中國章 十三正殿の建造 ── 底都磐根に宮柱太しり立て底本 二五〇〜二五四頁
原文
神武帝辛酉。於畝傍之橿原也。太立宮柱於底磐之根。峻峙搏風於高天之原。
訓読
神武帝辛酉、畝傍の橿原に於いてなり。底磐の根に宮柱を太しく立て、高天の原に搏風峻峙たまふ。
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
神武天皇が大和の橿原に御殿をお建てになったということは、日本の國の都が既に定まったものでありまして、それは辛酉の年、即ち八年掛かって大和をスッカリ御平定になった其の年のことであります。
此の時に畝傍の橿原に御殿をお建てになったのでありますが、其の柱を底都磐根に建てられたというのは、詰り土台をシッカリお定めになって、其のシッカリした土台の上にお建てになったことであります。
「太しき立てる」というのは、大きな立派な柱をお建てになったということでありますが、これはただ柱だけのことを申すのではなく、即ち御殿其の物が立派な御殿で、洵に一國の君主たる方のお住まいになるのに似合わしき建物であるということであります。また此の御殿が動かないということを形に表わすもので、天皇の御徳が盛んでいらっしゃって、天皇の御位は萬世にまで伝わるということを形に表わすものと考えられるのであります。
それから「搏風」というのは屋根の上にある所の木の飾りでありますが、此の搏風が「高天の原」即ち大空まで聳えて居るということは、やはり天皇の御徳が高くいらせられて、國が永く栄えて行くということを形に表わすものと思われるのであります。
即ち人民が喜んで力を協せて斯ういう建物を建てて、そうして天皇が其処にお住まいになるということは、皆皇室の御徳に懐きまして、皇室の永くお栄えになることを心から祈って居る、心から満足して居るという意義を表わすものと見なければならぬのであります。
解説
第十三段。都から建物へ、そして具体的な造営へ。その七(ck101・ck102)で神代の「八尋の殿」「天の柱」を扱ったのを受け、ここでは人皇の世の最初の宮殿――神武天皇の橿原宮――に話が下りてくる。
典拠は『日本書紀』神武紀元年の「宮柱底磐之根に太立て、搏風高天原に峻峙りて」。この句は出雲大社の縁起など、古代の造営記事にくり返し現れる定型句である。
読むときの注意。神武天皇の即位を辛酉年(西暦紀元前六六〇年にあたる)とするのは、『日本書紀』編纂時に讖緯説の辛酉革命の考えから逆算して置かれた年代と考えられている。橿原宮そのものも考古学的に確認されたものではない。
小林の「人民が喜んで力を協せて」という読みも、原文にはない補いである。
中國章 十三(承)一書に曰く ── 天富命と手置帆負・彦狹知の孫底本 二五四〜二五五頁
原文
一書曰。神武帝建都橿原。經營帝宅。仍命天富命。──太玉命之孫。──率手置帆負彦狹知二神之孫。以齊斧齊鉏。始採山材。構立正殿。所謂底都磐根宮柱──布都之利──立高天乃原爾搏風高──之利──排皇孫命乃美豆乃御殿乎造奉仕也。故其裔今在紀伊國名草郡御木龕香二鄉。──古語正殿謂之龕香。採材齊部所居謂之御木。造殿齊部所居謂之龕香。──
訓読
一書に曰く、神武帝都を橿原に建てて、帝宅を經營す。仍つて天富命に命じて――太玉命の孫――手置帆負、彦狹知二神の孫を率て、齊斧齊鉏を以て始めて山材を採り、正殿を構り立つ。所謂底都磐根宮柱――布都之利――立て、高天乃原に搏風高――之利――皇孫命の美豆乃御殿を造り仕へ奉るなり。故に其の裔今紀伊國名草郡御木龕香の二鄉に在り。――古語正殿、之を龕香と謂ふ。材を採る齊部の居る所、之を御木と謂ひ、殿を造る齊部の居る所、之を龕香と謂ふ。――
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
そこでまた或る一書に申してあるのには、神武天皇が都を大和の橿原にお建てになって、「帝宅」即ち天子のお住まいを御経営になった。
