中國章 四(承)中國と稱せらるべき國はどこか ── 本朝と外朝と底本 二〇四〜二〇五頁
原文
是乃可稱中國。萬邦之衆。唯本朝及外朝得其中。
訓読
是れ乃ち中國と稱すべし。萬邦の衆、唯だ本朝及び外朝其の中を得たり。
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
土地も物をよく育てるし、それから人間もまた洵に純粋な、清らかな性質を持って居て、よくお互いに保ち合い助け合って、各自の職に尽すというようになれるのである。斯ういうような所こそ、本当に中國と称せらるべきものであります。
それならば、斯ういうような中國と称せらるべき國が世界の何処にあるかと言えば、世界には國が沢山あるけれども、其の中に於て特に我が國と、それから「外朝」というのは支那を申すので、支那とが先ず中を得たものと言えるのである。我が國は神の御力に依って開けた國であるから申すまでもないが、支那に於ても孔子のような聖人が出た。又昔にも堯とか舜とか禹とかいうような、聖人と称せられる君主も多く出たのである。これは詰り土地が中を得た土地であるから、人物にも亦斯ういう勝れた人物を出したものと考えなければならない。
解説
「中を得た国」は日本と中国の二つだ――素行のこの一句は、この章を読むうえで見落とせない。
中國章は日本を「中國」と称すべきだと主張する章だが、中国からその資格を奪ってはいない。むしろ小林は孔子・堯・舜・禹を挙げて、中国もまた中を得た土地だと積極的に認める。
素行の主張は「日本だけが中國だ」ではなく「日本もまた中國と称してよい」である。前冊の「何処の國でも『中を得た』と言って居る」(ck33)と併せると、この書の主張の実際の射程が見えてくる。
もっとも、では他の国々はなぜ除かれるのか――その基準は示されていない。
中國章 四(結)誣ひて申すのではない ── 中國の民たる自覺底本 二〇五頁
原文
而本朝神代。旣有天御中主尊。二神建國中柱。則本朝之爲中國。天地自然之勢也。神神相生。聖皇連綿。文武事物之精秀。實以相應。是豈誣稱之乎。
訓読
而して本朝の神代旣に天御中主尊あり。二神國中の柱を建つ。則ち本朝の中國たるは天地自然の勢なり。神神相生じ、聖皇連綿として、文武事物の精秀實に以て相應ず。是れ豈に誣ひて之を稱するならんや。
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
殊に我が國は、神代に於て既に天御中主尊という御方がある。此のお名前に依って、中を得た徳を具えた方であるということはよく解る。それからまた、伊弉諾・伊弉册尊が初めて夫婦の約束をなさる場合にも、國の中央である所の柱を旋ってお約束をなさったということがあって、此の「中央の柱」ということは、宛かも柱が抜けないように永久に変らないで、永く栄えて行くという意味を表わして居るのである。
それであるから、日本の國が中國と称せらるべきものだということは、天地自然の勢いである。日本の國には多くの徳を具えられた神々が代る代るお生れになり、また此の神々の御裔である所の天皇の御歴代が、みな高い徳を具えられた方々であって、此の皇統は連綿として何時までも続き、また文武の道も共に此の國に具わって、勿論武勇の國であるけれども決して其の武に誇るということなく、文武兼ね備わった國民の気風というものが、他の國の手本となって居るのであります。
斯ういうようなことをよく考えて見ると、自分が我が國を中國と言わなければならぬと申すのは、決して自分の勝手な考えではない。誣いて斯ういうことを申すのではなく、日本の國体に基いて之を主張するのであるから、日本人たる者は本当に此の自覚を持って、自ら中國の民たる考えで他の國に臨むということが、最も肝要であると申すべきであります。
解説
第四段の結び。素行の「是れ豈に誣ひて之を稱するならんや」――でっち上げで言っているのではない――という一句を、小林が受ける。
注目したいのは「勿論武勇の國であるけれども、決して其の武に誇るということなく」という一句である。武を持つことと、それを誇らないこととを分ける。武德章三十一節「濫用も忌避も誤り」、同三十三節「武備+文敎」と同じ立場である(『中朝事實』十三・武德章 三十三節)。
読むときの注意。結びの「自ら中國の民たる考えで他の國に臨む」は、素行の原文にはない小林の言葉である。素行は自国の由緒を語っているが、小林は他国に対する態度に翻訳している。前冊の ck28・ck34 と同じ転回で、この講義の性格がよく出ている。
中國章 五神武帝、神代の迹を繼ぐ ── 蓋し六合の中心か底本 二〇六〜二〇七頁
原文
神武帝繼神代之迹。都日向國宮崎宮。曰。東有美地。青山四周。彼地必當足以恢弘天業。光宅天下。蓋六合之中心乎。遂東征初平中洲。觀大倭國畝傍山東南橿原地。經始帝宅。
謹按。運屬鴻荒。時鍾草昧。蛇龍鳥蟲得其處。異人分疆凌轢。唯此西邊可以治。故天孫先降此。多歷年。以養正。逮神武帝。王澤旣霑。當足恢弘天業。光宅天下。故有此東征。始擴中洲之實。蓋西者金。東者木。自西及東者。化育之相生也。自東及西者。征伐之相尅也。故有東征之道。至誠無息也。聖皇之征治。乾坤可以法也。
訓読
