同じ、実際的な統治観である。