其の時に天富命という人があって、此の人は太玉命という人の孫に当るのでありますが、此の天富命に天皇の仰せがあって、手置帆負、彦狹知という二人の神様の孫に当る人々が、土地を経営するとか、家を建てるとかいうことに長じて居ったものでありますから、此の人々を一緒に協力させて、そうして斧と鉏とを持って、山に行って木材を採って来て、正殿を造らせられた。
即ち「正殿」というのは天皇が政治をお聴きになる場所であります。これを昔の言葉で「みあらか」と申すので、此の「みあらか」を建てられたのであります。そうして前にあるように「底都磐根に宮柱太しり立て」とある。即ち其の基礎がシッカリ出来て、其の上に柱を建てられましたから、其の建物はモウ雨にも風にも暴風にも少しも動かない。また其の屋根の上には搏風があって、其の搏風が空に高く聳えて居る。即ち天皇の御徳が高くいらせられ、また國が永久に栄えて行くということを形の上にも表わすのであります。
そこで排皇孫命即ち天孫でありますが、此の天孫をお祀り申す所の御殿をも造られたということであります。
此の建築に力を尽した人々の子孫は今でも紀伊國名草郡の御木・龕香の二つの地に居って、永く栄えて居るということであります。日本の古い言葉では正殿のことを「あらか」というので、此の時に材木を伐り出してそうして家を建てたのでありますが、其の材木を採るのに主として働いた、主任の人の子孫の居る所を、今でも紀州では御木と言って居るし、それから御殿を造るのに主任として働いた人の子孫の居る所を龕香と言って居る。即ち其の郷の名が昔の祖先がどういう事に力を尽したかということをよく表わして居る訳であります。
解説
ここでいう「一書」は『古語拾遺』(斎部広成、大同二年=八〇七年)。素行はしばしばこの書を引く。
読むときの注意。『古語拾遺』は、斎部(忌部)氏が中臣氏に職掌を奪われたことを訴えるために書かれた書である。祖神・太玉命とその子孫の功績を強調するのは、その立場によるところが大きい。中立な記録として読むと足をすくわれる。
一方、地名がその土地の職掌の記憶をとどめるという読み方――御木=材を採る齋部の地、龕香=殿を造る齋部の地――は、この章の一貫した方法(名から実を読む)そのものである。地名から古い分業の跡をたどるというのは今日の歴史地理学でも有効な方法で、ここは素直に面白い。
中國章 十三(承)宮殿の意義 ── 神代に則り、後の世に手本を遺す底本 二五五頁
原文
謹按。是人皇宮殿之始也。此時去荒濛之世未遠。唯構正殿。以象神代之天柱。始萬世之洪基也。
訓読
謹んで按ずるに、是れ人皇宮殿の始めなり。此の時荒濛の世を去る未だ遠からず。唯だ正殿を構へ、以て神代の天柱に象り、萬世の洪基を始むるなり。
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
それで尚ほ素行がこれに就いて自分の考えを述べて申しますには、此の神武天皇が橿原に御殿をお建てになったということが、人皇の世になってから御殿をお建てになるということの初めである。
此の時はまだ「荒濛の世」即ち國の開けない初めの時から余り遠くない時代であったから、正殿をお建てになっただけで、そう細かい役所などを一々お分ちになるということはなかったと見える。
即ち神代に於て伊弉諾・伊弉冉尊が御殿をお建てになったのに則って、そうして後の世にお手本をお遺しになったばかりであります。
解説
「唯だ正殿を構へ」――ただ正殿だけを建てた。素行はここで初めは簡素だったことをはっきり書いている。
この一句が、次段以下の「贅沢に流れてはならない」という議論の土台になる。起点は簡素、そこから制度が整っていく――という順序で見るのが、この段の骨格である。