神武帝神代の迹を繼ぎ、日向の國宮崎の宮に都す。曰く、東に美き地あり、青山四周す。彼の地は必ず當に以て天業を恢弘し、天下に光宅するに足るべし。蓋し六合の中心なるかと。遂に東征して初めて中洲を平げ、大倭國畝傍山の東南橿原の地を觀て、帝宅を經始せり。
謹んで按ずるに、運鴻荒に屬ひ、時草昧に鍾まれり。蛇龍鳥蟲其の處を得、異人疆を分ちて凌ぎ轢る。唯だ此の西邊以て治むべし。故に天孫先づ此に降りて多く年を歷、以て正を養ひ、神武帝に逮びて王澤旣に霑ひ、當に天業を恢弘し、天下に光宅するに足るべし。故に此の東征あり。始めて中洲の實を擴む。蓋し西は金、東は木。西より東に及ぶは化育の相生するなり。東より西に及ぶは征伐の相剋するなり。故に東征の道あり、至誠息むことなきなり。聖皇の征治、乾坤以て法るべきなり。
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
神武天皇の御東征に先だって、日向の國に在らっしゃる時に、既に此の國の将来栄えて行くべき所の計画をお立てになったということが伝えられて居るのであります。即ち神武天皇は神代の迹をお継ぎになったのでありますが、先ず初めに日向の國宮崎という所に都をお建てになって、それからいよいよ東の方に向うという御計画をお定めになったのであります。
其の東に向われるという趣意は、詰り天孫降臨以来、九州地方に於て養われた所の最も勝れた國民の気風を、更に日本全國に及ぼして、此の國を正しき國にしようというお考えであったのであります。
解説
第五段。神武天皇の東征。中國章の議論が、神代から人の世へ移る節目である。
素行が引くのは『日本書紀』神武即位前紀の詔である。「東に美き地あり、青山四周す。……蓋し六合の中心か」――「六合の中心」の一語が、この章の主題「中國」と直に結びつく。
按語の前半はなぜ天孫が西(日向)に降ったのかの説明である。当時は「蛇龍鳥蟲其の處を得、異人疆を分ちて凌ぎ轢る」――まだ荒れていて、治められるのは西の辺だけだった。だからまず西で力を養い、機が熟してから東へ出た。
附録「或疑」五節の卵の比喩「時勢未だ及ばざれば則ち著明に擧げ行ふべからず」と同じ時間感覚である(『中朝事實』十五・或疑 五節)。
中國章 五(承)橿原に帝宅を經始す ── 太陽の光に暗い所がなくなるやうに底本 二〇八〜二〇九頁
原文
遂東征初平中洲。觀大倭國畝傍山東南橿原地。經始帝宅。
訓読
遂に東征して初めて中洲を平げ、大倭國畝傍山の東南橿原の地を觀て、帝宅を經始せり。
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
そこで其の宮崎に在らっしゃる時に仰せられたのには、東の方には大層美き地があって、山が四方を繞って居て、気候も良し風土も良し、洵に國の都となすに適当な所である。其の地に遷って、其処を都として日本全國を治めるということになれば、天照大神よりお命じになった、此の國全体を経営するという事業を本当に立派なものに仕上げることが出来る。そうしてまた「光宅する」というのは、光りを以て周囲を照らすという意味で、四方に感化を及ぼし、光りを以て四方を照す如くに、凡ての者に幸福を与え、凡ての者に保護を加えて行くという意味であります。
それで東の方にお進みになって、大和の地方を平げて、大和の畝傍山の東南の橿原の地を観て、此処こそは此の國を治める所の君主の住まわれるのに適当な地であるとお考えになって、此処に天皇のお住みになる所の宮をお造りになったというのであります。
此の理想は後世にまでもズット伝えられて居るものでありまして、即ち久しく養われた正しい気象を周囲に及ぼし、謂わゆる正義の道を徹底的に広く天下に及ぼすということが、此の國を盛んにする根本の思想になるのであります。チョウド太陽の光りに照らされれば暗い所がなくなると同じように、正義を中心とした國が指導して行けば、今まで間違って居た者も其の過ちを改め、今までお互いに敵対し合って居た者も仲が睦まじくなって、協力一致の実を挙げることが出来るのであります。
解説
「光宅」を、小林は太陽の光の比喩で説く。『書經』堯典の語を、そのまま日の光に重ねる読み方である。
前冊の ck15 でも「日本も太陽の如くに」という比喩が出ていた。照らす=支配ではなく、暗い所をなくすことという理解が、この講義に一貫している。
もっとも「正義を中心とした國が指導して行けば」という言い方には、自分の側が正義であることを前提にする危うさがある。昭和初期の講義であることを踏まえて読みたい。次段で小林自身が、この点にかかわる重要な区別を立てる。
中國章 五(承)天孫降臨當時の狀態 ── 鴻荒・草昧・蛇龍鳥蟲底本 二〇九頁
原文
謹按。運屬鴻荒。時鍾草昧。蛇龍鳥蟲得其處。異人分疆凌轢。唯此西邊可以治。
訓読
謹んで按ずるに、運鴻荒に屬ひ、時草昧に鍾まれり。蛇龍鳥蟲其の處を得、異人疆を分ちて凌ぎ轢る。唯だ此の西邊以て治むべし。
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
そこでこれに就いて尚ほ素行が自分の意見を述べて申しますには、一番初めの天孫降臨という時代を考えて見ると、何にしろ其の時代は「鴻荒」――というのは、まだ世の中がよく開けない、謂わゆる未開の状態であって、また「草昧」というのも、やはり同じように開けないという意味で、世の中がまだ明るくないような時代であった。
そういう時代に於ては、人間の生活がまだ本当に整うて居ないものであるから、他の動物がみな其の処を占めて、「蛇龍鳥蟲」というのは様々な動物でありますが、様々な動物がそれぞれはびこって居って、まだまだ此の世の中がどうなるか行く末の見込も付かぬような有様であった。それからまた人間の有様をいえば、いろいろな人間があって互いに対立して居って、お互いに敵対し合うというような、極めて危険な状態であったのであります。
其の中に於て、「此の西邊」――即ち日向の辺りというものは、洵に穏かであった。
解説
素行が神代の日本を「鴻荒」「草昧」――まだ開けていない、危険な状態――として描く一段。
これは注意して読むに値する。中國章はここまで国土の優越を説いてきたが、その国の出発点は決して整ったものではなかったと、素行自身がはっきり書いている。
天先章第一段で「草昧屯蒙の間、聖神其の中に立ち」と語られたのと同じで、附録「或疑」四節「草昧の始、禮の全備は、これを求むべからず」、同六節「太上は素樸を貴びて以て稱す」に通じる(『中朝事實』十五・或疑 六節)。
はじまりが粗いことを、素行は恥じない。そこが読みどころである。
中國章 五(承)養正の事業 ── 力を養ふのでも富を養ふのでもなく底本 二一〇頁
原文
故天孫先降此。多歷年。以養正。
訓読
故に天孫先づ此に降りて多く年を歷、以て正を養ふ。
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
それであるから、先ず此の地方に於て國を建てて、そうしてシッカリ其の根拠が出来てから他に及ぼすのが自然の順序であるということで、天孫は先ず此の日向の國にお住みになって、其処で多くの年月を経て人民を訓練された。
其の訓練された大体の趣意というものは、「正を養う」ということであった。決してただ力を養うて、其の力を以て他を圧迫するというような御考えではない。正しき気象を養うて、お互いが人間として人間たる価値を認め合い、またお互いのすることに力を打込んで、みなが満足するような、洵に美しい所の気風を其処で作ろうということであったのであります。
解説
「正を養ふ」――この講義でもっとも重い三字である。素行の按語のたった三字を、小林は次のように開く。
「決してただ力を養うて、其の力を以て他を圧迫するというような御考えではない。……お互いが人間として人間たる価値を認め合い」
天先章第二段で禮を「どういう地位に居る者でも、どういう職業に携わる者でも、皆人として価値がある。其の人の価値を認めてお互いに重んじ合うということ」と説いたのと、まったく同じ言葉である(小林一郎 講義 一・天先章 kt11)。
力でも富でもなく正を養う――次段で、これが他国の建国史との対比として押し出される。
中國章 五(承)日本の建國と他の國の建國 ── 力づくであつてはならぬ底本 二一〇頁
原文
以養正。逮神武帝。王澤旣霑。
訓読
以て正を養ひ、神武帝に逮びて王澤旣に霑ふ。
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
此の事は、他の國の歴史と比べ合せると、よく日本の特色を明かにしたものと考えられるのであります。世界の何処の歴史を見ましても、其の初めに於て其の民族が発展するのには、力を養い、或は富を養うたのであります。そうして其の養い得た力、養い得た所の富を以て他の民族を圧迫して、そうして之に代って其の土地に自分の國を建てるというのが、万國に共通なことであります。
然るに我が國に於ては、其の一番初めの時に、力を養うとも富を養うともありませぬので、「正を養う」ということが主となって居ります。即ち國が健全に発展するには力づくであってはならぬ。正しい道を天下に弘める為めに、自然に発展の機運が開かれるのでなければならぬ、ということが理想であったのであります。
ここが日本の建國の歴史と、他の國の建國の歴史との異う所でありますから、日本人たる者は誰も此の事を忘れないように心掛くることが、最も肝要なのであります。
解説
この冊のもっとも重要な一段であり、同時にもっとも慎重に読むべき一段でもある。
小林の主張は明快である。「國が健全に発展するには力づくであってはならぬ」。他国は力と富を養って他民族を圧迫し、そこに国を建てた。日本は「正を養った」――そこが違う、と。
昭和初期の講演で力による膨張を明確に否定している点は、正当に評価されてよい。前冊の ck28(「決して領土を取ろうなどというような野心からではなく」)と一貫している。
ただし史実の主張としては成り立たない。神武東征は、記紀自身が長髄彦をはじめ多くの在地勢力との戦闘として記している。「正を養った」という記述は素行の按語による解釈であって、記録がそう語っているのではない。
また自国だけが力によらなかったという比較は、他国の建国史を一括して力の物語に単純化することで成り立っている。
理念としての「力づくであってはならぬ」は受け取り、史実としての「日本だけが違った」は留保する――そういう読み方が要る箇所である。
中國章 五(承)遷都と敎化 ── 中洲の實を擴む時が到來した底本 二一〇〜二一一頁
原文