「洪基」は大きな基礎。神代の天柱に象って人皇の宮殿の基を始める、という神代と人代をつなぐ形は、天先章以来この書の一貫した組み立てである(天先章 第一段)。
中國章 十三(承)宮は室なり、殿は堂の高大・屋の嚴正なり底本 二五五〜二五六頁
原文
凡宮者室也。殿者堂之高大。屋之嚴正也。人必有居。有居則未嘗無宮殿。況人君乎。況帝居乎。既有宮殿。則不無制度。
訓読
凡そ宮は室なり。殿は堂の高大、屋の嚴正なるなり。人必ず居あり。居あれば則ち未だ嘗て宮殿なくんばあらず。況んや人君をや。況んや帝の居をや。既に宮殿あれば則ち制度なくんばあらず。
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
それで、「宮」というのは詰り部屋ということ、それから「殿」というのは其の建物の立派な、また厳正な、外から仰ぎ見ても成るほど國の君主のいらっしゃる所として適当なものであるという感じを起させるようなことを言うのであります。
人間には必ず住まいというものが無ければならず、或は先祖の霊を祀るのに適したような建物もなければならない。民間の者でも相当な生活をする者には家の設備というものには意を用うべきものである。況して一國の君主たる方であれば尚更である。況して天皇として永く此の國を御統治なさる方であれば、相当な所の建物をお建てになって、其処にお住まいになるということは固より当然のことであります。
既に宮殿を建てるということが行われる以上は、之に伴う所の制度というものが無ければならぬ。其の建て方というものに法則がなければならぬ。何でも大きな物を建てればよいというものではないので、まことに気高い、多くの人の仰ぎ見るような建て方でなければならぬのであります。
解説
「宮」と「殿」の定義。宮=室(部屋・住まい)、殿=堂の高大にして屋の厳正なるもの。素行はこの二字を分けて考える。
この区別は後段(ck117)で大極殿=政を執る所、大安殿=群臣をねぎらう所という具体的な対応につながる。
「何でも大きな物を建てればよいというものではない」――小林はここで、この段の主題を先取りして言い切っている。大きさではなく、仰ぎ見られるかどうか。禮儀章の「禮は分を明らかにする」という考え方と地続きである(『中朝事實』九・禮儀章 一節)。
中國章 十三(承)天の時を正し、水土に隨ひ、豐約を量る底本 二五六頁
原文
故經營之始。上正天時。以象文明。下隨水土。以量豐約。中考百世。以模聖賢。
訓読
故に經營の始め、上は天の時を正して以て文明に象り、下は水土に隨ひて以て豐約を量り、中は百世を考へて以て聖賢に模す。
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
それであるから之を建てるに就いては天の時を正して、時節も考えなければならない。どういう時節に土台を建てるか、どういう時に柱を建てるかということが肝要であります。其の時節をよく考えて、最も好い時節、皆人の心も本当に爽やかなような時を選んで、建築を始められるということが肝要であります。
また「水土に随う」――其の土地の様子をもよく見なければならぬ。湿り気のないような、陽のよく当るような、雨が降ってもそう水が溜らないような所とか、種々の条件を調べて、そうして然るべき所に建てるのであります。
それから「豐約」というのはどの位に手を掛けたら宜いか、また、どういう所に手を省いたら宜いかということを測って、余り贅沢になってもいかぬし、また余り見苦しくてもならぬのであるから、宜しきに適うて建築を致さなければならぬ。
またこれは後の世の手本となるということも考えなければならず、また昔の聖人とか賢人とかいう人々の家を建てられたことをも参考として、成るほど日本という國をお治めになる君主のお住まいとして申し分がないというような御殿をお建てにならなければならぬのであります。
解説