逮神武帝。王澤旣霑。當足恢弘天業。光宅天下。故有此東征。始擴中洲之實。
訓読
神武帝に逮びて王澤旣に霑ひ、當に天業を恢弘し、天下に光宅するに足るべし。故に此の東征あり。始めて中洲の實を擴む。
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
そこで九州地方に於て國が経営されて、だんだん年月が経つ間に神武天皇の御代になりまして、モウ此の時になると「王澤既に霑い」――上の君主のお徳が自然に周囲に感化を及ぼして、モウ斯んな西の方の偏った所に居ないで、中央に都を建てて徳化を広く凡ての地方に及ぼして行くことが出来るという見込みが立ちました。
そこで神武天皇が仰せられたように「天業を恢弘し天下に光宅する」――天照大神が此の國に皇孫をお降しになった所の御趣意を汎く此の國中に推し弘めて、そうして天皇のお徳を以て四方を照らし、人民が皆喜んでそれぞれの業に従事するようになれる、斯ういうお考えで、日向を発して東にお向いになるということになったのであります。
それであるから、此の「東征」――即ち日本が世界の方々の國の中央となるということは、神代の頃からの理想であったけれども、此の中洲の「実を擴む」――即ちこれを実現するという時がここに到来したものと考えて宜しいのであります。
解説
「王澤旣に霑ふ」――君主の徳がすでに周囲に行き渡った。だから今こそ中央へ出る時だ、という判断。
ここでも「時が到来した」という言い方が使われている。前の段(ck37)の「時勢が及ばなければ挙げ行うべからず」と対になっており、機が熟すのを待ってから動くという、この書に一貫した時間感覚が働いている。
読むときの注意。「日本が世界の方々の國の中央となる」は、素行の「中洲の實を擴む」(国内の中央部を平定して実を広げる)を、世界に向けて拡張して読んだものである。素行の原文の「中洲」は大和を中心とする国内を指す。
中國章 五(承)西は金、東は木 ── 相生と相尅底本 二一一頁
原文
蓋西者金。東者木。自西及東者。化育之相生也。自東及西者。征伐之相尅也。
訓読
蓋し西は金、東は木。西より東に及ぶは化育の相生するなり。東より西に及ぶは征伐の相剋するなり。
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
それで此の方角に就いて考えて見れば、西は金を表わすし、東は木を表わす。これは支那の易などにも現われて居る思想であります。それであるから、西より東に及ぶということも、また東より西に及ぶということも大切である。
西より東に及ぶというのは、詰り金が本となって居る。金というものは刀などになれば、物を切り開くという作用をする。それであるから、西より東へ向うのは物を切り開いて事業を始めるという意味になる。それから東より西に及ぶと言えば、東は木であって、木というものはズンズン育って栄えて行くものであるから、東から西に及ぶというのは凡ての物を保護して大に繁昌させて行くという意味になる。
それで、先ず西の方の日向から東の方に向って大和に都を奠められるということは、艱難を冒して事業を始められるという意味になる。即ち西から東に及ぶことである。それから一旦大和に都が定まって後には、また更に西の方にも此の皇室の御徳が及ぶ。無論四方に及ぶのでありますが、以前東であった所が本になって、其の徳が更に西にも及ぶということは、謂わゆる「化育」であって、物を育てるという働き、即ち人民をして各々其の処を得しむるという皇室の御働きが、これより大いに発展して行くものと、斯う解釈して宜しいのであります。
解説
五行で東征の方角を説明する一段。『中朝事實』でもっとも図式的なところである。
ただし注意して読むと、素行と小林で説明が食い違っている。素行の按語は「西より東に及ぶは化育の相生」「東より西に及ぶは征伐の相剋」だが、小林は西→東を「切り開いて事業を始める」(金の作用)、東→西を「保護し繁昌させる」(木の作用)と、ほぼ逆に説いている。
小林は五行の相生相剋の順(金剋木・水生木)ではなく、金=刀=切り開く、木=育つという各行の性質から説き直しているためである。
いずれにせよ五行による歴史の説明は、当時の学問の枠組みによるもので、そのまま史実の説明にはならない。素行が方角にまで理を付けようとしたこと自体に、この書の性格が出ている。
中國章 五(承)至誠息まず ── 天の運りは狂はず、息まない底本 二一二頁
原文
故有東征之道。至誠無息也。聖皇之征治。乾坤可以法也。
訓読
故に東征の道あり、至誠息むことなきなり。聖皇の征治、乾坤以て法るべきなり。
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
それから、左に旋るとか右に廻るとかいうようなことは、即ち天地日月五行の道がみな此の通りである。即ち其の作用が自在にして滞りがないのであります。それであるから、西より東に及び、東より西に及ぶというのは、日月でも何でも凡てのものの運って行く通りの道を人間に表わされたものであって、即ち天の道というものが本になって人間の道が立つという意味が、よく現われて居るのであります。
そこで此の天の運りというものは少しも狂わず、また少しも息まない。謂わゆる「至誠息まず」というべきものであるから、人間の道も亦それでなければならぬ。常に勉めて息まないという所から、大なる効果というものが自ら現われて来るのであります。