上・下・中の三つの基準。上は天の時(暦・季節)、下は水土(地形・地質・日照・排水)、中は百世(歴史の中の先例)。
この三点で測るというやり方は、素行が中國章の全体で用いてきた方法そのものである。その四(ck59)で本朝の水土を論じたときも、その五(ck84)で都の位置を論じたときも、同じ三点だった。
小林の説明が具体的なのがよい――湿り気のない、陽の当たる、雨で水の溜まらない土地。抽象的な「文明に象る」という漢語が、ここで実際の地面の話に翻訳されている。
「豐約を量る」――どこに手を掛け、どこを省くか。これがこの段の核心で、次のck115でさらに詰められる。
中國章 十三(承)樸に匪ず劉に匪ず、泰を去り甚を去る底本 二五七頁
原文
匪樸匪劉。去泰去甚。折中以儀形當時。垂示萬代。是乃天神天柱之實乎。
訓読
樸に匪ず劉に匪ず。泰を去り甚を去る。折中以て當時に儀形し、萬代に垂示す。是れ乃ち天神天柱の實か。
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
「樸に匪ず劉に匪ず」――そう粗末なものではならない。「樸」というのは素朴でありまして、即ち余り粗末なこと、また「劉」というのは、形の整わないことを謂うのでありますが、兎に角一國の君主のお住まいになる所であるから、形の整わない、余り粗末なものではならない。さればと言って贅沢に過ぎてもならぬ。
「泰を去り甚を去る」――余り度に過ぎて美しいとか、また甚だしく人の目を引く飾りをするとかいうようなことはお止めになった。立派な規模であるけれども、そう装飾の過ぎないような、御質素なものをお建てになった訳であります。
凡て「折中して」即ち宜しきに適うようにして、其の時にも皆が成るほどと思って仰ぎ見るようなもので、また後の世にもお手本となるようなものをお建てになったのであります。
即ちこれは伊弉諾・伊弉冉尊が天ッ柱をお建てになったという御趣意を永くお守りになって、これに基かれたものと解釈して宜しいのであります。
解説
この段の核心。粗末すぎず、贅沢すぎず、折中する。
「泰を去り甚を去る」は『老子』二十九章「聖人は甚を去り、奢を去り、泰を去る」から。素行は儒者だが、こういう場面では老子の語も遠慮なく使う。
その七(ck103〜ck107)で、堯舜の質素の美談を認めつつ「見る影もないような所であったのでは崇拝の意味も現われない」と限定を加え、ヴェルサイユを引いて贅沢の側の危うさを語ったのは、この一句のための助走だった。両端を斥けて中を取る――これは「中」の字を論じ続けたこの章の、建築における具体化でもある。
ただし「折中」がどこに落ちるかは時代が決める。素行が基準を示せても、数値では示せない。そこがこの議論の弱いところでもあり、同時に誠実なところでもある。
中國章 十三(承)代代の經營は簡樸、力を溝洫に盡す底本 二五七頁
原文
蓋中州代代之經營。專簡樸。而盡力於溝洫。唯有大極殿大安殿之名。是乃宮殿也。──大極殿以臨朝。大安殿以宴群臣。是宮與殿也。──
訓読
蓋し中洲代代の經營、專ら簡樸にして、力を溝洫に盡す。唯だ大極殿、大安殿の名あり。是れ乃ち宮殿なり。――大極殿は以て朝に臨み、大安殿は以て群臣を宴す。是れ宮と殿となり。――
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
即ち我が國の代々の御経営というものは簡樸で、余り飾りがなく、ただ人の心が更まるという程度のものであって、支那の天子などのように金銀を鏤めて人の眼を驚かすというようなものをお建てになるということは決してない。そうして専ら「溝洫」即ち農業を保護することにお力をお尽しになったのであります。即ち人民の幸福を専らになさるということが御歴代の御趣意であったのであります。