それであるから、我が國の歴代の天子様が徳を以て國をお治めになり、また不正な者があればこれに制裁を与えて其の過ちを改めさせるというような一切の御働きは、能く天地の働きと一致したもので、國民の一般の心得もまたここになければならぬのであります。
解説
「至誠息まず」――天先章第六段の「天地は息むこと無きを以て心と爲す」「天行は健なり」が、ここで人の道に戻ってくる。
天の運りは狂わず、息まない。だから人の道もそうでなければならない。常に勉めて息まないという所から、大なる効果というものが自ら現われて来る。
末尾の「德を以て國を治め、不正な者には制裁を与えて過ちを改めさせる」は、中國章 その一の ck05「恩威並び行はる」(徳と武の二本立て)と同じである。寛だけでは徳にならないという賞罰章の立場が、ここでも保たれている。
中國章 五(承)或疑 ── なぜ天孫は西に偏つた日向に降つたのか底本 二一二頁
原文
或疑。二神以磤馭盧島爲國中之柱。左旋右行。乃天地日月五行之道。迺生大日本。然乃天孫之降何在西偏乎。
訓読
或は疑ふ、二神磤馭盧島を以て國中の柱と爲し、左旋右行は乃ち天地日月五行の道、迺ち大日本を生む。然らば乃ち天孫の降る何ぞ西偏に在るかと。
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
そこでまた疑問を起す者が言うには、伊弉諾・伊弉册尊が磤馭盧島を以て國の中央とされたということがあって、それが大日本をお生みになったとあるのであるから、初めから中央ということを考えていらしったに相違ない。それならば、天孫がお降りになるのに、初めから國の中央である大和にお降りになったら宜ささそうなものである。何故西の方に偏った日向などにお降りになったのであろうか。斯ういうような疑いを起す者があるのであります。
解説
この章に置かれた「或疑」。問いは的確である。二神が「国の中央」としたのは磤馭盧島(淡路のあたり)なのに、なぜ天孫は西に偏った日向に降ったのか。
これは素行の議論の弱点を突いている。「中」を国土の中央として説いてきた以上、降臨の地が中央でないことは説明を要する。
素行が自分でこの問いを立てて答えるところに、この書の誠実さがある。附録「或疑」が一巻をなすほど、素行は反論を自分で立てて答える形式を好んだ。中國章のこの一節は、その本編内での実例である。
答えは次段で示される。
中國章 五(承)末季の俗意を以て上古の靈神を量る勿れ底本 二一二〜二一三頁
原文
愚竊謂。是末季之俗意。以量上古之靈神。甚渉意見臆説也。
訓読
愚竊かに謂へらく、是れ末季の俗意を以て上古の靈神を量り、甚だ意見臆説に渉るなり。
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
之に対して素行が答えて言うのには、それは末の世の者が勝手に自分の考えで昔の神様のなさることを推し量るのであって、要するに一体の臆説で、後世の者の我が儘な考えから左様な批評をするのであるから、そういうことは固く慎しまなければならぬ。
一体此の神々の為さる事というものは、眼の前のことばかりを主としてなさるのではない。「悠久にして」――非常に長い間掛かって其の効果が現われるように、詰り末の末までもよく見て万事をなさるのである。それであるから、初めにうまく行ったらそれで宜しいというようなものではない。
凡て物事を始めるのには、先ず易しい所からやらなければならぬ。易しい所からやって、そうして充分の実力が出来てから困難を冒すようにもなるので、此の順序を守るということが大切である。
解説
或疑への答え。「末季の俗意を以て上古の靈神を量る」――後の世の常識で昔を測るな、というのが素行の反論である。
天先章第三段の「庸愚の舌頭を容るべからず」、附録「或疑」十五節と同じ形の答え方である。分からないところを分からないままにしておくという作法。
ただしこの答え方には限界がある。反論を封じることはできても、自説を裏づけはしない。素行もそれは承知していたようで、続けて実質的な理由――易しい所から始めるのが順序だ――を述べる。次段がそれである。
中國章 五(承)易に因つて其の極を建つ ── 易しい所から始める底本 二一三頁
原文
神聖之道悠久。而其成也易。先因其易。建其極。考其過化。而洪其業。實萬世不拔之大基。
訓読
神聖の道は悠久にして其の成るや易し。先づ其の易に因つて其の極を建つ。其の過化を考へて其の業を洪くす。實に萬世不拔の大基なり。
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
そういう訳であるから、此の日向の地方は、他が非常に乱れたような状態であるのにも拘わらず、初めから随分治め易い所であったので、此処に初め根拠を建てられて、それから力を養うて後に他に及ぼすようになされるという御考えなので、これは自然の順序である。
それで「易に因って其の極を建つ」――一番初め、治め易い所から事を始められたのである。そうしてだんだんに其の力が他に及んで行けば、「其の業を洪くす」――即ち日本全國を治めるというようなことになって行くのである。斯ういうように一歩々々と進んで行くから、其の出来上った後には極めて堅固である。