併しながら兎に角皇宮というものがあります以上は、茲に大極殿とか大安殿とかいうものをお建てになるということは、体面上どうしても必要なのであります。これが即ち宮殿でありまして、単なるお住まいではなく、堂々たる建物であります。
それで大極殿というのは「朝に臨む所」即ち國の政治をお執りになる所であり、大安殿というのは、多勢の臣下をお召しになって之を犒われる所であります。それであるから此の宮と殿との区別があるので、即ち群臣を召されてお寛ぎになる所が宮であって、それから政治を執られる所が謂わゆる殿であって、支那では政治堂と申します。此の区別が立って居るのであります。
解説
「力を溝洫に盡す」は『論語』泰伯篇の禹の評(その七 ck103 の補注参照)。宮室を低くして治水に力を注ぐ――その理想を、素行は日本の歴代に見る。
読むときの注意。「支那の天子などのように金銀を鏤めて……というようなものをお建てになることは決してない」という対比は、比較の条件が揃っていない。平城京の大極殿は間口約四十四メートル・高さ約二十七メートルの、当時の東アジアでも有数の建築であり、その造営は民に大きな負担をかけた。簡素なのは中世以降の内裏で、それは財政が続かなかったからでもある。
その四(ck65)の「牛羊・毛皮・寝台を気の毒な状態と読む」、その五(ck73)の「吾が國が外國に対する態度と全く同じ」と同じ型の対比――自国の側だけを理念で、他国の側だけを実態で語る――がここにも出ている。
中國章 十三(承)桓武天皇の皇居 ── 門の額に嘉言を題す底本 二五八頁
原文
桓武帝遷都於平安城。牢籠先王。鑒察異域。大張規模。造新門。營新宮。名其門。題金榜。──釋弘法。橘逸勢。野道風。藤行成。書其字。──名其殿以嘉言。
訓読
桓武帝都を平安城に遷し、先王を牢籠し、異域を鑒察し、大に規模を張り、新門を造り、新宮を營み、其の門を名づけ金榜を題す。――釋弘法、橘逸勢、野道風、藤行成、其の字を書す。――其の殿に名づくるに嘉言を以てす。
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
後に至って桓武天皇が平安に都をお遷しになって御所をお建てになった時には、昔の代々の御趣意をスッカリ含まれて、そうしてまた「異域」即ち支那のことなども参考となさって、そうして規模を大いに盛んにして新しい門を造り、新しく建築をお営みになった。
其の時分は支那と始終交通がありましたから、支那の建築の様式等も参考として、そう華美ではないけれども、見苦しいことのないように、立派に体裁を具えた御所をお建てになったのであります。
そうして其の門の額を懸けて、其の額にはそれぞれ貴い言葉を書かれて、政治を執る者の心得を示されたのであります。其の額に字を書いたのは弘法大師、橘逸勢、小野道風、藤原行成というような人々でありまして、それは皆「嘉言」即ち善い言葉を書かせて、政治を執る者はどういう心得を持たなければならぬかということを示されました。
始終其処を大臣百官が通るのでありますから、其の人々が此の御門の上の額を仰ぎ見ると、成るほど斯ういう心持で政治を執らなければならぬと思って自らの心得とするように、其の言葉をお選びになって、お書かせになったのであります。
解説
この冊でいちばん面白い着想。門の額に善い言葉を掲げ、そこを毎日通る大臣百官がそれを仰ぎ見るようにする――建物が人の心を正す、という考え方である。大内裏の門の名(美福門・朱雀門・待賢門・郁芳門など)は、たしかにどれも徳目や吉語から取られている。
読むときの注意(一)。素行が挙げる四人は時代が合わない。弘法大師(空海、七七四〜八三五)と橘逸勢(〜八四二)は三筆で桓武・嵯峨朝の人だが、小野道風(八九四〜九六六)と藤原行成(九七二〜一〇二七)は三跡で、遷都の百年〜二百年あとの人である。内裏はたびたび焼けて額も書き改められたため、後世の筆が加わったと見るのが自然で、四人が同時に書いたことはあり得ない。