それには随分久しく掛かるけれども、久しく掛かって出来上ったことであるから、出来上った後には其の事業というものが永久に続いて、そうして根本が固くして決して抜けるということはない。即ち「万世不抜」――何処までも國が栄えて行くという其の根柢が、ここに固まったのであります。
解説
「易しい所から始めて、時間をかけて広げる」――これが或疑への実質的な答えである。
眼目は「随分久しく掛かるけれども、久しく掛かって出来上ったことであるから…決して抜けるということはない」。時間をかけたものは崩れない、という考え方である。
天先章第一段の「柱=建つて而も拔けざるの稱」、中國章 その一 ck12「柱がシッカリして居れば家が動かない」と同じ語(不拔)がここで戻ってくる。國常立尊の「立」が、東征の遅さの説明にまでつながっている。
附録「或疑」六節の「紅藍紅を染めて、紅は藍より紅なり…その染練の久しきに在り」――染め重ねの久しさが色を作る――と同じ発想である(『中朝事實』十五・或疑 六節)。
中國章 五(承)博厚・高明・悠久 ── 中庸に説く聖人の事業底本 二一三〜二一四頁
原文
博厚配地。高明配天。悠久無疆也。
訓読
博厚は地に配し、高明は天に配す。悠久は疆りなきなり。
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
一体、中庸などにも言ってあるように、聖人の事業には「博厚」ということと「高明」ということが具わって居なければならぬ。博くして凡てに及ぶ所の徳がなければならず、又厚くして尽きない所の力が具わらなければならぬ。これは即ち、地が厚くして万物を生じ万物を養うことを手本とするものである。
また「高明」であって少しも私がなく、凡ての物を照らして行くというような晴れ晴れとした気分というものが具わらなければならぬ。これは天に日月が懸かって万物を照らすのを以て手本とするものである。
そうして此の天地に象どった所の人間の働きというものは悠久で、決して今の眼の前だけに執われるものではない、永遠に限りなき所の力が後に伝わるのであります。
解説
『中庸』二十六章――「博厚は地に配し、高明は天に配し、悠久は疆り無し」――をそのまま引く。素行の按語がここで漢籍に直結する。
天先章第二段でも「天道は息むこと無くして高明なり。地道は久遠にして厚博なり」と同じ枠組みが使われていた。この三語(博厚・高明・悠久)が、天先章と中國章をつなぐ骨組みになっている。
小林の言い換えが分かりやすい。博厚=地の厚さ/高明=日月の明るさ、私がないこと/悠久=眼の前だけに執われないこと。
中國章 五(結)旣に萬世に鑑みる ── 二神の御精神の發展として底本 二一四頁
原文
二神以國中之柱爲者。大日本可爲中洲所以之言也。二神之聖旣鑑萬世。以此洲爲中國。以天孫主此洲。其天壤巍巍乎哉。
訓読
二神國中の柱と爲す者は、大日本の中洲たるべき所以の言ひなり。二神の聖旣に萬世に鑑み、此の洲を以て中國と爲し、天孫を以て此の洲の主とす。其れ天壤巍巍たる哉。
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
斯ういう訳であるから、此の伊弉諾・伊弉册尊が國の中央というものをお定めになったということは、此の天地の道をお手本として、そうして永久に後にまで伝えるという御趣意なのであった。此の伊弉諾・伊弉册尊の御精神がだんだん発展して、此の國が「中州」――即ち他の國をよく教化し統一する所の中央の土地となるということが考えられるのであります。
それですから、此の伊弉諾・伊弉册尊のお働きというものは、「既に万世に鑑み」――後の後のことまでもよくお考えになって、そうして此の日本の國を中國とするという御理想で此の國土を経営されて、それからいよいよ天照大神の時になって、皇孫を此の地を治める為めに御降しになって、君主と御決定になったのである。斯ういうように考えれば宜しいのである。
洵にこれは神代からの道が人皇の世に至って、神武天皇以後の歴代の皇室の御事業となって発展して来たものと解すべきであって、巍々として本当に万國の手本となるべきものと謂って宜しい訳であります。
解説
第五段の結び。素行の「其れ天壤巍巍たる哉」――高くそびえている――で締めくくられる。
この段の運びを振り返ると、神代(二神の柱)→天孫降臨(日向)→神武東征(大和)という三段が、すべて「中」の一語でつながれている。中國章の骨格がここで完成する。
読むときの注意。小林の「他の國をよく教化し統一する所の中央の土地」という言い方は、素行の「中洲」(国内の中央部)を対外的な役割に読み替えたものである。この冊の ck42 と同じ拡張で、そのつど確認しておきたい。
中國章 六腋上嗛間丘より國狀を望む ── 妍哉乎國の獲つるかな底本 二一四〜二一五頁
原文
神武帝三十有一年。夏四月乙酉朔。皇輿巡幸。因登腋上嗛間丘。而廻望國狀。曰。妍哉乎國之獲矣。──妍哉。此云鞅奈珥夜。──雖內木綿之眞迮國。猶如蜻蛉之臀呫焉。由是始有秋津洲之號也。
昔伊弉諾尊目此國曰。日本者浦安國。細戈千足國。磯輪上秀眞國。──秀眞國。此云袍圖莾勾儞。──復大己貴大神目之曰。玉牆內國。及至饒速日命乘天磐船。而翔行太虛也。睊是鄕而降之。故因目之。曰虛空見日本國矣。