読むときの注意(二)。素行自身が「異域を鑒察し」と書いているとおり、平安京の条坊も内裏の配置も唐の長安に範を取っている。前段(ck116)の「支那とは違う」という対比と、この「支那を参考にした」という記述は、並べて読むべきである。
もう一つ。桓武の造営は民に重く、延暦二十四年(八〇五)の徳政相論で藤原緒嗣が「軍事と造作、この両事が天下の民を苦しめている」と論じ、造営そのものが中止された。「人民の幸福を専らになさる」(ck116)という一般化は、この事実の前で立ち止まる必要がある。
中國章 十三(承)紫宸殿 ── 前殿・明堂・路寢底本 二五八〜二五九頁
原文
前殿曰紫宸。其制肖外朝之明堂。乃饗萬國。朝諸侯之所也。──秦漢曰前殿。周曰明堂。路寢以帝居。象天之紫宮也。──
訓読
前殿を紫宸と曰ふ。其の制外朝の明堂に肖たり。乃ち萬國を饗し、諸侯を朝するの所なり。――秦漢は前殿と曰ひ、周は明堂と曰ふ。路寢は帝居を以てし、天の紫宮に象るなり。――
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
此の御所の前殿を紫宸殿といい、外國から来た所の使いをも饗応し、また多勢の臣下の参内する場所であるから、形を立派に整えて、人々の心も自ら正しくなるようにということにまで、意を用いられた訳であります。
此の紫宸殿に相当する宮殿を秦の時代、漢の時には「前殿」と言い、周の時代には「明堂」と言いました。尚ほこれを「路寢」ともいうのは天子の始終いらっしゃる所と言う意味で、これは天の方で言えば紫宮という、謂わゆる太白星の在る場所に象どって居るのであります。それで紫宸殿と申しますのは、即ち此の太白星の居る所という意味になるのであります。
解説
紫宸殿の名の由来。「紫」は天の紫微垣――北極星を中心とする星域で、天帝の居所とされる――から。「宸」は天子の意。天の中心に地の中心を対応させるという、この章がくり返してきた発想(その一 ck09「地の洲は天の星のごとし」)が、建物の名にも及んでいる。
小さな誤り。小林は「紫宮」を太白星(金星)の在る場所と説明しているが、紫微垣は北極星(北辰)を中心とする星域で、太白星ではない。その五(ck80)で「北辰其の所に居る」を扱ったときと同じ星を指す。講義の速記のままなので、そのまま残して注記しておく。
「明堂」は周代の、天子が政令を発し諸侯を朝する礼制上の建物。実際にどんな建物だったかは漢代以来議論が絶えず、儒者の理想像として再構成されてきたという性格が強い。
中國章 十三(承)黼扆を負ひ、南嚮して政を聽く底本 二五九頁
原文
又曰南殿。天子負黼扆。南嚮以聽政之義也。
訓読
又南殿と曰ふ。天子黼扆を負ひ、南嚮して以て政を聽くの義なり。
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
またこれを「南殿」とも申します。それで天子は「黼扆」というのは後ろの所に衝立がありまして、此の衝立を背中にして其処に坐を占められ、南の方に向われて政治をお聴きになるのであります。
此の南の方に向われるということは支那でも同じであります。即ち帝王は太陽のような盛んな徳を具えて國の政治を聴くので、徳を以て國を治めるという意味を表わすために、南の方を向いて政治をお聴きになるのであります。太陽がチャウド南に来た時が正午で、此の時は日の光りが一番強いのであります。
群臣は南を背にして北の方を向いて、君主に対して自分の意見を申上げるということが支那にもありますが、我が國でもやはり同じことであります。
解説
南面聴政。『論語』衛霊公篇「無為にして治まる者は、其れ舜か。夫れ何をか爲さんや。己を恭しくして正しく南面するのみ」が原型で、中国の礼制そのものである。