訓読
神武帝の三十有一年夏四月乙酉朔、皇輿巡幸し、因りて腋上の嗛間丘に登りて、國狀を廻らし望みて曰はく、妍哉乎國の獲つるかなと。(妍哉は此には鞅奈珥夜と云ふ)内木綿の眞迮國と雖も、猶ほ蜻蛉の臀呫の如しと。是に由りて始めて秋津洲の號あるなり。
昔伊弉諾尊此の國を目けて曰はく、日本は浦安の國、細戈千足國、磯輪上秀眞國と。復大己貴大神之を目けて曰はく、玉牆の内國と。饒速日命天の磐船に乘りて太虛を翔行くに及んで、是の鄕を睊て之に降る。故に因りて之を目けて虛空見日本國と曰ふ。
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
次に、日本の國にいろいろな名称が与えられて居りますので、其の意味を説明してあります。
神武天皇の三十一年の夏四月に、モウ國内も平らかになったものですから方々を御巡幸になったのでありますが、非常に高い所があって、其処へお登りになって見下ろされると、日本の地形が大体解るので、此の時に仰しゃるのには、これは非常に良い國である。「妍哉」というのは非常に美しい、或は好ましいというような意味で、斯うやって見下ろすと山や川も美しいし、草木も繁って居るし、洵にこれは住むに適する所の良い國である。國がいろいろある中でも、これは殊に勝れた國である。「國の獲」――「獲」というのは獲たる物という意味で、即ち最も善いものという意味であります。
解説
第六段。国の名づけが一気に並ぶ。『日本書紀』神武三十一年の国見の記事である。
四つの名が挙がる。秋津洲(蜻蛉の臀呫の如し)、浦安國・細戈千足國・磯輪上秀眞國(伊弉諾尊)、玉牆内國(大己貴大神)、虛空見日本國(饒速日命)。
中國章 その一で「豐葦原千五百秋瑞穗」を一字ずつ解いたのと同じ方法が、ここでもう一度、より多くの名に対して行われる。名から実を読む――この章の方法が、最後にまとめて実演される箇所である。
中國章 六(承)蜻蛉の臀呫 ── 秋津洲の名の起り底本 二一六頁
原文
雖內木綿之眞迮國。猶如蜻蛉之臀呫焉。由是始有秋津洲之號也。
訓読
内木綿の眞迮國と雖も、猶ほ蜻蛉の臀呫の如しと。是に由りて始めて秋津洲の號あるなり。
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
洵に凡てが調和した所の美しい國である。「内木綿の眞迮國」――本当に國の中がよく纏まって、真によく治まって行くべき國であると考えられる。
併し其の形を見ると「蜻蛉」――即ち蜻蛉が「臀呫」――体を曲げて尾の方を口で嘗めて居るような形をして居る。斯う仰しゃった。此の時に蜻蛉の形に似て居ると仰しゃったのに基いて、「秋津洲」という名が起った。「あきつ」というのは蜻蛉のことであります。
解説
中國章 その一の ck16 で予告されていた「秋津洲」の出典が、ここで示される。
「蜻蛉の臀呫の如し」――蜻蛉が体を曲げて尾を口でくわえたような形。国土の輪郭を、そのまま生き物の姿になぞらえる。素朴だが具体的な、印象に残る比喩である。
ここには優劣の議論がない。形が似ているから、そう呼んだというだけである。名を解く方法がすべて優越論に向かうわけではないことが、この一段からよく分かる。
中國章 六(承)浦安國・細戈千足國 ── 隅から隅までも安らかに底本 二一六頁
原文
昔伊弉諾尊目此國曰。日本者浦安國。細戈千足國。
訓読
昔伊弉諾尊此の國を目けて曰はく、日本は浦安の國、細戈千足國と。
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
それからまた、それより前の昔からの言い伝えに依ると、伊弉諾尊が此の國に名づけて、此の國は「浦安國」だと仰せられ、また「細戈千足國」だと仰せられた。
「浦安國」というのは、浦々までも安らかな國という意味、中央は勿論、方々の浦までも、詰り隅から隅までも安らかになって行くべき所の、洵に勝れた國である。斯ういう意味であります。
それから「細戈」というのは武器の非常に勝れて居ることで、「千足」というのは其の戈が充分にあるということ、即ち日本は非常に勝れた武器を沢山持って居る國であるということで、これは其の武器に依って人民の気象を表わしたのであります。即ち日本の者はみな武勇であって、此の國を護る為めには命を惜しまないというような者ばかりである。斯ういう意味で、細戈千足國と仰せられたのであります。
解説
浦安國――「浦々までも安らか」。中央だけでなく隅から隅までという点に、小林は力点を置く。
細戈千足國――すぐれた武器が十分にある国。小林はこれを「武器に依って人民の気象を表わした」と読む。武器そのものではなく、それを持つ人々の気風のことだ、と。
この二つの名が並ぶことに意味がある。安らかであることと、備えがあることとは両立する。武德章三十三節「事に先だちてこれが備を積み、事なくしてこれが防を爲す」と同じ考え方である(『中朝事實』十三・武德章 三十三節)。
中國章 六(承)磯輪上秀眞國・玉牆内國 ── 牆を繞らしたる國底本 二一六頁
原文
磯輪上秀眞國。──秀眞國。此云袍圖莾勾儞。──復大己貴大神目之曰。玉牆內國。
訓読