読むときの注意。小林の「南の方に向われるということは支那でも同じであります」「支那にもありますが、我が國でもやはり同じことであります」という言い方は、順序が逆である。日本の朝儀の南面は、律令とともに唐から入ったもので、「支那でも同じ」ではなく「支那に倣った」。素行のほうが正直で、前段(ck117)で「異域を鑒察し」とはっきり書いている。
「黼」は斧の文様、「扆」は屏風。斧を描くのは決断の象徴とされる。『周礼』『儀礼』にみえる古い制である。
中國章 十三(承)清涼殿と貞觀殿底本 二五九頁
原文
中殿曰清涼。常宸居所。──又曰御殿。乃平生宴遊之所也。後殿曰貞觀。乃后宮也。
訓読
中殿を清涼と曰ふ。常に宸居の所なり。――又御殿と曰ふ。乃ち平生宴遊の所なり。――後殿を貞觀と曰ふ。乃ち后宮なり。
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
それから真ん中の所の御殿を「清涼」というので、即ち天子様の平生いらっしゃる所であります。また「御殿」とも申します。天子の朝夕此処に住まっていらっしゃる所という意味であります。即ち平生お住まいになり、また多勢の臣下の人々をも召されて、或る時には酒宴などをも催される所であります。
それから「後殿」即ち後ろの方に在る御殿を「貞觀」というので、これは皇后様がお住まいになり、また女官等のお事え申す場所であります。
其の他御殿にもいろいろな建物があって、また「丹墀青瑣」というのは周りに墀があって、其の墀を或は朱く、或は青く飾ってあるのであります。それから「金鋪玉戺」というのはお庭のことでありまして、石を敷いたり或は砂利などをズット敷き詰めてあるのであります。
解説
前殿・中殿・後殿の三層――公の儀式(紫宸殿)、日常の政と居住(清涼殿)、后宮(貞観殿)。公から私へ、前から後ろへという配置が、そのまま役割の順序になっている。
ck113 で立てた「宮は室なり、殿は堂の高大なり」という定義が、ここで実際の殿舎に当てはめられる。定義を先に立て、あとで事実を並べる――この運びは中國章の全体を通じての素行の作法である。
なお清涼殿は実際には摂関期以降に天皇の日常の場として重んじられ、平安初期の内裏では仁寿殿がその役割を担っていた。素行が語るのはある時期以降の内裏の姿である。
中國章 十三(承)丹墀青瑣・金鋪玉戺・井欄綺窓底本 二五九〜二六〇頁
原文
此外宮殿堂樓院閣丹墀青瑣。金鋪玉戺。──音俟。砌也。──井欄綺窓。無不盡善盡美。
訓読
此の外宮殿堂樓院閣、丹墀青瑣、金鋪玉戺――音俟。砌なり。――井欄綺窓、善を盡し美を盡さざる無し。
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
「金」といい「玉」というのは、ただ美しいことの形容であります。
それから「井欄綺窓」というのは欄間とか窓とか、凡て建築に必要なものでありますが、これ等のものが皆善を尽し美を尽して、実際一國の君主のお住まいになる所として申し分のないものが出来たのであります。
解説
「金」「玉」はただ美しいことの形容――小林はここで、ふたたび具象を意味に翻訳する。その七(ck108)で「八尋」を数値ではなく「四方八方どこにも申し分がない」と読んだのと、まったく同じ手つきである。
「善を盡し美を盡さざる無し」は『論語』八佾篇の「盡美矣、又盡善也」――韶の楽を評した孔子の言葉――を踏まえる。美(形の完成)と善(内容の正しさ)の両方が揃っている、という最高の讃辞である。
ただし ck115 の「泰を去り甚を去る」と、この「善を盡し美を盡す」とは、放っておけば衝突する。素行の中では「折中して」という一語が両者をつないでいるのだが、その接点は言葉のうえのもので、実際の判断は残される。
中國章 十三(結)河洛の賢聖を圖し、乾坤の儀形に像る底本 二六〇頁
原文
圖以河洛賢聖。而法大舜視古人之像。像以乾坤儀形。而守聖皇立宮柱之太。
訓読