磯輪上秀眞國と。(秀眞國は此には袍圖莾勾儞と云ふ)復大己貴大神之を目けて曰はく、玉牆の内國と。
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
それから「磯輪上秀眞國」というのは、詰り海の果てまでもみな秀でて居る所の國であるということであります。洵に頼もしい人間が集まって居る國であって、果てから果てまで本当に良い國である。斯ういう意味であります。
それから大己貴神は、また此の國を「玉牆の内國」と仰しゃった。牆というものがグルッと繞らしてあると、其の中は安全である。日本は四方に牆を繞らしてあるような國で、國内は洵に平和で、洵に安全であって、外から侵されたり、他の國の圧迫を受けたりするようなことは決してない。斯ういうことを予めお考えになって、玉牆の内國と仰しゃったのであります。
解説
磯輪上秀眞國――海辺まで、果てから果てまですぐれている国。玉牆内國――玉の垣で囲まれた内側の国。
「玉牆」を四方の海と読むのが小林の解である。島国であることを守りの利として読む――これは近世以来しばしば語られてきた見方で、素行のものというより、その後の日本で育った読み方に近い。
読むときの注意。「外から侵されたり、他の國の圧迫を受けたりするようなことは決してない」という断定は、事実として言えるものではない。元寇も、幕末の砲艦外交もあった。名から実を読む方法が、願望を事実として語らせてしまう典型的な箇所である。
中國章 六(承)虛空見日本國 ── 饒速日命、空より此の郷を見て降る底本 二一六〜二一七頁
原文
及至饒速日命乘天磐船。而翔行太虛也。睊是鄕而降之。故因目之。曰虛空見日本國矣。
訓読
饒速日命天の磐船に乘りて太虛を翔行くに及んで、是の鄕を睊て之に降る。故に因りて之を目けて虛空見日本國と曰ふ。
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
それからまた饒速日命は、神武天皇の大和にいらっしゃる前に大和に居られたのでありますが、其の饒速日命が大和に来られた時に、天の磐船に乗って太虚を翔って来られて、そうして太虚から「是の郷」――即ち大和の地方を見て、此処は良い所である、上から見て将来の見込みを立てて、草木も蒼々と繁って居るし、山や川の姿も美しい、此処こそ自分の住むべき地であると言って、それから其処へお降りになった。
そこで、空から見たという縁で、此の大和の國のことを「虛空見日本」と申すのであります。即ち饒速日命が既に此の大和地方の良い所であって、國の都となるべき所だということの見込みを付けて、此処にお住みになったのであります。
解説
「そらみつ大和の國」――万葉集にも見える枕詞の由来譚。『日本書紀』神武三十一年の記事による。
饒速日命が空から国を見て降りた。上から見て土地の善し悪しを見定めるという発想が、神武天皇の国見(ck50)と重なっているのがおもしろい。この章では、国土は必ず「見られる」ことで評価される。
次段で、この饒速日命が神武天皇に国を譲る話になる。
中國章 六(結)饒速日命、國を讓る ── 長幼本末の順を誤らず底本 二一七〜二一八頁
原文
睊是鄕而降之。故因目之。曰虛空見日本國矣。
訓読
是の鄕を睊て之に降る。故に因りて之を目けて虛空見日本國と曰ふ。
現代語訳小林一郎 講述(現代表記)
併しながら、神武天皇が御東征に相成るに及んで、此の饒速日命の御一族と、それから神武天皇の御血統とを比べて見ると、同じ神々の御子孫であるけれども、神武天皇の御家の方が御本家であって、饒速日命の方はお分れになったものであるということが、此の両方に伝わった戈や何かの武器を比べて見て解った。
そこで此の饒速日命の方は、御本家の血統の方が此の土地へおいでになったのならば、此の土地をお譲り申して、自分はこれに臣下として事えて、共に力を協せてこそ此の國は永久に平和になるであろうというお考えから、神武天皇に國をお譲りになりまして、饒速日命の御子孫は臣下として永くお事えになったということなのであります。
斯ういうような訳で、大和が中央となって日本全体が平和に治まるということは、神武天皇が此の地にお着きにならない前から既に定まって居たのであるが、併しながらまた、謂わゆる本と末との関係というものを重んぜられて、前から居らしった饒速日命が神武天皇に此の中央の土地をお譲りになったという所に、謂わゆる大義名分を明かにし、長幼本末の順を誤らないという、尊い日本の國風が現われて居ると考えられるのであります。
解説
第六段の結び。饒速日命の国譲り。『日本書紀』では、饒速日命が長髄彦を斬って神武天皇に帰順した話として語られる。小林はその血なまぐさい部分に触れず、本家と分家を確かめ合って譲ったという側面だけを取り出す。
眼目は「本と末との関係」「長幼本末の順」である。力で決めたのではなく、筋目を確かめて譲った――そう読むことで、東征の物語が「正を養う」(ck40・ck41)の話とつながる。
読むときの注意。『日本書紀』の記述はもっと複雑で、長髄彦との長い戦闘と、その殺害を含む。譲位の面だけを取り出す読み方であることは、承知しておきたい。討たれた側の視点は、ここにも現れない。
とはいえ、本末の筋目を力より上に置くという価値観そのものは、素行が賞罰章・禮儀章で一貫して説いたところである。