圖するに河洛の賢聖を以てして、大舜の古人の像を視るに法り、像るに乾坤の儀形を以てして、聖皇宮柱を立つるの太しきを守る。
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
また其の御殿の中にはいろいろな絵がありまして、其の絵には勝れた人の像を描いたのもあります。これは昔舜が古人の像を描いて、始終それを見て昔の勝れた人を手本とするという心持を養ったというのに一致するのであります。
それからまた「乾坤の儀形」というのは、天の星とか月日とかいうようなものの形を描いたのもあります。これは即ち昔「宮柱太しき立て」とあります、神武天皇の昔を思うという意味であります。
即ち天照大神は日に象どる所の徳を具えていらっしゃり、其の他御歴代の天子様も皆日月に匹敵するような勝れた徳を具えていらしったのであるから、そういう神々等の御徳を今日でも仰ぎ見るという意味で、日月や星の形を描いて之を始終見ていらしったのであります。
解説
壁に何を描くか――これも ck117 の「門の額に嘉言を書く」と同じ思想である。目に入るものが人をつくる。
「河洛の賢聖」は中国の聖賢。清涼殿の荒海障子や、紫宸殿の賢聖障子(中国の名臣三十二人を描いたもの)が実際にあり、素行が言っているのはこれである。日本の宮殿の壁に中国の賢臣が描かれていた――これも ck117 と同じく、「支那とは違う」という対比では説明のつかない事実である。
「大舜古人の像を視る」は『尚書』益稷篇に、舜が古人の象を衣服に描かせたという記述があることによる。
中國章 十三(結)九重の深邃、九條の廣路 ── 固陋と紛奢と、同日に語るべからず底本 二六〇頁
原文
嚴九重之深邃。披九條之廣路。十二之通門迭洞。十七之寶殿珠聯。以宸儀仰彌高。法座則彌正。彼如事固陋。與愛紛奢。不可同日而語之也。
以上、制宮城之義。
訓読
九重の深邃を嚴にし、九條の廣路を披く。十二の通門迭に洞らかなり。十七の寶殿珠のごとく聯なる。以て宸儀仰げば彌高く、法座は則ち彌正し。彼の固陋を事とすると紛奢を愛するとは、日を同じくして之を語るべからざるなり。
以上、宮城を制するの義なり。
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
此の奥深い御殿が出来まして、其の前に広い路が九条に分れて居る。京都には一条から九条まであります。これが大通りで、其の他其の間々に細い路が開けて居るのであります。
此の御所の周囲には十二の門がありまして、それから其の中にあります建物を一々数えると十七ある。斯ういうようなものがチャウド珠の如く連なって居ります。
それで其の御殿の様子をよく見ますと、実に仰げば弥々高い感じがします。また天皇の玉座というものは後の世までも永く崇め奉るべきものであって、本当に天皇の徳の勝れていらっしゃることが此の玉座を拝して見てよく解るのであります。
解説
第十三段の結び。素行は最後に、「固陋を事とする」と「紛奢を愛する」――むやみに粗末なのと、むやみに華美なのと――を並べて、そのどちらとも「日を同じくして語るべからず」と切る。ck115 の「樸に匪ず劉に匪ず、泰を去り甚を去る」が、ここで一つの結論として言い直されている。
そして「以上、宮城を制するの義なり」。都を論じ(第十段〜第十一段)、宮殿を論じた(第十二段〜第十三段)長い一続きが、ここで閉じる。
数の話。「九重」は奥深さ、「九條」は平安京の九つの大路、「十二の通門」は大内裏の十二門、「十七の寶殿」は内裏の殿舎の数。九・十二・十七という数がそのまま徳の高さの証しとして語られるのは、その七 ck108 の「八は四方四隅の數」と同じ読み方である。
次段からは宗廟・社稷――祖先を祀る廟と、土地・穀物の神を祀る壇――の話に移る。全集版では祭祀章がこれを詳しく扱う(『中朝事實』十四・祭祀章)。